プラハ巡覧記 風がハープを奏でるように〈わたしの旅ブックス21〉 / 前川 健一(Maekawa Kenichi) | 産業編集センター 出版部
英語タイトルは下記から。来週もまた、見てくらさいネッ、フーガ、フッフッ。
完全に「相変わらず」な本です。巻頭のカラーページからして、こんなことを書いている。
トラムと地下鉄巡りは少しはやったが、まだまだ足りない。トラム全線完全乗車や地下鉄駅見物などをやりたかった。ある程度そういう見学散歩をやるのには10日ほど必要なのだが、プラハでの滞在時間を、トラムと地下鉄の調査に費やすという気になれなかった。私は旅をしたいのであって、調査や取材はしたくなかった。
どっちやねんという。ただ、2003年とかその辺に、東南アジアの三輪車で味をしめたのか、就活で必要だったのか、コタツ仕事で旅行業界史などを二冊まとめたのよりは、原点回帰していて、好感が持てなくもないだろうと(アンチ除く)
就活の結果、天下のアングリカンチャーチ大学、ブクロの立教で観光学部兼任講師を、おそらく定年まで、2018年退官でつとめたということですので、年金もそれなりにあるのかもしれませんし、それでいて、講師をやりながらも、学生が休暇の時には旅行してたようなので、仕事も余暇もリア充xリア充な人生で、ええなーと思うです。うーん、でも、弱みは書かない人だけれど、介護もあったのだろうかと、オチまで読んで、思います。その辺分からないですけれど。
相変わらずなのですが、この「わたしの旅ブックス」シリーズは、記念すべき第一冊が蔵前仁一で、二冊目が下川裕治です。本書は21冊目。
旅行・紀行 > わたしの旅ブックス | 産業編集センター 出版部
あとがきによると、アジア文庫のホームページでやっていた連載が、店主急逝でそのままになったのち、旅行人に移行して(現在ははてなブログ)そこでこの旅行も記事にしていて、そこに産業編集センターの佐々木勇志さんという方が声をかけて、書籍化したそうです。あとがきには2019年にエストニアやポーランドを旅行したと書いてるので、はてなブログには他の旅行記も載ってるのかもしれませんが、はてなブログの厚い地層からそれを発掘する作業を、私はしていません。カントゥルムというタイの音楽の、ダーキーという歌手が逝去した際の前川健一サンの慟哭は、検索で出たので読みました。
最初のカラーページには、こんなことも書いている。
撮鉄ならぬ撮トラムというマニアなら、どこに行けば「絵になる風景」が撮れるか調べるのだろうが、私の場合は、散歩の途中の、「たまたまの出会い」だ。撮影地はすべて記憶しているが、説明は省略する。
まためんどくさい人ぶりが始まった、と思いながら読みましたが、後で、「Gダイアリー」という雑誌の存在を知り、これは、「最強MAP」的なものにひとりでそっぽを向いたバンコクの孤狼、前川健一の2020年なう、なんだろうと思いました。実は最強MAPに迎合してました、てなことだったらごめんなさい。
頁010 プロローグ
春先から、今年の秋(二〇一八)はどこに行こうかと考えていた。旅行先を選ぶ条件のひとつは、「ひと月散歩をしていても飽きない街」だ。散歩の楽しい街は世界にいくらもあるが、「ひと月遊べる」という条件を付けると、大阪のほかそう多くはない。世界地図を頭に浮かべて、そういう街を探した。ニューヨークやサンフランシスコにまた行きたいが、滞在費が高くなりすぎる。ロサンゼルス郡のサンタモニカの住む友人が「ウチに来ればいい」と言ってくれたが、ロサンゼルスほど散歩と相性の悪い街はない。「せっかくの好意だけど、サンタモニカはごめんだな」と返事を書いた。
ひどい男だなあ、と思いました。これが、バンコク関連の本に登場した、アメリカに移住したタイ人女性とか、タイ歌謡を共同研究した邦人男性とタイの奥さんの夫婦だったりしたらまだいいんですが。どっちみち、せっかく誘われてるんだから、断るにも断りようがあるんじゃない、もっとま~るく収めた言い方ガー、と思いました。
