ボーツー先生と福田和也サンの「SPA!」連載書評バトル*1に出て来た本。
相武台前とオダサガのあいだの行幸道路。旧忠実屋。現在。
筑摩書房 完本 カリスマ 中内いさおとダイエーの「戦後」(上) / 佐野 眞一 著
カバーデザイン 関村俊一 解説 金子勝 巻末に完本版あとがき。略年譜、取材協力一覧、主要参考引用文献、主要人名索引あり。1998年日経BPより単行本。2001年増補版として新潮社文庫化。平凡社から2006年に出した『戦後戦記ー中内ダイエーと高度経済成長の時代』から一部再構成収録、ほか増補再編集して、2009年ちくま文庫「完本」上下巻刊。
ダイエーと中内サンは複数言語のWikipediaがありますが、佐野眞一サンは日本語版しかありません。この人こそルポライター業界のカリスマ(失墜含めて)だったと思うので、一冊も他言語に訳されてないとは、ちょっと信じられず。訳されてるけどWikipediaに英語版や中文版がないだけなのか。
頁80
日本の流通業の歴史とは、大雑把にいえば、百貨店に代表される大型店と零細小売店との闘争の歴史だった。昭和七年には、新宿の露天商が三越の店内で割腹自殺するという事件も起きた。
「沢口靖子はんが主人公やし、てっきり大阪の話かと思てましたんやけど、銚子でしたんかいな」
頁92、「ぼんち学校」と呼ばれた入江尋常小学校から神戸三中へ進学。OBには、淀川長治や花森安治、富士正晴という作家(知りません)油井正一というジャズ評論家(知りません)そして大森実がいたとか。よせばいいのにここに神戸一中の出身者、神戸二中の出身者も列記されており、前者は矢内原忠雄、滝川事件の滝川幸辰、吉川幸次郎(!)松下康雄(元日銀総裁だとか)後者は東山魁夷、小磯良平、妹尾河童などだそうです。
頁120、赤紙が来て、内地での訓練なしでいきなりソ満国境の綏南というところに配属されたとか。横須賀不入斗(いりやまず)の歩兵第七五連隊とあります。《绥芬河》は行ったことありますが、綏南は分かりません。検索でも出ない。
ロシア建築が残る観光都市として立派に成り立つ街並みでしたが、こんなビルがニョキニョキ建ったんですね。
頁120
中内が配属された部隊には、ソ連軍に徹底的に壊滅させられたノモンハンから奇蹟的に帰還した古参の敗残兵たちもいた。彼らの気持ちはすさみきり、酒を飲んでは銃剣を抜き、本物の戦闘まがいのケンカをしては血を流した。角力取りくずれもいれば、力自慢だけが取り得の坑夫、土工あがりもいた。陸士出の士官があまり生意気なことばかりいうので、手榴弾といっしょにタコつぼにほうりこんで”名誉の戦死”にしてきた、と平然といい放つ古参兵すらいた。
これぞ皇軍。This is Emperor's troop of Rising Sun. こういうおっかない兵隊ほど、実戦では頼りになってしまうから悩ましいという。
ぜんぜん関係ありませんが、関東軍て、英語だと漢語読みでクワントン・アーミーになっちゃうんですね。日本語のカントーアーミーでなく。なんでだろう。原義に沿って言えば、関東州の駐屯軍だから、現地語読みを優先してるのか。
そこからいきなりフィリピンへ転戦。潜水艦に撃沈されることなく無事到着し、初実戦を迎えます。
頁127
盟兵団山砲第二中隊に配属されていたその市川によれば、米軍を迎え撃つ主力部隊の盟兵団の兵力は総数一万三千余、リンガエン湾の正面にいた日本軍に限れば、総勢にしてわずか二千名ほどだったという。これに対して敵の兵力は総計二十三万三千人にも及んでいた。(略)
一月七日、ついにリンガエン湾に敵の艦隊が現れた。敵艦隊は八百五十隻にも及び、リンガエン湾が膨れあがったようにみえた。
頁128
敵の大船団がリンガエン湾沖に姿をみせたとき、中内はリンガエン湾から約四キロはなれた山中で塹壕掘りをおえ、ドラム缶の風呂にのんびり入っていた。
「すごい艦船やなあ、と思って眺めていた。日本の連合艦隊もまだこれだけ余力があるんかいな、これでいよいよフィリピンともおさらばできると、ホッとしていた。
