『妻』"The Wife" by Alfian Sa'at アルフィアン・サアット(アジア9都市9名連結アンソロジー《絶縁》)読了

アンソロジー二番手。シンガポールのアルフィアンサン。

表紙は、各所にそれぞれの言語の「絶望」を意味する単語をあしらっていて、アルフィアンサンのそれは、マレー語の"putus ikatan"です。

巻末の、小学館編集部:柏原航輔サン、加古淑サンの弁によると、本アンソロジーの、どの国のどの作家に依頼するかの選定作業には、韓国文学の邦訳などを行っている出版社クオンの金承福サンと伊藤明恵サンが関わり、実際の契約交渉は、イギリスの出版社でそうした業務に従事していたパルミェーリ・ターニャサンというエージェントが大活躍したとか。小学館がスベテやったわけではないですよ、我々サラリーマンも分業です、の公開姿勢がいさぎよい。

日本、シンガポール、メインランドチャイナ、タイ王國、香港、チベットベトナム、臺灣、韓国という選定のうち、中国本土(中共)、香港特別行政地区、中華民國と三つも漢族地域が入っているわけで、これでシンガポールまで主流の華人文学を入れたら、バランスどやさということになったと思います。そこでシンガポールでは少数派のマレー系、しかも高学歴のマレー人という飛び道具を出して来たのはエージェントのスマッシュヒット、GJと感じられました。

訳者の藤井光さんによる解説を読むと、本来就是新加坡国内マレー系の大卒比率は2010年で5%強、2020年でも10%強でしかなく、さらに他民族との収入格差などが際立っているそうです。シンガポール内ではマレー系は、薬物乱用や肥満、離婚率の高さなどもあいまって「問題のあるマイノリティ」とのレッテルを貼られているとか。そこから特異点として突出し、まわりを牽引せんとする者が、確固たる意志と打たれ強さがないわけがない。

シンガポール基礎データ|外務省

概況・基本統計 | シンガポール - アジア - 国・地域別に見る - ジェトロ

そもそも国の成り立ちからして、英領マラヤから独立する際に、シンガポールは、八割の多数派である華人が牛耳れるよう、マレーシアとは別個に独立したのであり、残ったマレーシアはプミプトラ政策でマレー系を優遇しようとしたが、それにしたってマレー半島だけで独立していたら、やっぱり華人系が多数派になってしまうので、無理くり帳簿合わせでボルネオ北部を抱き込んで独立、やっと人口バランスでマレー人が多数派になるという、馬來とはまさに移民が原住民を人口比で圧倒する好例でしかないわけで(インド系は、数にまさる華人系が宗主国英国に直接対峙しないよう緩衝材として英国が移住させた)このアンソロジーに、「シンガポールのマレー人」作家を入れることはまたとない壮挙であるわけです。

Alfian Sa'at - Wikipedia

しかもアルフィアンサン自身は、英文ウィキペディアには書いてませんが、解説によると、父方がジャワ系、母方がスマトラのミナンカバウ系という、蘭印系統の出自なので、マレー半島やボルネオの、英領マラヤの主要構成マレー人とも出自がちがうわけです。アルフィアンという名前は、もともとはアドリアンだったのが、それだと欧亜混血のユーラシアンぽいので、小学校入学時に両親が改名した名前だとか。IKKOさんが「どんだけ~」と言いそうなくらい、てんこ盛りに私にとっては興味深い。

マレーシアのヤスミン・アフマドの、どれも自伝的要素を込めた映画の数々、マレー語と英語をチャンポンで話すマレー人上流階級がいて、彼らの血統のなかには、当然白人の血を引くものも入っていて、という、日常場面をいくたりも思い出しながら読みました。(監督が存命であれば、そこに、日本人祖母も描かれるはずのだったので、早世は本当に残念)彼らは、欧化した生活を営みつつ、それでいて信仰はイスラムもたいせつに持っている。