でまあ、ここで、若い頃、『アジアの路上で溜息をひとつ』の頃に、エジプト経由で地中海沿岸のユーロプにまで行っておきながら、速攻でバンコクへ引き返したバカっぷりを糊塗するため、さんざん欧州旅行をDISったかつての自分を前言撤回して、やっぱしヨーロッパもいいな、と一筆宣言してくれないと、なんだこの男の変節ぶりは、と、もやもやしながら読み進めることになります。わだかまりがほぐれない。上記ロサンゼルスの手紙のように、いい意味で欠陥がある人なのでしょうから、気にしないで読めばいいのですが、どうかな。
プラハのドミトリーで活発な談義して楽しかった、若者もスマホばかり見ないでトークに加わりなさいとか、プラハのファストコートフードコートでローカルフード食べておいしいとか、何を書かれても、その前に言うべきことがあるんちゃう? と冷めた目で読むしかないです。これが書き下ろし単行本でなく、即時反応があるウェブ連載でしたので、ツッコミ入れる人が一人もいなかったのだろうか、うpしてもひとり、なまあたたかくヲチする人すらいない恐怖、だったのだろうかと空恐ろしくなります。多分諫言を聞き入れなかっただけだと思うのですが。そう思いたい。
頁027 第一章 プラハへ
毎夜の座談会に参加するアジア人は私だけで、中国人も韓国人も参加しなかった。ロシア人も参加しない。座談会に参加するのには、高い壁がふたつある。
この人が英語トークにひるまない人であることは、かつての旅行記でも分かっていることで、この点も、日本人だまりに沈没して、「毛唐ガー」とか言ってる庶民から浮いていたわけですが、その頃はまだ韓国人も大陸の中国人もバックパッカーやってなかったので、状況がアップデートされた記述が読めてよかったです。韓国人や中国人も西洋人と交わらず、自国民同士固まるのか。かつての香港人は違いましたけど、とは思う。台湾人はバックパック旅行あまりしなかった。パスポートの問題があったのかもしれない。ロシア人については、以前、東京で、英語の集会に出たほうがよくないか?とあるロシア人に言ったところ、いや、白人は白人で、非英語圏に対しいろいろあるんだ、あなたがたのほうが、僕の肌の色も外見もまったく気にしていなかった、こちらのほうがいい、と言われたことを思い出します。
日本人だまりの座談会は、団塊ジュニア世代のパヨクやネトウヨから説教されるだけなこともあるので、そういう時、今はスマホに逃避出来るわけですから、三十六計逃げるに如かずです。
頁046、南部の、チェスキー・クロムロフというところの、美術学校の近くの路地で撮った写真だそうです。LINEなのか。
美術学校の近くなら特定出来ないかと思って地図検索しましたが、エゴン・シーレやらなんやらで有名な街らしく、アートスクールはたくさんあって、特定出来ませんでした。
頁047からしばらく、初心者の付け焼刃のチェコ語発見!そのミリキ!が始まって少し続くのですが、uzeeeeeeと思う以前に、この労力の何千分の一かでも、前川健一サンの人生で、ある程度一定の時間を捧げた、タイのタイ語に費やしたんかいワレ、と思うです。けっきょく、チェコ語はローマ字で書かれた言語だからとっつきやすかった、ある程度学習出来た、だから開陳する、それだけだと。タイ語でこれくらい書いてくれればよかったのに。カタカナでどう書くかについて、アンチとの長い不毛な戦いなんかしないで。現在タイ関連の日本語版ウィキペディア見ると、前川流のカナ表記は、ほぼ完全に一掃されていて、私として賛同するカナ表記も多少あったので、残念閔子騫です。色即是空、空即是色。
頁049によると、前川健一サンは、「ヴ」というカタカナを使わないそうなので、ぜひ東京ベルデー1969のサポーターになってほしいと切願します。ヴリ売りが、ヴリ売りに来て、ヴリ売れず、ヴリ売り帰る。ヴリ売りの声。
頁079、チェコも改札のない国だそうで(旧社会主義国なのにないんだ、と思いました。とっぱらったのかもしれない)もちろん一罰百戒の見せしめ検札はあって、検札で見つかった場合、カード払いも出来るそうです。ここは、へえと思いました。