ところが二日後の夜明け、突然、艦砲射撃を一斉にやりだした。上陸用舟艇も水すましのようにどんどんこっちへやってくる。うかつにもそのときはじめて、こりゃ敵だ、ということに気がついた」
数字はともかく、気づかなかったというくだりは、盛ってるような気も。
頁131
上空には、敵の偵察機が音もなく飛んでいた。敵に秘匿した陣地から砲撃すると、偵察機の無線で連絡するのか、敵の砲艦は見えないはずの日本軍の陣地に、正確に砲撃を加えた。
傷が浅ければ勲章目当てで「天皇陛下万歳」とか言えるが、本当に瀕死だと「やられた」とか「お母さん」とか「助けて」とかしか言えないそうです、中内サンによると。中内サンが配属された大石正義中佐率いる一二一八部隊は、532名中389名戦死。戦死率73%。盟兵団全では13,156名中11,427名が戦死、行方不明。生存者数1,729。損耗率86.9%。ノモンハン経験のある古参兵が、ルソンの此度の戦闘を見て、いくさではなく、一方的殺戮だと言ったとか。勇敢な兵士ほどあっけなく死んでゆき、誰とは言わねど、卑怯な人間だったから生き残れたそうです。
頁137
いまでも中内は戦争に生き残ったことを強く愧じており、死んだ戦友たちが”神”として祀られた靖国神社には一度も足を踏み入れていない。
そういう考え方もあるんですね。背負ってしまった。
頁156
ちなみに中内は兵役の期間が少し足りなかったため軍人恩給を支給されず、傷病兵として当然もらえるはずの手当も、あえて手続きしなかったため、一度ももらっていない。
中内サンが俘虜になるのは八月十五日以降です。
頁150
中内は、米軍はこの当時から、パンチ式のコンピュータを使い、俘虜の管理をしていたのではないかという。
上の箇所、唐突な気もしますが、頁191から、「日本の前近代的小売業をアメリカ流の近代経営に”改宗”するよう迫った”宣教師”たちの総本山」として、日本NCR(日本ナショナル金銭登録機)のレジスター布教活動がかなりのページ数を割いて書かれるので、それも踏まえた描写と思えば思えるかと。レジスターの普及がなければ、日本のスーパーマーケット浸透もありえなかった。
日本NCRという会社には一族的にかなり強いメモワールがあります。大磯に社屋があったので。(どこでもやっていたことかもしれませんが)労組崩しで民社党寄りの第二労組が出来て、プレハブ小屋が社屋の隣りにあったり、やはり組合切り崩しも兼ねて名ばかりの係長以下の主任職を作って、管理職なので残業代が出ないまま長時間勤務を強いられたり。90年代には、おそらく南米系のしわざと思いますが、当時行員が現ナマで運んでいた給与のジュラルミンケースを、二台のバイクがロビーに直接バイクで乗り込んで強奪して逃走、結局犯人捕まらなかったり。それ以上に、強く印象に残ったエピソードが、クリスマスです。
クリスマスには社員の子どもたちを招待して講堂に集め、そこではカルピスやオレンジジュースが飲み放題で、最後に白人支社長がサンタクロースに扮してひとりひとりにプレゼントを配ります。その間子どもたちの父親は年末残業で帰宅もままならず、社屋にこもったままです。夢のようなクリスマスの時間が終わった子どもたちは、三々五々、母親に手を引かれ、雪の夜、国鉄のディーゼル車両に揺られて帰ります。単線の相模線が車両行き違いのため途中駅で停車している間、包装紙に包まれた「会社のサンタさんのプレゼント」を抱えて、暖かい座席でうとうとしながら、ガガガガというディーゼル音を聞くともなく聞いている… この話がかなり強烈に、私には残っています。
クリスマスセレモニーはそれほど長く開催されず(夜中まで子どもを連れて移動する社員家族の負担が大きかったからとも、経費削減のためとも)クリスマスプレゼントだけ、毎年12月に社から社員子弟に送られるようになりました。バブル以降の華やかなイメージの「外資系」となんとちがうことか。ずっとこの伝承は忘れずにいようと思っています。奇しくもこの日記に書く機会はありませんでしたが、ここに書けてよかった。
