小さい母さんと呼ばれて : チベット、私の故郷 (集英社): 2006|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
装画・扉絵◆谷口靖子
地図◆テラエンジン
書き下ろし。
たまたま図書館にあった本。非常にいい本ですが、今こうした本を集英社が出せるかというとどうかなと思います。集英社が2006年当時この本を出せたのも、椎名誠のパートナーの渡辺一枝サンのチベット本を二冊すでに出していて、北京五輪前の、中国も無事開催するために身辺をきれいにしてクリーンムードを演出し、欧米からの批判にある程度忖度するのではないか、という希望的観測ムードがあったからではないかと思います。しかし、1994年に台湾本土化ムードの時に出した『台湾のいもっ子』*1は2006年当時も変わらず品切れ再版未定の塩漬けで、金美齢のパートナーの人の働きで翌年の2007年に角川学芸出版から再版されたわけなので、集英社や当時の空気としては、チベットゴー、台湾様子見だったのかもしれません。そして長野聖火リレーでは、チベット抗議デモ行進とまったく別の場所、のちに台湾人選手と結婚離婚する福原愛サンの走る前に台湾在住のチベット人がチベット旗を持って飛び出し、その人は沿道を埋め尽くす中国人留学生の群れがかけた五星紅旗の旗に包まれ、目撃者のいないその下でどうのこうのと当時2ちゃんなどに書いてありましたが、今それを読もうと検索しても何も出ません。
チベットの黒五類としてまともに教育を受けれなかった女性が、インドに出て教育を受け、帰国後今度は日本に行くことが出来、そして、ひさかたぶりにチベットを訪れます。幼少時彼女の家に預けられて、彼女を小さな母さんと呼んだ親戚の子が、成人後黒社会と監獄を経て長距離トラックの運転手をしており、彼のガイドで、成都からラサまで、あちこち寄り道をしながら旅をします。この頃は、こういうことが出来たんだなと思います。現在は、国境が完全に封鎖され、警備も監視も厳格に行われるようになったので、インドで教育を受けて自治区へ戻るなどということはまったく出来なくなったそうです。ダラムサラとメインランドの往還は途絶え。そこで、日本から金日成総合大学に行くことはまだ出来るんだろうなと思うのはちょっと話がずれると思いました。そっちに思考を巡らすのでなく、本書の旅、政府に批判的な海外在住者の帰国が、こんなにのほほんとした時代も終わって、シビアな理由後付けの公安拘束の恐怖がいまなんだもんなというふうに思索を進めないと、本書の感想から逸脱してしまう。
題名のチベット語が、形容詞プラス名詞でなく、名詞プラス形容詞の順番なのは、チベット語の文法がそうだからで、むかしエキスプレスのチベット語を開いて、チベット語では「美しい花」ではなく、「花、美しい」のじゅんばんの文法なんだよと書いてあったのを思い出しました。で、「母親」ཨ་མ(アマ)と「小さい」ཆུང་(チュン)を検索で見つけ、これであと「ワ」が分かればアマ・チュンワの綴りが分かるなと思いながら、その二つの単語を検索にかけると、「アマ・チュンワ」ཨ་མ་ཆུང་བ།というそのものズバリ、本書をひとり芝居にした公演のFBが出て、三十回も公演してるとのことで(三十回で一度おしまいにしたとか)なんだかちょっと損した気になっています。公演のチラシがセルニャみたいな作りなので、セルニャのバックナンバーを読み返すと、役者さんその他について、何か書いてあったのかもしれません。
グーグルマップでルートを辿ってみたが、ラサの一個前までしか目的地を追加出来なかったという地図が上です。あと、ダルツェンドを抜かして、雅安を入れてました。