頁092、ミュシャはフランス語で、チェコ語ではムハ、というそうです。いい男。やらないか。
頁093 マルタ・クビショバーとベラ・チャフラフスカ
大阪の堺市立文化館「堺アルフォンス・ミュシャ館」には行ったことがないが、ホームページで見る限り、プラハのこの美術館は、規模の点では堺に大敗している。これは、チェコの悲劇といえるかもしれない。プラハの美術館の入場料は日本円にして約一二〇〇円だが、堺市の美術館は五〇〇円だ。
コタツ仕事やめれといえばいいのか、よくもまあ見もしないでチェコの悲劇とまで書けまんなあ、長生きしとおくれやす、といえばいいのか。これもまたこのオッサンの長処であり、毛病。「チャフラフスカ」は、イニエスタをイエニスタと誤記する如く、誤記があったりしますが、どこだか付箋貼ったのを外してしまいましたので、もう忘れました。私もこの情報過多の時代に、細かい字をチェックするのがめんどいので、もうそれはいいです。本書には、グーグルを「グーグール」と誤記した箇所もあります。
で、ここから、チェコの春を代表する歌手の話になり、読ませないこともないので、割愛します。久住昌之ならこのジャケ買いに共感するかもしれない。頁116は、ザトペック投法が登場します。村山実の名前も。それもまた、ヘイ、ジュードに関連した記述。
頁121
ウィキペディアでは床ではなく「平均台競技で……」と長い解説をしているが、映像が残っているのでおそらく勘違いだろう。やはり、ウィキペディアの信頼度は低い。
このように書きながらもコタツ仕事の味を覚えてしまった老人の悲しさ、英語版ならマシだろうということで、本書も英語版Wikipediaなどからたびたび引用しています。日本語版ウィキペディアを親の仇のように敵視するのは、青春を捧げたタイ雑学に関して、それに関連した項目の記事で、ほぼ抹殺されているがゆえか。
頁128 チェコの食文化
チェコの料理に対して期待がないから、失望もなかった。タイ料理のように、「こいつはうまい!」もなければ、「こんな臭い草が食えるか!」という怒りもない。
チェコで、「可もなく不可もなく」という料理を毎日食べていてふと気がついたのは、「家庭料理って、そういうもんだよな」ということだった。母が作る料理が、「毎日、感動的にうまかった」ということはあまりないし、毎食「まずくて食えない」ということもない。家庭料理とはそういうもので、それでいいし、それがいい。
別に男女の性差役割分担の抑圧をジェンダー的に開放するため、作者を糾弾しようとして引用したわけではないです。映画「ファウンダー」でマクドナルドを乗っ取る創業者は、チェコ移民の子孫だそうです。頁149。そして、チェコ料理については、ジェトロが出版もやっていた1997年に出した『プラハの春は鯉の味』北川幸子、が詳しいそうです。先の歌手も、体操選手も、チェコビールも、それぞれ専門書を挙げてますが、巻末の参考文献一覧は、歴史関係だけで、そこを見てもこうした本があることは分かりません。ここは笑いました。お手軽に俺の仕事を盗めると思うなよ、的な矜持なのか。
頁237 近頃都ニハヤル物
私はタイ国外でタイ料理は食べないことにしている。高くて、不味い可能性があるからだが、(以下略)
池袋のタイ料理で嫌な目にあったのだろうか、と思いました。
頁233 近頃都ニハヤル物
「チェコのベトナム料理店には、中国人経営の店も少なからずありますよ」とも言っていた。「テーブルにニョクマムを置いてないと、中国人経営の店です」
著者は、チェコのフードコートというか、スーパーの惣菜にはスシもあったのに、それを試してないのは、食文化研究者としてはシロウト、まだまだだなと韜晦していますが、いまだにパクチーが食べれないのだから、そこで謙遜しなくてもイイデスヨ、と思います。業績はかつての二冊と、2006年くらいに小泉武夫絡みで責任編集した仕事だけでいいだろうと。一冊の本も書いていないラーメンブロガーだってようさんいまくってるご時世に、過去、これだけの業績があっただけでもえらいこってすぜ、という。
頁155 チェコの食文化
