オーノス・チョクトサンの西北ルポ*1で、熱心に敬慕されていた張承志サンの本を読んでみようということで、読みました。
黒駿馬 (早稲田大学出版部): 1994|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
以前読んで忘れてるだけの可能性もあったのですが、読んでませんでした。「新しい中国文学」で読んでたのは池莉『初恋』でした。ウロルトも、たぶん読んでない。*2
巻頭に、作者による一文「日本の読者の皆さんへ ー「黒駿馬」をめぐってー」があり、その時点(1994年1月)では、モンゴル人インテリから、モンゴル人でない知識分子がモンゴルを文学の題材にすることについて嫌悪する意見があったと書いてます。
頁v
(略)私はそこに一種のタブーを感じ取った。そこで私は意識的にモンゴル草原から離れようとした。この作品の映画化を拒否し、一連の草原のテーマを放棄し、あまりモンゴル草原について書かないようにみずから選択した。
じっさいには、この翌年、謝飛監督のもと、中国・香港合作で、オールモンゴル人キャスト、使用言語もモンゴル語で映画化。おばあさん役には、最近の言い方ですと北モンゴルの、国民的女優タリカスーロン"Dalarsurong"《道力格尔苏荣》という人が参加してるそうですが、キリル文字のモンゴル語に辿り着けなかったせいか、その人の検索結果ははかばかしくないです。映画は《黑骏马》そのままのタイトルでなく、《爱在草原的天空》というタイトルなの???という結果も出ました。英題は"A Mongolian Tale"*3で、邦題は「草原の愛 モンゴリアンテール」当時の配給は大映、東光徳間で、ヤフー映画のコメントによると、NHK教育が午後に流してたアジア傑作劇場でたま~にテレビ放映されてたそうですが、今、ネットフリックスやアマゾンプライムで配信されてるかというと、それはなさそうです。
草原の愛 モンゴリアン・テール : 作品情報 - 映画.com
巻末の訳者解説によると、張承志サンはモンゴルから自らのルーツ、回族へと関心の対象を移し、本書に収められた三つの作品のうち、『三叉戈壁』が寧夏を舞台にした作品。そしてさらに、小説という表現形式を離れる傾向にあったのが、本邦訳刊行時点での張承志サンだったとか。
早稲田大学出版部が訳載した《黑骏马》は、1983年刊行の百花文艺出版社《百花中篇小说丛书》が底本とのこと。
『黒駿馬』"The Black Steed" 《黑骏马》1983
頁25
当時、私が好んで歌ったのは『アラ・ノール』、駿馬を讃えた単純明快な歌であった。一匹の神馬の一歳から始まって、二歳になり、成長するまでのさまざまな奇跡と能力を歌い、最後は「ダライ・ラマの競技会ネールで七十三回も優勝した」と結ぶ。
ふしぎなのですが、この小説の中文版Wikipediaが記載してるのは、2011年の青海人民出版社版です。
頁77
「子供は全部で四人?」
「そうだ。四人だけだ。知らないのかい? 公社の衛生院ときたら、いたるところで女たちを掴まえて“去勢”さ。チクショウメ! ソーミヤ――あんたの妹も去年あいつらに――(後略)
強制不妊手術が明記されてますが、これは例の、江湖を騒がせている未婚女性へのそれではなく、産児制限目いっぱい産んで、まだ生みそうなのでやったった、というやつです。
映画あらすじでは「遊び人のシャーラ」と分かりやすく書かれる、「赤毛のシャーラ」という人物がいます。彼が、水汲みに行った主人公バイン・ボーリグの許嫁ソーミヤを手籠めにし、発育不良の女児チーチグを産ませます。「彼に弄ばれた牧民の女がどれほどいるか、数えきれないくらいだ。草原には醜い赤毛で、生気のない暗い眼をした子供が何人もいる」(頁56)彼のその後は分からないのですが、唐突に「彼の娘」が登場する箇所があります。