頁29に、作者のチベット区分が書いてあるのですが、ウー、ツァン、アムド、カムの四地方は当然として、カムと並べてギャロンを独立地方として入れ、ブータンや東インドと接する地域を「ロカ」、さらに東のビルマと接する地域を「コンボ」と書いてるのが新鮮でした。西インドや新疆と接する地方を「ンガリ」と書いてるのは分かります。そして、ギャロンは分けたけど、ゴロは分けてないのに( ´_ゝ`)フーンと思いました。
<目次>
・成都
ツェリンから日本に国際電話がかかってきて、作者がとると、まず漢語で”喂“と言われます。作者はチベット語で「はい」と答えるのですが、チベット語でなんというか分からないので、ニューエクスプレスでも読んでみます。頁25。ツェリンは成都で暮らしてるそうです。五回四回くらい結婚を繰り返したそうで、作者的にはそれは全然おかしくなくて、悪縁は早く断ち切らなければいけないから、離婚はよいこと、という理屈だったかな。でも養育費は払うそうで、子どもを考えると、この結婚は失敗だったなんてかんたんに言ってしまっていいのと思う気持ちも、読んでいてあります。頁55。
上の記事、十位がスィリン(西寧)でした。蘭州はランク外。八位が歌舞伎町案内人。四位の広州、七位の瀋陽、九位の合肥(行ったことありません)は意外。
・ダルツェンド
雅安因其地多雨,素有“雨城”之称
上と同じことが本書にも書いてありますが、私が気になったのは下記です。
頁35
(略)今の雅安の町に、昔日のチベットの面影を見つけることはできない。道筋の食堂の多くは、川魚を供することをキャッチフレーズにして看板を掲げていた。何もかもが、まったく中国そのものだった。
ワケアリの死人を水葬にし、魚を決して食べないチベット人らしい描写だと思いました。魚に関する記述はほかにもありますが、日本語監修をした人がもしいたのなら、その意味を見過ごしてるかもしれません。
頁42にも上の教会は登場し、長征時毛沢東が宿舎にしたと石碑に書かれていて、その前の宣教師たちの時代について何の記述もない点に触れています。上の英語版ウィキペディアもかつての伝道師たちには触れてませんので、ホントウに謎になってしまってるのかもしれません。なんとなく、下記チベット人英語話者の小説を思い出しました。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
また、この村はミニヤコンガ登山口だそうで、遭難邦人救助者もこの村の人だそうです。
私はランクルチャーターが出来るようなお金持ちでもないかったし、ローカルに偽装して見破られないような語学力も行動力もないかったので、都江堰や雅安までは行けるが康定行きの切符は売れないとバスターミナルで言われてすごすご引き返してたクチです。
・カンゼ
・ペユル
ガンゼから白玉に行く途中で道路工事を見かけるのですが、工事人夫はだいたいが漢族で、チベット人はごく少数しかいなかったそうです。本書は、中国人チベット人という書き方をしますが、私はこのブログでは漢族チベット人という書き方をしているので、ここでもそうします。
頁75
(略)他所から大量に中国人労働者を呼び寄せているのだ。数人の中国人が、川岸で釣りをしていた。ツェリンと私は「オム・マニ・ペメ・フム」と真言を唱えて、そこを通り過ぎた。
ほんとにおサカナちゃん©サカナくんと交わるのがイヤで、交わる人もイヤなんですね、チベット人は。
上記噶陀寺に行くと、宿坊は漢族客で満室で、彼らは観光客ではなく、五百万元を寄進して法要を営んでもらっている深圳在住の、化身ラマ信者たちだったそうです。その化身ラマの名前、トォンジョ・リンポチェが上のウィキペディアに載っておらず、よく分かりません。
・デルゲ
セルタのとあるゴンパが急速に拡張したのでお取り潰しに遭ったという話がここの道中で出ます。なんか、旅行人かどこかで聞いた話と思います。
頁91