NCRが小規模商店にもレジスターを売りつけまくった例のあとに、耕運機を零細農民に売りつけたようなものだと書いてますが、これは比喩として正しくないと思います。
頁195
これは、農機具メーカーの積極的売りこみによって、冷静に考えればそれらをたいして必要としない中小農家にまで、耕運機やトラクターなどの大型農耕機が、戦後急速に普及していった珍事と比肩できる出来事だった。
少子高齢化を予見した際、農業の機械化はさほど悪くもなかったかと。確かにとても高額で、それにより農業経営ガーという話もあるのかもしれませんが、こういうものは共同購入で「結い」でやろうとしても人間関係のアヤがあり、マイカー感覚で各戸保有したいという、自立自存独立不羈の個人農家の志向があるので、悩ましいとしか言えないと思います。
どっちかというと、「不必要な住居にも売りまくった」水洗便器のが比喩として当たってるかと。下水がとおってなくても浄化槽を作って水洗便所!水洗便所!水洗便所! 鎌倉の銭湯で、ボットン便所をひさかたぶりに見て、鎌倉でこれかっ! と感動した思い出が数年前です。
頁230、ダイエーの初期の目玉商品が牛肉で、当時巷の安い店でも百グラム七十円、高い店では百円だったのを、ダイエー三宮店は百グラム三十九円で売り出し、肉といえば牛肉、トリでもブタでもなく牛肉という牛肉信仰関西人の琴線にズバッと触れて、解体するそばから売れに売れ、屠殺場からダイエーまで保冷車で運ぶ必要もないほどだったとか。*2*3ここは、頁240「百グラム三十九円では絶対に採算はとれず、内情は一頭につき一万円の赤字が出る状態」という記述があったり、その後の方で、計算上は採算とれるはずが、職人が骨から肉を剥がす際にアレンジしたりクズ肉の底に上肉を隠して横流ししていたので、それで赤字になっていたのだという、反㓛派の証言(頁378)があったりもします。目玉で儲けようとは思ってないんやで、それで客の足を呼び込んでいろいろ買ってもらって儲けるのや、という、流通業の当たり前田のクラッカー的コメントはありません。牛肉安くていいなあ、と思うと同時に、ここで登場するウエテルという怪人物(中上健次の小説キャラに例えられている)のところで、はっと思う記述もありました。
頁232
これは中内を長年見てきて直感的に感じることだが、中内は自分より屈強に見える男を従えて歩くのが好きである。それが、人知れぬコンプレックスゆえなのか、それとも人並み外れて強い支配欲ゆえなのかはわからない。だが、中内のまわりに、”主君”のためなら馬前に討死にするのも辞さないという屈強で心強い”忠臣”が、少なくとも十数年前まで必ずつき添っていたことは確かである。
頁179に、兄弟経営がうまくいった例は極めて少ないとし、成功した例を四つあげています。
「親子ほど年の離れた兄弟の例」
①出光興産の出光佐三と計助
「全員技術屋」
③カシオ電機の樫尾忠雄、俊雄、和雄、幸雄。樫尾四兄弟。
「分業」(クエスチョンマーク付き)
④西武グループの堤一族。流通業、清二。鉄道業、義明。
…
で、兄弟経営がうまくいかなかった例も二つあげています。
❶山崎製パンオーナー飯島兄弟、藤十郎と一郎の、血で血を洗うと言われたお家騒動。
❷リコー社長市村清の弟専務追放。
数年前読んだ下記も、実兄の人がそんな感じでしたので、❸と思います。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
中内兄弟の相克について、佐野サンは頁371で、「兄弟けいてい牆かきに鬩せめぐ争い」と書いてます。この言い回しは知りませんでした。
㓛サンと戦って退いた弟の力サンを訪ねてポートピア殺人事件、否ポートピアホテルまで行った佐野に話すうち、力さんは二度、号泣します。
頁405