本作『妻』は、高学歴マレー系というシンガポール社会のマイノリティ中のマイノリティが、一夫多妻に挑戦するという話です。第二妻となる女性も子どもが産めないとしか読めない文脈なのですが、明文化された箇所を読んだ記憶ナシ。(ワイフファースト、否ファーストワイフの不妊治療と流産は描かれます)第二妻は親の反対で別れた身分ちがいの学生時代の恋人で、第一妻は、職場にふたりしかいないムスリム(頁088。ここを読んで、シンガポールって、そんなに回教徒少ないのかと驚いた後で訳者解説で納得)のもうひとりである上司の娘。このアンソロジーの主人公は、だいたいひとりもので、ごくまれにやりまくりがいる以外は、性や恋愛は簡素で、一篇だけ家族増殖の方向性を持つ本作は、その意味でも特異点でした。トップバッターの村田紗耶香サンが悪球打ちの岩鬼でグワラグワキーンだったので、セカンドバッターのアルフィアンサンが、秘打でリードオフマンをやった感じ。(この例えは一巡しません)

版元の紹介文。

夫がさりげなく口にした同級生の名前、妻は何かを感じとった。

マドゥというのは、ある女性と夫を共有する女性のことだそうで、ウィキペディアを見ると、アルフィアンサンは1998年にもマレー語で『マドゥⅡ(一夫多妻制』"Madu II (Polygamy)"という作品を発表しているようなのですが、本作は書き下ろしとのことです。また、"Madu Malaysia"で検索しても、ハチミツやライムの画像しか出ませんでした。ふたりだけの老後はさびしすぎる。かといって養子を迎え入れる一歩も踏み込めない。マドゥなら、夫の背後のほかの女に嫉妬することもなくなるはず。でも、やっぱり、夫が最初に彼女の寝室に入る夜は、気持ちの上でハードルが高すぎて。(´Д⊂ヽ

解説によると、2015年のシンガポールの統計で、ひとりより数の多い配偶者と婚姻登録した回教徒男性は、総数の0.3%にとどまるとか。回教国パキスタンですら、映画「バジュランギおじさんとちいさな迷子」で、「ひとりでもたいへんなのに、三人とは。なんて大変なんだあんたは」と、ブルカで全身を覆ってパキスタン密入国するインド人とその手引きのパキスタン人が同情されるギャグシーンを思い出すので、欧米人や華人の目を意識するシンガポールにおいてをや。

このアンソロジーの作家さんで、まとまった作品集を日本で刊行している人は九人中五人で、かろうじて多数派ですが、アルフィアンサンは多数派に属します。おもしろかったので、ほかの作品も読もうと思い、まず、作者紹介にある下記を検索しました。

そしたら、実はもう一冊出版されている邦訳も芋づる式にアマゾンが紹介してくれました。小学館のプロフィールにも段々社入れてあげればいいのに。

以上

昨年秋にチベット文学の新作がないか検索した時、ラシャムジャの新作収録で出た本。12月の刊行直後に買ったのですが、春まで寝かせてました。一作ずつ感想を書きます。

装画=趙文欣 装丁=川名潤 

オーディオブック同時発売とのこと。

絶縁

絶縁

  • 村田沙耶香, アルフィアン・サアット, ハオ・ジンファン, ウィワット・ルートウィワットウォンサー, 韓麗珠, ラシャムジャ, グエン・ゴック・トゥ, 連明偉, チョン・セラン, 藤井光, 大久保洋子, 福冨渉, 及川茜, 星泉, 野平宗弘 & 吉川凪
  • 小説/文学
  • ¥2,000

絶縁 | 書籍 | 小学館

日韓同時発売とのことで、韓国版は、さいごにチョン・セランと村田紗耶香の対談が入ってます。表紙のイラストや掲載のじゅんばんはいっしょですが、作家の帰属表記について、日本語版は日和ってると言うか、上海で中国ビジネスを営む小学館的に苦しいんだろうなあという書き方で、ウェブには個人名しか載せてません。対して韓国は直球。例:「라샴자(티베트)─구덩이 속에는 설련화가 피어 있다」

www.aladin.co.kr

表紙のイラストを描いた人は上海在住とか。ではなく、今は多摩美に学んでるそうですが、今後どうされるのか。

photoandculture-tokyo.com

絶縁というテーマは言い出しっぺのチョン・セランサンが出したものだそうです。

【後報】

表紙に書かれたマレー語の「絶望」は"putus ikatan"

putus tali ikatan - Wiktionary bahasa Indonesia

(2023/5/24)