(略)追い出された信者はチベット人ばかりでなく、中国人も多数居たそうだ。
・アシュ
ここを調べるのがいちばん時間がかかりました。アシュはケサル王が生まれた土地だそうで、それとは関係なく、亡命チベタンは〈赛马会〉を見たことがないので、文化の継承に大きな問題があると、作者は物思いに耽ります。また、こんなところにも、青年回族の漢方薬買い付け業者が来ていて、こんな記述があります。
頁116
私は回族には良い感情を持っていない。はっきり言えば憎んでさえいたが、こうして話している彼には嫌悪感が湧かなかった。結婚して、子どもも一人居るという彼は二十五歳、回族の習慣ではニ十歳になったら結婚するそうだ。
これは、なんとなく理解出来るけど共感しないチベット人の一面です。もちろん、回族にもしょうむない人がたくさんいるのも理解してます。
・ジェクンド
サキャ派なので、上の写真のような赤い寺院には違和感があります。青い寺院だろうと。
・ナンチェン
ここで訪れた寺院に、ジェット・リーもおしのびで来ていて、出っくわします。ジェット・リーはここの山奥の僧院に三千万元寄付したんだとか。
また別の寺院では下記の記述があるのですが、場所が特定出来ませんでした。
頁151
(略)そしてまたこの僧院のアデ・ドォンジョ・リンポチェには中国人の弟子も多く、瞑想窟のある山の方に新たな僧院を作ろうと、今その中国人の弟子たちが計画しているという。僧院内の千体仏は、香港の人がネパールで作らせたもので、自身で運んできて寄進したという。
バミ・ゴンパもチュチョ・ゴンパも、中国人の信者たちが資金を提供して僧院が建てられている。その信者たちは、チベットの現代史を知っているだろうか。現代のチベット人の生活が、見えているだろうか。もしもそうなら、私たちは希望を持てるだろうか。
逆にこれが、ウイグルにはなくてチベットが持っている強烈な武器で、明も清も、貴族皇族をバカスカてなづけてしまった懐に入り込んで篭絡する神秘の手口なので、通俗小説ではだからラマ僧といえば悪役で、陳舜臣に至るまで中国文人はその色眼鏡を持ち続けていて、だからこそ中国で共産党の「宗教は阿片だ」は別の意味合いを持つという。
・ナムツォ
ラサにも近いので、とっても有名な湖で、観光資源です。頁160で、作者は日本にいる時に、日本人は環境保護に熱心で、チベット人も見習わなければと思い、それを友人の邦人に言うと、
頁160
「運動が盛んに見えるのは、あなたのつき合ってる日本人が、私もそうだけど、そういう考えの人が多いからですよ。
と言われてしまいます。チベットに関心がある邦人は、意識高い系のバラモン左翼が多いというもっともな結果。
頁164に、漢族が、"まだ誰も泳いだことのない"ナムツォを泳いで渡る計画を立てたが、地元チベット人の猛反対で頓挫したエピソードが紹介されており、そういえば私がラサにいた時、ここでウインドサーフィンをしようと、道具一式空輸で持ち込んで許可待ちのアメリカ人がいたなあと思いました。漢族には「聖湖を泳ぐなんて、絶対に許せない」と憤慨しても、相手がアメリカ人だと、そうは言わなかったりして、と思いながら読み進むと、
・トゥイ村
ナムツォで気分を害したので気分直しにわざわざラサ行きを遅らせてまで立ち寄った、まだ観光化されていないさらに奥地の湖で、「この前日本人が来て、この湖に潜った」(頁185)と聞かされて、ギャフンとなります。ここは私も読んでいて、想定外でした。というか、私自身も、水浴に関して、そんな禁忌の感情がない。
この本は、基本的に地名はチベット語で表記されており、羊八井も「ヤンパチェン」とカタカナで書かれてるのですが(頁177)*2頁179の八一*3は、人民解放軍が新たに作った軍事都市なので、《八一》パーイーとそのまま書いています。