「私ももう六十六です。本当は兄弟仲良くやりたいんです……」
本書には、流通革命という1962年の本が二冊出ます。中内さんに感銘を与えた林周二さんの本は、佐野サン的には、現在から見ると云々、的な本だったようです。もう一冊の、田島義博さんの本はわりと引用されてます。
流通革命 : 製品・経路および消費者 (中央公論社): 1962|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
日本の流通革命 (日本能率協会): 1962|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
292号/名著探訪 流通革命 日本の流通革命 - 林周二 田島義博|書籍探訪|書籍の寄贈・紹介|企画調査委員会|公益社団法人 日本都市計画学会
シーナサンの人が編集長をやってたストアーズレポートは出ません。
佐野さんが田島さんの本で具体的に紹介しているのが、コカ・コーラボトラーズの中抜き法です。問屋による卸売商法でなく、フランチャイズ制とルートセールスで小売店に直販しているので、卸を経由するが故のメーカのコスト計算に頭を悩ませずに済む。頁318。
住友銀行の堀田庄三頭取が出るのが頁391。頭取と話し合った時間で融資の額を決めるという内規があって、一分一億日元。中内サンは初対面で一時間話し合ったので、六十億即決融資という、眉唾なフォークロアが出ます。(中内さんは謙遜して、その半分でええと言ったので、三十億JPY用立てられたという…)
「マクドナルドの」藤田でんチャンが出るのが頁304。ヤマザキマリ、否山崎まさよし、否そんまさよしはんも出ますが、下記がよかった。
頁308
一九八九年、藤田は日本マクドナルドの集客力を高めるため、アメリカのおもちゃ安売りチェーンのトイザラスと合弁契約を結び、日本トイザらスを設立した。
このとき藤田が打った手はいまも語り草となっている。急速な多店舗展開を図るため、日米構造協議で米側に大店法緩和を主張させ、九一年に来日したブッシュ大統領(父)に奈良の橿原店のテープカットをさせた。この一件で通産省の大型店舗規制の声がピタリとおさまった。
大店法に風穴をあけた日本トイザらスの出店は、ホームセンターや家電専門店など新興ディスカウントストアの出店ラッシュにもつながった。将来、藤田は中内とならんで日本の〝価格破壊〟の功労者の一人に数えられることになるかもしれない。
ここでやっと、「大店法」が出たと思いました。現在の大規模小売店舗立地法の前身、の大規模小売店舗法。
なか卯ちさん、否中内サンは自身がマクドナルド買収を蹴って藤田さんがウマー(゚д゚)ウマーなのに嫉妬したのかどうか、ドムドムを買収したりウェンディーズを買収したりしたそうです。
頁312
江頭にシャツをめくって腹をみせてもらったことがある。そこにはひきつれたような七つのメスの跡が生々しく残っていた。十二指腸潰瘍、直腸潰瘍、胆石、胃潰瘍、盲腸、胆嚢壊疽、それに肝炎の手術跡だった。
それらはすべて、メニュー開発のため、自らに課した一日十食という過重な試食がもたらしたものだった。胃は親指大、直腸も半分に切りとられ、それでもなおアメリカ流のファミリーレストランを日本に移植すべく、一日二本の浣腸を使用しながら試食に励む江頭の姿は、滑稽などという言葉を通りこして、むしろ壮絶だった。(以下略)
第十三章は、『わが安売り哲学』の紹介です。「フォーチュン」にマオイストと紹介された男(頁490)の著書。ダイエーが「主婦の店」としてスタートした時、先行する別チェーン(日本初のスーパー?)「主婦の店」があったこと、神戸灘は日本最強の生協組織がその時すでにあったこと、などからして、その影響が大きかったことは容易に推測出来ます。しかし、その共産主義理解、毛沢東思想理解は、はなはだ自己流で、片寄ったものだったとか。