頁105
私は町に住むある友人のところで、彼の娘の写真を見たことがある。アメリカから送られてきた、コダックで撮った大きなカラー写真であった。写真の中の女の子はチーチグと同じぐらいの年恰好で、父親と別れた母親につれられてあの“極楽世界”に行ってしまったのだ。写真の中の女の子は、胸に”HAPPY"と書いたTシャツを着て、金髪の子供たちの中で楽しそうに遊んでいる。彼女はほんとうに楽しそうで、幸せそうに笑っている。私は、その子がなんのくったくもなく父親と祖国を忘れてしまったことにある種の感慨を覚えたものだ。
だが、チーチグは全然ちがっていた。彼女は襤褸を着て、ぼさぼさの髪は櫛を入れたあともない。彼女は小さな脚と手を動かして湖から桶いっぱいの水を汲んでくる。彼女はおかしくもあり、憐れにも思う格好で、自分と背丈のいくらもちがわない弟を抱いて子守りをする。
私は、シャーラは白系ロシア人の血を引いていて、それゆえにモンゴル人のコミュニティでは肩身が狭く、なのでやさぐれて女性に情動が向かっていたのではと、ここを読んで思ったのですが、やや強引かもしれません。文革が終わって改革開放が始まって、海外と交流が出来るようになると、親戚が呼び寄せて、国外脱出するものがいくたりもいた、という話を、妙にまわりくどく書いたのが上記と思ったのですが、シャーラでなく、シャーラの奥さんの話だしなあ。チーチグの発育不良は、早産故というふうに説明されているのですが、私もまた、大躍進の飢餓による幼少期の栄養不良を疑うものです。ちょっと年齢があわないのですが、モンゴルでは文革期も飢えていたという事実があるとは知りません。
頁108
「みんな聞いて! 今、学校の会議が終わったところよ。会議で、ソーミヤ嫂さんを正職員に嘱託することに決定したわ! なんでもあなたに学生の生活管理をしてもらうとか。ソーミヤ嫂さん、わかる? これから子供たちはあたなのことを”先生”って呼ぶのよ!」
彼女は快活にしゃべりながら、すばやく、湯気のほかほか立っている白い饅頭マントウを卓袱台の上に置いた。
(略)
「フン、バイン・ボーリグ、聞いたかい、こいつが”先生”だとさ。そのうちおれにも自治区の”党書記”になれと言ってくるかもしれんぞ、ばかばかしい!」
(略)
ソーミヤは恐縮し、恥ずかしそうに座っていたが、不安そうに箸を弄び、料理を食べるのも忘れていた。
今でも自治区の党書記レベルを揶揄う表現をして、何の問題もないならいいなあと思います。分からない。そして、モンゴル人はこのくらいの合作社だと箸で食事してるんだなあと。このくらいでなくても、どこでも箸かもしれません。
「駿馬」は日本語では「しゅんめ」と読みますが、*4『黒駿馬』にルビは振られておらず、強いて言うなら、モンゴル語の「ガンガ・ハラ」という言葉を当てるといい感じです。漢語の音訳が“钢嘎·哈拉”であることは分かりましたが、キリル文字のモンゴル語のスペルは分かりません。「ハラ」はたぶん"хар"で、青毛の馬を言うみたいで、「ガンガ」は、シャレオツとかシャンとかそういう感じの意味と序文で張承志サンが述べているのですが、グーグル翻訳で何を試しても今のところ「ガンガ」っぽいスペルのモンゴル語は出ません。
『緑夜』"The Green Night"《绿夜》1982年
『黒駿馬』が感情過多で、ひょっとしたら張承志サンは感情のコントロールに何かあったりして、と思うのに比べ、こちらは、下放先に再訪した時の、リアルな描写が印象に残る作品です。