関係ありませんが、頁170で、モンゴル人やチベットの狩猟カースト的な人々は、マーモットを食べるとあり、カムでありウー・ツァンの彼らは食べないので、①アムドでも食べると聞いた気瓦斯②マーモットって、ペストを媒介するから食べると死んだりすることもあるんじゃなかったっけ?と思いました。
タバルガンタバルガン。
・ラサ
私はアホなので、上の歌の、"中国,同样!"のあとが聞き取れず、何十回も聞いて、"来哪住址同样!"と言ってるのかなと思ったのですが、ハズレかなあ。最後のチベット語も何と言ってるか知りたいです。
セルニャや現代チベット小説の紹介の中に、テウランという管狐みたいな妖怪が出て来るのですが、頁194には「サオレ」という月蝕の妖怪が登場します。月蝕は、喉に穴の開いているサオレが月を食べるので起こる現象で、サオレは大きな音、特に豚の鳴き声が嫌いなので、月が欠け出したら、豚のしっぽを思いきり引っ張って鳴かせ、サオレに月を吐かせるという。
頁207
(略)私は、ツォラカン(ヂョカン)で見た中国人のことを話した。観光で来ている中国人旅行者も大勢いたが、その中国人夫婦は観光ではなく参詣に来ていたようだった。これまでも度々そうしてきていたかのように、バターランプにバターを献じ、釈迦牟尼像にカタを捧げていた。また、そうした後では像の前で五体投地で祈っていた。
彼らの様子は、まるでチベット人のようだったと言うと、近頃は信心深い中国人も現れてきているとダツェが言った。
信仰なき商売に明け暮れる者もまだまだ多くいるでしょうし、いったん信心し出すと、漢族のほうが邦人より、長い線香を掲げながら膝をついて額をつける叩頭礼拝に慣れているので、五体投地に移行するのも邦人より抵抗が少ないと思われます。あくまで、蛮族とかそういう考えから仏教に関しては抜け出せた場合で。
この話をした後で、今度はチベット人の生活習慣のゆらぎの話になり、頁209、天葬がいやだというチベット人が出ます。曰く「ハゲワシに食べられるのはこわいよ」彼は火葬希望者。
・タクツェ
・それから
頁233、チャムドの女は料理が下手という俗諺が出ます。そうだったのか。ただ、私はチャムド出身の人に会ったことはありません。
ja.wikipedia.org・旅を終えて
作者さんは独身で、本書ではインドの難民社会のクラスメートとの、淡い恋の思い出も語られます。それはともかく、それなりに中国批判も多く書かれる本なので、登場する親族知人に累が及ぶことが心配だと話し、及んだらすぐ知らせるので、それをまたすぐ日本社会に拡散してほしい、という会話が出ます。頁236。お芝居が上演されていた頃は、本は品切れ再版未定でも、お芝居は続いていたわけで、眷属が無事であったから続けられたのであってほしいと思いました。
頁241
生きとし生けるものすべてが、喜びと喜びの食べを持てますように。
生きとし生けるものすべてが、苦しみと苦しみの種から解き放たれますように。
生きとし生けるものすべてが、苦しみのない幸せな生を生きられますように。
生きとし生けるものすべてが、執着や怒り、貪りの心から離れ、分かち合いの心を持って平らかにいられますように。
これを私の日記の結びの文に換えようかとも思いましたが、長いし、ここまでは思わないので、作者さんのものとして尊重します。以上
【後報】
上記の頁90~93を見ると、自治区のチベット人は漢語の“喂”に由来するཝེའི།(wei)を使い、インドのチベット人は英語に由来するཧེ༌ལོ།(helo)を使うんだとか。私の記憶のどこかで、アムドでアローとかアリョーとか言ってた気がするのですが、やっぱりАлло, Алёのロシア人と混同した模造記憶なのかなあ。トンドゥプジャのウィキペディアのロシア語版だけ独自写真が貼られてるのとは無関係に。
(2022/12/24)