佐野サンは、西武の堤清二サンが池袋西武火災時に「防災対策本部書記局」を置いた、その東大細胞出身ぶりと比較して、中内サンの野卑で全学連チックな陶酔ぶりを指摘しています。中内サンの流通革命論はまんまトロツキーの永久革命論であり、しかもその理解は、ゴチエイが封建主義者であるにもかかわらず捨てることが出来ない白土三平『忍者武芸帖』の「我々は遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」by影丸fromイタリア共産党レベルの感傷ではないのかと、私も思いました。中内サンが東京進攻に際し、国道16号沿いにぐるりと支店を展開する「首都圏レインボー作戦」を敷いたのも、遊撃戦論的に、農村が都市を包囲するをやろうとしたのではないかという。
ジッサイ中内サンは『実践論・矛盾論』が座右の書(頁490)で、知人にサイン入りの本を謹呈する際、これしかなかったと毛主席語録にサインして渡したそうで(頁419)しかし中内サンの革命論の根底は、生産者と消費者の闘争であり、生産者がブルジョワジーで消費者がプロレタリアなわけですから、農民が包囲するとなると農民は生産者であって消費者では絶対ないので、なにがなにやらということにしかなりません。要するに都市が「郊外」に広がって、田舎者の消費者が増大したと言ってしまえばいいのですが、流通革命は広範な消費者層の支援を基盤にしてますので、口が裂けても在所がどうの田舎者がどうのと言えないわけです。中内サンは本書を自ら絶版にしてますが(今世紀復刊してまた在庫切れ再版未定になったそうですが)それはその辺の矛盾、言葉遊びに気づいたせいかもしれません。
わが安売り哲学 (日本経済新聞社): 1969|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
私は佐高信サンと佐野眞一サンの区別がつかないのですが、ここで佐野サンは、佐高サンが週刊金曜日でブルジョワと化した中内サンの変節を批判したことに対し、浅薄な人間理解だと鼻で笑っています。仲悪いんでしょうか。私には区別がつかないのですが。
佐野サンは中内サンの著書の中で、中内サンがマイカーブームに懐疑的だった点を引いて、中内サンも全能の未来預言者ではないとしていますが、その佐野さんもトラクターに関しては同じかと私は思います。
流通革命のゲリラ戦は、正価販売を望むメーカーと廉価販売を強行するダイエーのあいだで数々の軋轢を生み、花王と十年戦争、松下ナショナルとで三十年戦争の遺恨を残します。
1975年、松下幸之助は中内㓛サンを松下電器の迎賓館、京都真々庵に招き、自ら茶を立ててもてなし、雨に濡れないよう傘をさして外まで見送り、こう言いました。
頁433
「中内さん、あんたももう会社をここまで大きくされたんやから、これからは覇道でなく王道を歩まれたらどうや」
中内はこれに対し、うなずくだけで、何も答えなかったという。
実際には、どら…息子が入社したあたりで、圭角がかなりとれたそうですが、それが佐高サンをして「転向」といわしめた、「流通反革命」なのかもしれません。
佐野サンは「首都圏レインボー作戦」をロンゲスト・マーチ、長征と揶揄しています。一号店が町田、二号店が赤羽。南北二正面から東京を包囲する。…次に作った八王子店と立川店がともに速攻赤字になったので、まずそこを立て直さなければならず、包囲は遅々として進まなかったとか。さらには松下をブッ潰す切り札になるはずの自社ブランド格安テレビも、安かろう悪かろうのノンブランドじゃーいやだわという消費者が多く、まったく振るわず、グループのお荷物になってしまったそうです。組合が強く生産性が低いメーカを傘下において、なんもいいことないかった。
しかしまあ佐野サンはエンタメ・ノンフというか、「三島由紀夫と格安テレビ」という章題にして、市ヶ谷のバルコニーからの演説文句から、「このままいったら『日本』はなくなってしまう。かわりに、からっぽで抜け目のないだけの経済大国が極東の一角に残るだけだ」というバブル予言を引いて、三島の予言を実現した一人が流通革命の中内サンではないかとしています。その日本も空の帝国としての時代はとうに過ぎ去り、今はまたそこに別のなにかが始まろうとする胎動の時代。