かつて草原から都会に戻った青年が、結婚し、そして。
頁118
(略)それなのに、ああ、生活よ――冬には練炭運びや白菜の貯蔵。夏にはブンブン群をなす蚊や蠅。安普請のアパートの階下の、四六時中、機械のうなる町工場。豆腐を買うための長い行列……これらがいつのまにか彼の詩を埋めてしまったのだ。
かつての下放ライフは下記。
頁124
(略)大吹雪の夜、野営地のテントの中で、あかあかと燃える牛糞の炎を囲んで、あれこれの歌を歌った経験がないのを気の毒に思う。「われらが旗は炎のごとく/星と松明が前途を照らす/爺さま僕らを果樹園へ/これ、子どもたち、喧嘩はお止し/僕らは少年先鋒隊、楽しい少年先鋒隊/さあさあみんなで歌おうよ」私たちは元気よく次から次へと歌ったものだ。もちろん、「紅河の村」「長征組曲」「十五夜の月」や、作者が、張春橋に十年の刑を言いわたされた「知識青年」の歌も歌った。そうやって歌っているとふしぎな感動がこみあげてきて、みんな歌いながら、心通いあうまなざしを交わし、微笑みあったものだ。涙、豊饒な酒、草の露……やがて、みんな草原を去っていった。
じっさいにはきれいごとだけでなく、腹黒い奴は腹黒かったと思うのですが(キンペーチャンなど)それはそれで。で、改革開放後得た知識の中には下記のようなものも。
頁140
かつて日本の岡林信康はこう歌った。
「帰らぬ昔が懐かしい」
さだまさしの歌にもある。
「あなたは去りゆき、頬に涙して」
なんだかんだいって、モンゴルは、日本に近いですね。往来が解禁されたらこれだけのことがある。
『三叉戈壁ゴビ』"Three Forks, The Gobi Desert. " 1987年
ゴビ砂漠のゴビはカタカナで書けばいいのに、ついつい漢字表記〈戈壁〉を使ってしまう、これがザ・日本における中華四千年の呪縛。ネトウヨなのに漢検受ける人とか、いるわけで。
この小説は鬱だったのか、寧夏南部の回族村に住んで農業試験を行う青年という設定で書き進めてますが、特にパーッと明るい描写はありません。句読点抜きで文章をダラダラ書くという技を中文で試みてるそうですが、それは例の漢字のラレツでのみ効果がある実験なので、邦訳では採用しなかったと、訳者解説にあります。
で、『黒駿馬』に戻りますが、モンゴル民謡のこの歌に、なぜ心を揺さぶられるのか、主人公が知識人に教えを乞うたところ、こう言われます。
頁4
「簡単なことだ。それはまだ蕾の状態にある童心が強烈な人間性に揺さぶられたというだけのことさ。だがこの歌は素朴にはちがいないが、そんなに強い感動を与えるとは思えないな」
主人公は納得しません。なぜこの歌はいまだ自分の胸の中でなりやまないのか。知識人は答えて、それは大人になってから、愛がひきつけるからだと。感情多い。
オーノス・チョクトさんはその著書で、ソーミヤの最期のせりふを引用して、その圧倒的な力に感服した旨述べています。中文版ウィキペディアの記述者も同じだったようで、そのせりふの原文(中文)が載っています。
“如果你将来有了孩子,你又不嫌弃的话,把孩子送来吧,养大了我把他/她还给你!”
しかし早稲田大学出版部の邦訳には彼女のせりふの続きが載っていて、強制不妊手術で自分は子どもが産めない身体になってしまったが、赤子を抱けない人生なんて自分には考えられない、だから子どもを送ってほしい、育てるから、育てて返すから、と言うのです。21世紀のウィキペディアがそれを書かないのはしかたないですが、オーノス・チョクト先生がそこまで書かなかった理由を、推察してみるのも意味があるかもしれません。
上の動画はジジ・リョンの《嫌弃》2019コロナカ前のライブ。以上