【後報】

藤井光訳。

ハングル版は、日本語版をホン・ウンジュというイファ女子大仏文出で日本在住の翻訳者がハングル訳したとか。

www.aladin.co.kr

下がホン・ウンジュサンの紹介箇所。

홍은주 (옮긴이) 
이화여자대학교 불어교육학과와 동 대학원 불어불문학과를 졸업했다. 일본에 거주하며 프랑스어와 일본어 번역가로 활동하고 있다. 옮긴 책으로 무라카미 하루키의 《기사단장 죽이기》 《양 사나이의 크리스마스》, 마스다 미리의 《여탕에서 생긴 일》 《엄마라는 여자》, 미야베 미유키의 《안녕의 의식》, 델핀 드 비강의 《실화를 바탕으로》 등 다수가 있다.
(グーグル翻訳)
ホン・ウンジュ (移転) 
梨花女子大学フランス語教育学科と同大学院フランス語文学科を卒業した。日本に居住し、フランス語と日本語の翻訳家として活動している。運んだ本で村上春樹の《騎士団長を殺す》《両男のクリスマス》、増田ミリの《女湯で出来たこと》《ママという女》、宮部美雪の《こんにちはの儀式》、デルフィン・ド・ビガンの《実話を土台として』など多数がある。

下が翻訳スキーム紹介箇所。

『절연』의 작업은 각기 다른 언어를 사용하는 9명의 작가들의 작품을 각 언어를 전공한 일본의 7명의 번역가가 번역하고 그것을 도쿄에 거주하는 홍은주 번역가가 다시 한글로 옮기는 방식으로 이루어졌다. 편집 과정에서 의문점이 발견되면 일본의 편집자와 해당 언어의 번역자를 거쳐 저자에게 전달되고, 피드백이 역순으로 되돌아오면 다시 홍은주 번역가와 문학동네 편집부가 논의하는 식이었다. 쇼가쿠칸의 편집자와 문학동네의 편집자가 각기 국내문학을 담당하고 있어 서로 한국어와 일본어에 능숙하지 않았는데, 이때 동원된 것이 웹 번역기였다. 한국의 편집자는 한국어로, 일본의 편집자는 일본어로 쓴 수십 통의 메일로 의견을 주고받았다. 각국 작가들은 직접 촬영한 영상으로 인사를 보내왔다. 팬데믹 이후 동시적인 소통을 위해 급속도로 발달한 기술들이 활용되었으니, 『절연』의 작업은 말 그대로 이전 시대와 결별하는 일이었던 셈이다.
표지 그림은 상하이에서 활동하는 일러스트레이터 자오원신Zhao Wenxin의 작품이다. 같은 그림을 일본과 한국의 디자이너가 각국의 정서에 맞게 재해석해 디자인한 것도 눈여겨볼 만하다. 이번에 한국과 일본에서 동시 출간된 『절연』은 추후 작품집에 참여한 다른 나라에서도 번역되어 출간될 예정이다.

(グーグル翻訳)

『絶縁』の作業は、それぞれ異なる言語を使う9人の作家たちの作品を、各言語を専攻した日本の7人の翻訳家が翻訳し、それを東京に居住するホン・ウンジュ翻訳家が再びハングルに移す方式で行われた。編集過程で疑問点が発見されれば、日本の編集者とその言語の翻訳者を経て著者に伝えられ、フィードバックが逆順に戻ると、再びホン・ウンジュ翻訳家と文学近所編集部が議論する式だった。小学館の編集者と文学近所の編集者がそれぞれ国内文学を担当しており、互いに韓国語と日本語に上手ではなかったが、この時動員されたのがウェブ翻訳機だった。韓国の編集者は韓国語で、日本の編集者は日本語で書いた数十通のメールで意見を交わした。各国の作家たちは直接撮影した映像で挨拶を送ってきた。ファンデミック以後同時的なコミュニケーションのため急速に発達した技術が活用されたので、『絶縁』の作業は文字通り以前の時代と決別することだったわけだ。
表紙絵は上海で活動するイラストレーター蔵王原神Zhao Wenxinの作品である。同じ絵を日本と韓国のデザイナーが各国の情緒に合わせて再解釈してデザインしたのも注目に値する。今回韓国と日本で同時出版された『絶縁』は、今後作品集に参加した他の国でも翻訳され出版される予定だ。

(2023/5/30)