テーブルのニョクマムを振りかけて、「ああ、これだ!!」とわかった。料理がうまいのではない。並みの料理だが、アミノ酸のうま味に感動したのだ。調味料は塩だけという料理に飽きていたのだ。
タイ料理は行かないわりに、ベトナム料理はよく行くな~と。中華も行ってます。中国にはいい加減旅行に行ったのだろうか。韓国料理は和食同様、出ません。ビルマ料理も出ない。ムカテ・カヤも食べない。
頁194 建物を見に行く
コーヒー通がバカにするような安コーヒーが好きなのだが、日本のコンビニ・コーヒーは色付きのお湯という感じで、私にはあまりに薄く、うまさはまったく感じない。
これは、たぶん、セブニレブンが始めた、コンビニコーヒー革命をちゃんと体験してないのだと思います。体験したら、しれっと、違うことを書き飛ばすと思う。
建てもん見物は、石を投げれば重層建築物に当たる古都だし、歩く人は素人だしで、なんでこの年でそんな背伸びするんだろう、背のびしたけりゃ背中に彫り物でも彫ればいいのに、と思いました。大手町やザギン、日本橋を歩いて、ぺらぺら蘊蓄が出る人ならまだしも、という。ただ、頁184に出てくる、「二軒長屋」"Semi-Detached House"は、韓国の連立住宅じゃん、と思いましたので、かつて自身を評価してくれた、関川夏央の『ソウルの練習問題』をここで出してあげてもいいのにな、と思いました。
こういう傲岸不遜な人が、たまに先人に謝辞を述べていると、かえって不穏な空気を醸すもので、頁245の、松岡環への謝辞がそれにあたります。同姓同名の人がいますが、南京アトロシティーでなくインド映画の方の人。実は別人でなく同一人物と言われても私には分かりません。
「第七章 ティナと」というインドネシア系マダガスカル人の血を引いたベルギー人の若い女性とのドミトリーでの逢瀬のギャラ飲み(うそです)は、これがGダイアリーだったら、まどろっこしいことやってないで、とっとと脱がせ、なんて言うのは青二才で、こういう過程を楽しむもんなんだよなあ、異国のアヴァンチュールは、と、好感が持たれる記事かも知れません。なんにもしないでプラトニックのまま終わるとはなんというフニャチンであろうか、と、最後まで読んで怒るか、たまにはこんなのもいいか、さて著者は……前川健一!!!!!!!!!!!!!!!!!となるか。
頁251 ティナと
ベルギーのそういう街で生活したいかと問われれば、「眠くなりそうだな」と答えるしかないが、それは今では決して否定的表現ではなくなった。若い時は、「そんな眠くなる街なんかうんざりだ」と思って、ヨーロッパを避けてアジアの雑踏に飛び出して行ったのだが、今なら「うとうとできるくらい静かな街なら、それはそれでいいじゃないか」となった。退屈な田舎は嫌いだが、のんびりできる小さな町はしだいに肌に合うようになってきた。
バンコクのように、二四時間いつもどこからでも、エンジン音が鳴り響いている街には、もううんざりしている。しかし、アジアの雑然とした街には、うまいものがいくらでもある。それが、旅行先選びの大問題だ。
285ページの本の251ページまで進んで、やっと、かつての欧州蔑視を撤回した旨報告して来る。しかも、田舎嫌いはまだ直らないと、わざわざ付け足している。三つ子の魂百までで、ああめんどくさかった、と思いました。こう書いてますが、もうアジアには行かないんじゃいか。
いちおう、頁224に、プラハはけっして手放しで安全な街でなく、チェコの人口一万人当たりの犯罪発生件数は日本の2.5倍、殺人が二倍で、路上強盗は八倍(プラハの日本大使館の犯罪報告書からの引用らしい)と書いていて、悪徳タクシーと悪徳両替屋も問題、と書き、Gダイアリーではないので最強MAPも突撃取材もないですが、タイマッサージの店がどうのこうの、と続きます。でも、なあ。iオチの、オーストラリア人夫婦との対話もいいんですけど、立ち位置が少し違うと思うので、室橋裕和という人や、西尾康晴という人と、タイの文化について対談してもらって、それからでしょうか。次の旅行記は。以上