「(略)二番はビリと一緒なんだ」(頁460)
ダイエー熊本店が熊本モンロー主義の地元ゲリラの鎮撫慰撫、ローラー作戦を繰り広げるくだり、笹川一族が出てから一気に闇の紳士たちが絡み出すくだり、KBS京都買収に際して許永中が出て来るくだり、果てはパチ屋の経営にまで手を出すが、根が始末で釘が甘いと怒るのでパーラーはいつも閑古鳥、などがこの後出ますが、もうちょっとイイデスヨ、おなかいっぱい、という感じでした。
ただ、売り上げが落ち込んだ時期に経営を変わって陣頭指揮して「V革」を成し遂げた河島サンという人のくだりは、それまでの毛沢東比喩が比喩なだけに、劉少奇キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!と思いました。佐野サンは劉少奇比喩は(縁起が悪いからか)してませんが、「V革」の功労者が次々と左遷されるさまを、「下放」としています。紅衛兵を扇動して実権を取り返した毛沢東のプロ文革とダイエーの「V革」を二重写しにしたくてしかたなかったけど、重ならない面も多いので、あまりやり過ぎると「マスゴミ」になるので、自重した感じ。
本書は、イトーヨーカドーの伊藤雅俊サンと中内サンが超犬猿の仲であることも時々書いてますが、両者の違いも端的すぎるほど端的に書いています。
頁480
(略)中内が"地本主義"の考えに基づいた自社物件にあくまでこだわってきたのに対し、伊藤は自社物件よりはるかに投資額の安いリース物件によって店舗展開を進めてきた。この開発姿勢の差が、売り上げは日本一だが、利益はイトーヨーカドーに遠く及ばない中内ダイエーの今日の状況をつくってきた。
中国のスーパーはカルフールやら何やら、なぜかフランス資本が割と早期から多く、鄧小平がフランス留学してたからかなあ、と思うですが、日本のそれは他業種同様アメリカに追いつけ追い越せ一本鎗で、ただしその視点は著しくドメスなので、アメリカのモノサシで追い越すことを主眼としてはいなかったそうです。
頁327
「日本の流通業と不動産業の経営者は、なぜか、売り上げ至上主義なんです。こんなことはアメリカではまったく考えられない。彼らは経営をすべて投資効率でみる。投下した資本に対して少なくとも一〇パーセントの経常利益がでなければ経営者とはいえないんです。ではどうやったら投資効率があがるのか。要は、土地や建物の投下資本の分母を出来るだけ小さくしてやればいい。ところが中内さんはその逆をやってしまった」
数年前、田島は通産省(現・経済産業省)の委託で日本の量販店二十三社の投資効率の調査をしたことがあった。二十三社の平均投資効率は、アメリカで一応合格ラインといわれる一〇パーセントの半分にも満たない四・九パーセントという数字だった。
しかもこの四・九パーセントという数字には、実は重大な問題がはらまれていた。二十三社のうち、イトーヨーカ堂一社だけで一五パーセントの投資効率をあげており、これが全体の数字を押しあげていた。もしイトーヨーカ堂がなければ、日本の量販店の投資効率はさらに下がり、業界全体が危険水域に達していただろうという。
やっとここまで読みました。下巻も五百ページ近くあります。とほほ。以上
*1:
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『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』『ガマの聖談』『昨日の旅』『外国映画ぼくの500本』『マルチ侯爵の海外放浪記』『こしかたの記』は読みました。八年越しで読み進めています。
今週のお題「最近読んでるもの」
*2:
stantsiya-iriya.hatenablog.com
*3: