筑摩書房 完本 カリスマ 中内いさおとダイエーの「戦後」(下) / 佐野 眞一 著
カバーデザイン 間村俊一 装幀 安野光雅 解説 金子勝 巻末に完本版あとがき。略年譜、取材協力一覧、主要参考引用文献、主要人名索引あり。1998年日経BPより単行本。2001年増補版として新潮社文庫化。平凡社から2006年に出した『戦後戦記ー中内ダイエーと高度経済成長の時代』から一部再構成収録、ほか増補再編集して、2009年ちくま文庫「完本」上下巻刊。
一巻の、プロローグの次。いきなりこの出だしで、凡百の太鼓持ち本ともDISり本とも一線を劃す公正な伝記を心掛けた、と言われても、という。
ボーツー先生と福田和也サンの「SPA!」連載書評バトル*1に出て来た本。上巻感想は下記。
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下巻は、長男次男のエピソード、ハワイアラモアナのショッピングセンター、清算事業団への移管、逝去迄。エピローグに堤清二サンとの対談、それからちくま文庫版へのあとがき、関係略年譜、取材協力者一覧、主要参考文献一覧、主要人名索引。
頁10、1996年4月博多キャナルシティオープン。「那珂川の畔にある中洲のソープランド街を見下す形で出現」とあり、そんな風景なら一度見てみたかったと思いました。今でも見れるのでしょうか。
頁15、中国残留孤児訪日時お土産を買う場所として私が台湾人から教えてもらった思い出の場所、ダイエー碑文谷店のオーナーは横井英樹で、横井サンは店に現れると必ず一番高いステーキ用の肉を三、四枚、愛人にもっていくためレジを通さず持って行ったそうです。ここに日米貿易摩擦時、駐日アメリカ大使モンデールが訪れ、中内サンはロバート・レッドフォードのようだとおべんちゃらを言い、中内さんは同行の佐野サンに耳打ちして、ヨイショ言うとるが、ワシはせいぜい「汚れた顔の天使」などのジェームス・キャグニーやろと言ったそうです。
戦後生まれなので正しい旧かな遣いが書けず苦しんでいた擬古調まんが家原律子のほんわかエロショートギャグエッセーで、「ぼくはモンデール」「じゃあ私はフェラーロ」という会話がありました。たしか。この人のまんがも電子版になってないんですね。出来ないのか。
レッドフォードがキャグニーになったところで、自分をおとこまえに例えてることには変わりないです。今こうやっていちばんイイ写真だけで比較してしまうと。
頁30、ドリームランドがダイエー傘下とは知りませんでした。売却すると大船とドリームランドを結ぶモノレール計画が白紙になってしまうので、横浜市が待ったをかけたそうです。でもモノレール結局出来なかったですよね。相鉄いずみ野線は出来ましたが。
下記は阪神淡路大震災絡みの記事。
頁38
最初に、この震災で知人、友人に死者はでませんでしたかとたずねると、中内の口から「いや、いません、あの戦争でほとんど死にましたから……」という答えがかえってきた。私はその答えに一瞬胸をつかれた。
阪神大震災におけるダイエーの水際だった救援作戦は語り草となっている。手を拱くばかりの政府を尻目に、中内は陣頭指揮をとって、ヘリコプター、フェリー、タンクローリー、大型トラックを総動員して、被災地神戸に救援物資を送りつづけた。
政府もしのぐ、この見事な補給作戦の背後に、自分の商売の原点となった神戸に対する中内の思い入れがあったことは間違いない。だが、この補給作戦の裏には、それ以上に、中内がフィリピン戦線で遭遇した痛苦きわまる戦争体験が、おそらく重なりあっている。
何度も述べてきたように、中内は阪神大震災に遡る五十年前、一兵卒として、フィリピン戦線の飢餓線上をさまよった経験をもっている。いわば”棄民”として戦場に放りだされたその男が、五十年後、国の救援体制をはるかに上回る補給作戦を展開した。
さんふわらあ号即チャーター、接岸出来ない神戸港でなく大阪南港に陸揚げしてパトカーの先導でトラック隊を神戸入り、などの作戦は北海道南西沖地震や釧路沖地震を体験して作り上げた緊急物資輸送マニュアルの成果だったそうです。マニュアルはこの当時220ページ、冒頭に大書された基本モットーは「店から生活必需品を切らさない」だったそうです。ここで中内サンが物資をタダで配らず販売した批判へのアンサーが書かれ、佐野サンも完全に同意見ですが、そのアンサー、理論武装は吉本隆明のそれがそのまま引用という形で使われています。
頁52
(略)ダイエーは商人だから(つまり第三次産業体だから)、必需品を安価にすばやく被災者に提供するので、無料で配布するのは市民社会の契約と市民尊厳の原則に反する、企業体としてなすべきでないと、はっきり言っているのは見事だとおもえる。(以下略)
上巻の感想には書いてませんが、佐野サンは、ダイエーと山口組の比喩もよく使っています。ともに神戸で、全国展開を図る手法も似ていたからだとか。さらに若き日の田岡組長が、カタギ時代働いていた場所が中内サンの生家の薬局に近かったこと、ダイエーになる前、中内サン一家も闇市でモーレツに気張っていたこと、などが理由としてあるようです。しかし、毛沢東との比喩程想像の翼が広がらないので、上巻の感想には書いてません。下巻には、「風紀」という腕章をつけた山口組の救援活動も、現地入りした佐野サン自身の目撃として書かれています。
とまれ、本書を読まないで佐野サン批判をしようという人は、吉本隆明なんかおかまいなしに「なぜ神戸で無料配布しなかったのか」とつっこむと思いますし、ここでわざわざ吉本隆明を出してそうした批判をかわそうとしても意味のないのが現代のネット社会かもしれません。私はここを読んで、コロナカでトイレットペーパー買い占め転売が始まった時、岡田イオンが大々的に宣伝した、トイレットペーパーの塔を思い出しました。なんぼでも買い占めよし、ウチらビクともせえへんで! 負けへん!!! 的矜持、流通屋の維持が、中内ダイエーの系譜の末尾に繋がって見えたです。(でも報道されなくなった後、しれっと負けたかもしれない)
ここからは沖縄リゾート開発の塩漬けや、トンネル会社の数々。下記は2013年春に八王子で撮った貼紙。関係ありません。
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アラモアナ・ショッピングセンターを初めて訪れた佐野さんの感想は、「ブレードランナーの世界みたい」だったそうです。頁117。巨大フードコートには日本、中国、アメリカ、フィリピン、タイ、ベトナム、韓国、イタリア、メキシコなどの屋台料理が並んでいたそうです。ここにフィリピンが入っているのが流石ワイハーだと思いました。佐野さんは「なにやらえたいの知れないエスニック料理まで」とメチャクチャ書いてますが。下記は、同年刊行清野とおるマンガの帯に残るダイエー赤羽店閉店。
ダイエー店長のラスト・スピーチに熱狂!!
ベトナム料理タイ料理のあるフードコートは、下記の前川健一サンのプラハ旅行記にも出て来るので、さほど世界的には目新しくないでしょうが、フィリピンは珍しい。シニガンやビコールエクスプレス、アドボ、パンシットビーフンなどを出すんでしょうか。
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私の知り合いのライターのひとも、ハシシタ騒動前は目標とするルポライターに佐野サンの名前をあげてました。その佐野サンの真骨頂はいくらでも本書にありますが、やっぱりレッテル張りがうまいってことでしょうか。印象操作とか、キャッチコピーの達人と言い換えてもいいですが。ナカウチサンの「流通革命」にも負けない。頁142、堤清二さんは「西武というブランドの銀の匙をくわえて生まれてきた御曹司」ジャスコの岡田卓也は「四日市の大店おおだなの跡取り息子として乳母日傘おんばひがさで育てられた」イトーヨーカドーの伊藤雅俊サンは「貧しい下町に生まれた(略)にしても、生家は北千住一の繁盛店だった」で、中内さんは「神戸の場末の吹けば飛ぶような零細薬局の息子」と書いていて、伊藤さんと中内さんはそんなに差がなく、比較はやや強引ではないかと思うのですが、その辺がペンの力。
下はダイエー町田店。現在。
頁211、2000年くらいにダイエー新会長に就任する元通産官僚雨貝サンへのインタビューで、中曽根内閣が売上税を導入しようとしたとき、本書時点でライフの会長だった清水信次サンが日本チェーンストア協会の会長で、流通業界が一丸となって反対したそうで、竹下内閣の消費税のさいは二の轍を踏まないために、雨貝サンが中内さんと西武の堤サンを寝技だか腹芸だか人たらしだかで落として協力してもらったそうです。ご本人の弁によると、「(少しの間、沈黙)三十年以上の役人生活で、あんなことは一度しかなかった……。」とか。
頁218に株主総会でのメチャクチャな株主発言がそのまま収録されています。ダイエーはトリプルDの会社、ダイブ(沈む)、ダーティー、ダークネスで、「愛着仕様」でなく横着仕様だと。佐野さんや中内さん以外にも、気の利いたことの言える人士は江湖になんぼでもいてはるという。人生至るところ青山と口のまわる弁士あり。
同町田。自社物件なので、図書館にしたりマンションにして減価償却ということでしょうか。
頁280
「戦争で一番恐ろしかったのは何だと思う?」
そう中内に尋ねられ、われながら平和ボケ丸出しで、「さあ、敵の鉄砲の弾じゃないですか」と答えた。すると中内は、「そうじゃないんだ」と言った。
「一番恐ろしいと思ったのは、隣に寝ている日本の兵隊だった。眠ると隣の日本兵にいつ殺されるかと思って眠れない夜が何晩もあった。
補足すると、飢餓情況の日本軍の人肉食のうわさが背景です。
同。看板を裏から見たところ。
頁173、ダイエーホールディングコーポレーションの略がDHCと書いてあります。サガン鳥栖スポンサー企業のDHCが同じか別か、検索してません。ドコサヘキサコエン酸。
頁286、ダイエー産業再生機構入りと前後して、NHK海老沢会長やソニーの出井会長が相次いで引退した時の書き方も、「権力の座にしがみつき、最後は"エビジョンイル"と揶揄されて追放されただけの男」「粒粒辛苦してソニーを創業したわけでなく、エリートサラリーマンとして同社のトップにのぼりつめただけ」です。歯に衣着せないにしても、21世紀の現代はこうは書かないでしょう。すぐSNSでブーメランが返ってくる。
下は、2019年1月の横浜駅西口店閉店告知貼紙。
こうしたレッテル張りを同業者だけにして中内サンにしない保証はどこにもないので、佐野サンは日経ビジネスに本書の記事を連載中の1997年12月、中内サンから二億円の賠償を請求される名誉棄損裁判を起こされ、法廷で戦い、和解というかたちで法廷外で決着させます。些末な言いがかりばかりに苦笑させられたとはいうところはいっぱい書いてますが、和解内容は詳しく書いてないです。
頁297、借金のカタに、一族の住む豪邸やマンションが根こそぎ銀行に抵当がつけられ、次々人手に渡っていくさまが描かれます。なんともなあ。「無残な末路」と書いてますが、数年後それもハシシタ騒動でブーメラン。
海老名ダイエー
頁308、逝去時の晩年の記事では、自身の大学で講義する以外特に何もしてない中内サンの動静として、ホリエモン出馬時に「若いのは元気があってええなあ」と言ったと書かれています。ホリエモンもうれしいでしょう。
引いて海老名ダイエーもう一枚。
中内サンの美術品の鑑識眼は一級品だったとか。頁324。先述のライフ会長清水サンのよると、中うちサンとはよく剣道のけいこをして、六段の清水さんに中内サンが勝てるわけがないのですが、「真剣なら負けない」とかメチャクチャなことを言ってたとか。弔辞。「浅草おかみさん会」代表富永照子サンによると「銀行は芸者より薄情だ」そうで、芸者の本質もよくつかんだはったと思いました。あげまん。ホス狂い。
上溝 店内にドムドムバーガーがあります。お昼時なので、行列してた。
頁326に、数度にわたる「しのぶ会」などの政財界の参列者が書かれています。安倍サンもいます。二階サンも。中川昭一サンが来賓予定だったが来れなかったという司会者の発言がわざわざそのまま載せられています。
ふたたび相武台前とオダサガのあいだの店
頁332、中内サン朝鮮人説の紹介。ストレプトマイシンを横流ししてた、そういうことが出来るのは……でそういう噂が広まったとか。
座間のローソン。改装で休業中みたいです。ローソンもダイエーだったとは知りませんでした。上海の罗森壹號店に行った話は以前日記に書きました。ローソンの記事もまた、オーナー店絡みでいっぱい出ます。
頁347、中内が満州で駐屯していたのはスフナ《绥芬河》だったそうです。本書は「すいふんが」とルビを振っています。綏芬河小唄という歌もあって、酔うと中内サンは歌っていたとか。そのエピソード披露は前述の清水さん。
上巻に比べると、記事は多いけれど、の下巻です。トンネル会社ダミー会社を追うくだりにあまり私が興味が持てなかったせいかもしれません。登記簿調べて住所あたったり電話したりの繰り返しなので。佐野サンくらいになると、人も使うので、スタッフが作業したりも多いだろうので、それでちょっと薄くなった感じもあります。また、怪文書などを、普段は一顧だにしないけれどこれは、みたく使ってしまってるのも、水増しな気がしました。とにかく読めてよかったです。あわせて近隣のダイエーの写真も撮れてよかったですが、撮らなくてもよかったかな。以上
*1:
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『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』『ガマの聖談』『昨日の旅』『外国映画ぼくの500本』『マルチ侯爵の海外放浪記』『こしかたの記』は読みました。八年越しで読み進めています。