八番バッター。台湾の連明偉サン。中共の圧力などで台湾と国交関係のある国は減少の一途をたどっていますが、そんな中、台湾と国交を保っている国のひとつ、セントルシアが舞台です。親につきそって現地で暮らす台湾人少年を主人公に、彼が通う現地校の友人たちとのたわいもないやり取りの日々を描きます。「絶縁」こう来たかという。
セントルシアは1997年に中華人民共和国と国交を樹立して中華民国(台湾)と断交したが、2007年に中華民国と国交を回復して中華人民共和国と断交した[3]。
連明偉サンもセントルシアでボランティアをしていたことがあったそうで、自身の体験が反映された小説ともいえるそうです。台湾のジュブナイルなので、下の毛が生えたとかいろいろ、本土より開放的に語られ、下記の映画などともその世界観は共通しています。ただ、友人が、カリブ海の黒人だったり白人(メスティーソ?)だったりするだけ。
『あの頃、君を追いかけた』(原題:那些年,我們一起追的女孩)(エイゴタイトル:You Are the Apple of My Eye)劇場鑑賞 - Stantsiya_Iriya
考えたら私は上の映画の日本リメイク版見てません。後悔はしてませんが。
主人公は、自分だけイエローなので疎外感と孤独を味わい、そこから脱却すべく、現地の卓球クラブに入ります。読んでいて、う~んと思いました。野球でなく卓球なのか。もし現地に中国人がいて、彼も卓球クラブに入ったら、この小説はこんなサクッとしたジュブナイルで終われないかったと思います。両岸バトルがカリブ海の小島を舞台に炸裂すること間違いなし。いや、そうでもないか。もしくは、まわりはぜんぶ洋鬼でかなんし、同じ漢族同士仲良くやろうよ、になって、その小説を発表するのにものっそ勇気が要ったりするとか。いちばんありそうなのは、両者ともに存在をスルーで暮らす。
中華人民共和国と国交ないんだから中国人居るわけないじゃん、なんて単純な考えを持つ人はまずいないと思いますが、国交なくてもその国の人がいるって話は、北朝鮮がそうですよね。ある話です。
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まだ追記出来てないのですが、この、セントルシアの話の感想は、竹内亮サンのホワウェイ記録片を書き終えた後に書きたかったです。というのも、「ホワウェイ100面相」には、中国と国交のないグアテマラのホワウェイ事務所が登場し、ホワウェイの駐在中国人がグアテマラで活躍する日々が描かれているからです。
しかもまあホワウェイがグアテマラで何をやってるかというと、先住民マヤ人のマヤ語とスペイン語の翻訳ソフト作成を助けているという、一見イイ話なのですが、同じ竹内亮作品「大涼山」で、中国少数民族の彝語と漢語に関しては同じ発想が1㍉も出て来なかったことを踏まえると、なかなか意味深だと思ってます。そもそも、映画の中で「マヤ人」という表現を、日本語だけでなく漢語でも使っていて、マヤの中の支族を呼ぶときには○○族でしたが、総合的なマヤ人は、日本語でも漢語でも「マヤ人」でした。《瑪雅人》"mayaren"
ウイグルやチベットには、国家を持たない民族を○○人と呼ぶのはおかしい、と勝手に他国語である日本語のルールにまで干渉してきて、「ウイグル人」「チベット人」と読み書きすることに圧をかけ、「ウイグル族」「チベット族」を流布定着させようと日夜ギャーギャー言ってるのに、国交のないグアテマラでは先住民族マヤをマヤレン。おかしな人たちだこと、とは思わず、まあ、おちょくってんだろうなあ、くらいに思ってます。マヤは古代に国家を持っていたからマヤレン、チベットやウイグルは中国の地方政権、くらいの理論武装で。
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私は以前マヤ語小説の邦訳を読んだことがあり、その作家さんはメキシコのユカタン半島の人で、マヤというと、どっちかというとその辺だと思ってました。グアテマラのほうに行くと、マヤというよりアステカとかオルメカかと思ってた。メキシコのマヤ人も相当歴史的にコンキスタドレスに痛めつけられてしんどい感じでしたが、竹内亮サンのドキュメンタリーでは、メキシコにたくさんマヤ人がいるという話自体出ず、グアテマラに終始してました。
まあ何が言いたいかというと、中国と国交のない国に中国人がいるってのは、あることなんですよと。特にホワウェイみたいなコングロマリットや、中国の国策企業の社員の場合、あること。
英語タイトルは、原題からだと「シェリス」が「シャーリー's」(Shirley's)になっちゃうので、日本語からグーグル翻訳し、"Sherrith"としました。"Cherisse" かもしれませんし、"Sherisse"かもしれません。「シェリス」で検索すると、アニメ?のエロ担当キャラらしい人物が出ます。
どうもこういう台湾文学の邦訳を読んでいると、北京の語言を出て台湾文学の翻訳に入り、若くしてガンでなくなった天野健太郎サンを思い出すです。一度だけシンポジウムに行ってトークを見たことがあり、語言で学んだ大陆腔の訛りのクセがあるので、早口で國語を話してるようにも見え、いらいらしてるなと思ったです。今考えると、その時期すでに抗がん剤を服用してたのかもしれませんが。
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そんな小説です。やはり華人にとって、文学と政治は离不开的关系であった、望むと望まざるにかかわらず。何も書かれていないにも関わらず、この短篇の意味の「絶縁」が、いちばん剛速球の、直球でした。そんな小説。
以上
昨年秋にチベット文学の新作がないか検索した時、ラシャムジャの新作収録で出た本。12月の刊行直後に買ったのですが、春まで寝かせてました。一作ずつ感想を書きます。
装画=趙文欣 装丁=川名潤
オーディオブック同時発売とのこと。
日韓同時発売とのことで、韓国版は、さいごにチョン・セランと村田紗耶香の対談が入ってます。表紙のイラストや掲載のじゅんばんはいっしょですが、作家の帰属表記について、日本語版は日和ってると言うか、上海で中国ビジネスを営む小学館的に苦しいんだろうなあという書き方で、ウェブには個人名しか載せてません。対して韓国は直球。例:「라샴자(티베트)─구덩이 속에는 설련화가 피어 있다」
表紙のイラストを描いた人は上海在住。ではなく、今は多摩美に学んでるそうですが、今後どうされるのか。
巻末の、小学館編集部:柏原航輔サン、加古淑サンの弁によると、本アンソロジーの、どの国のどの作家に依頼するかの選定作業には、韓国文学の邦訳などを行っている出版社クオンの金承福サンと伊藤明恵サンが関わり、実際の契約交渉は、イギリスの出版社でそうした業務に従事していたパルミェーリ・ターニャサンというエージェントが大活躍したそうです。
絶縁というテーマは言い出しっぺのチョン・セランサンが出したものだそうです。
及川茜訳。
ハングル版は、日本語版をホン・ウンジュというイファ女子大仏文出で日本在住の翻訳者がハングル訳したとか。
下がホン・ウンジュサンの紹介箇所。
홍은주 (옮긴이)
이화여자대학교 불어교육학과와 동 대학원 불어불문학과를 졸업했다. 일본에 거주하며 프랑스어와 일본어 번역가로 활동하고 있다. 옮긴 책으로 무라카미 하루키의 《기사단장 죽이기》 《양 사나이의 크리스마스》, 마스다 미리의 《여탕에서 생긴 일》 《엄마라는 여자》, 미야베 미유키의 《안녕의 의식》, 델핀 드 비강의 《실화를 바탕으로》 등 다수가 있다.(グーグル翻訳)
下が翻訳スキーム紹介箇所。
『절연』의 작업은 각기 다른 언어를 사용하는 9명의 작가들의 작품을 각 언어를 전공한 일본의 7명의 번역가가 번역하고 그것을 도쿄에 거주하는 홍은주 번역가가 다시 한글로 옮기는 방식으로 이루어졌다. 편집 과정에서 의문점이 발견되면 일본의 편집자와 해당 언어의 번역자를 거쳐 저자에게 전달되고, 피드백이 역순으로 되돌아오면 다시 홍은주 번역가와 문학동네 편집부가 논의하는 식이었다. 쇼가쿠칸의 편집자와 문학동네의 편집자가 각기 국내문학을 담당하고 있어 서로 한국어와 일본어에 능숙하지 않았는데, 이때 동원된 것이 웹 번역기였다. 한국의 편집자는 한국어로, 일본의 편집자는 일본어로 쓴 수십 통의 메일로 의견을 주고받았다. 각국 작가들은 직접 촬영한 영상으로 인사를 보내왔다. 팬데믹 이후 동시적인 소통을 위해 급속도로 발달한 기술들이 활용되었으니, 『절연』의 작업은 말 그대로 이전 시대와 결별하는 일이었던 셈이다.
표지 그림은 상하이에서 활동하는 일러스트레이터 자오원신Zhao Wenxin의 작품이다. 같은 그림을 일본과 한국의 디자이너가 각국의 정서에 맞게 재해석해 디자인한 것도 눈여겨볼 만하다. 이번에 한국과 일본에서 동시 출간된 『절연』은 추후 작품집에 참여한 다른 나라에서도 번역되어 출간될 예정이다.(グーグル翻訳)
【後報】
連明偉サンの寄せ書きは下記。
文學是我們共通的語言
漢字文化圏の人間なら、ぱっと見てすぐ理解出来、とても分かりやすい。文学是我们共通的语言。Literature is our common language. 明明?
(2023/6/2)