『行為と死』『嫌悪の狙撃者』『暗殺の壁画』(石原慎太郎の文学❺)"Deed and Death." "The Disgusting Sniper." "Assassination Mural." (Literature of Shintaro Ishihara❺)読了

books.bunshun.jp

下記の事件を取り扱った小説『嫌悪の狙撃者』を読もうと思って読みました。

少年ライフル魔事件 - Wikipedia

私は石原慎太郎サンには詳しくなくて、小説家としては、障子を破る小説で一躍脚光を浴びたことなど、一般教養として知っているくらいです。小樽にも行ったことはありません。短編を一個読んでここに感想を書いていて、その作品は、まだ新中流が大量に大学入学する前の時代の青年の、虚無的な快楽追求をスケッチした作品として強く記憶に残っています。

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『NOと言える日本』は、ある人から課題として出されたので読みましたが、栗本慎一郎『パンツを脱いだロシア人』のほうが面白かったです。しかし、『NOと言える日本』は「摩擦」と書いて「フリクション」とルビを振っているので、フリクションボールペンが世に出る前からフリクションの意味を知ることが出来ました。この本を課題に出した人は、ペルーでフジモリ大統領が当選した時、筑紫哲也NEWS23の中継で大統領に「日本のみなさんに対して日本語でひとことどうぞ」と言って、フジモリ大統領がスペイン語で「確かに私は両親から日本の熊本地方の方言を受け継ぎ、意思の疎通をしており、父母の言語を尊重しておりますが、(多民族国家)ペルーを代表する公的な立場にいるわけですので、公用語以外の個々の出自の言語による挨拶は控えさせて頂きます」なんてことを言ってやんわり断った(らしい)時、「そらそうや筑紫哲也なんちゅうこと言うてくれはったんや、大統領が日本のほうばっか見て当選そうそう日本ヨイショしはったら、(あの国の富裕層の白人れんじゅうから)大統領は日本のヒモつきや思われるやんけ、そしたら大統領かてかなんやろ」みたいな思いを抱いてTBSに抗議電話した人で、そのエピソードも私に強い印象を残しています(でもその人の名前を忘れた)「そんなん考えすぎやで」「オーバーやなあそのオッサン」とだいたいの邦人は言ってくれるのですが、白人の黄禍論、イエロー・ペリリュー否イエロー・ペリルを、日本のだれそれが持つ潜在的不安要素に置き換えて考えてみてはどうでしょうか。むかしトヨタの会長やらはった張富士夫サンは江戸時代から続く由緒ある日本のお家柄*1なのでちがいますが、それとは別に、なんか中韓にルーツを持つ政治家、たとえば蓮舫サンが総理大臣になって苹果日报に國語で"首先我向大家忠心表示非常的感谢,对祖国各位先生的广大支持,我表示非常非常的感谢透顶!"なんてやったら(いくら北京大学留学でも簡体字でやるわけありませんが)ざわつく日本人ようさん出はるんやないでしょうか。

『NOと言える日本』のフリクションといえば《中國可以説"不"》ですが、こっちもロクに読んでないです。石原サンの都知事時代の功績*2の中に、首都大学の設立があるのですが、首都大学という名称はペキンが先でしたので、なんで中国と同じ名前、ショウドゥーダーシュエ持ってきたかなあと、それだけはよく思ってないです。都立大学でよかったのに。横浜市立大の行く瀬がない。『暗殺の壁画』頁493に、チョングオクーイーシュオブー同様に、フィリピンの政治家が日本の先進工業技術導入が肝要という場面があり、石原慎太郎さんはそれに応じて、小手先の技術だけではダメだ、日本の根底を流れる文化体系、基調となる思想すべてをひっくるめた、「縮小(ミニチュアライズ)された日本をどこか貴国の小さな島か県に移植してみてはどうか」と言うのですが、そういえば《中國可以説"不"》のそこには、日本は枯れた技術といえば聞こえはいいが、先進でない流行おくれの技術ばかり海外に出すという不満が書かれてました。池澤夏樹が『マシアス・ギリの失脚』を書いた時に、石原サンのこの思想を意識してたかどうか知りませんが、『暗殺の壁画』のフィリピン政治家は、日本のMITI(通産省)主導の官民一体護送船団方式への米国人批判を伝聞で語ることで応酬しており、そこでアメリカ出されてもね、と思いました。フィリピンでは工業団地にすら安定した電力供給が保証されていないので(電力不足からたびたび計画停電とそうでない停電)小手先の技術移植しても社会インフラの未整備と治安からその後えんえんどもならんという未来予知は、その政治家にも出来ていなかったです。

中国韓国は、ミニチュアライズされた日本という発想を、日本の想定外の方法で実現。要するにリストラされたり自己退社した優秀な技術者、社を出ていく者のほうが権力闘争に長けるがゆえに社にしがみつけるものより往々にして優秀、のケースを一本釣りして、国内工業団地内に隔離居住させて開発部門をやらせるという、邦人が国を愛さず金に釣られてそれらの国に貢献するわけないだろう、的一種の性善説の盲点をついて大成功。か、どうかは知りません。呵呵呵。そういうことへの恨み節はなかなか左翼批判につながらないので、やったもん勝ちっぽいことは確かです。たぶん石原サン的にも想定外な邦人の個々の動きな気瓦斯。

『暗殺の壁画』のこの部分は、フィリピンの政治家が、時の政権とズブズブ、というか政権を支える副首相ぐらいの力を持っていた丸紅以外の商社との仲介を石原サンに依頼した箇所です。実は石原さんはその政治家が政治犯として収監された時、丸紅社長檜山サンに緊急にアポをとりつけ面会し、時の大統領(マルコスのヨットハーバー含む大別荘は丸紅からの贈り物)にその政治家を殺すなと一本電話入れて呉れと依頼し、了承されており、その事実を政治家に告げますが、政治家はその恩義を聞かされても丸紅でもオッケーというわけにはならず、しかし彼自身が丸紅からどういう仕打ちを受けたかなどは書かれません。また、石原さんが実際にほかの商社を彼に紹介したかどうか、紹介したならどこの社か、なども書かれません。こういうところが石原さんの実録小説のひとつのスタイルなのだなと思いました。わざと情報を書かないというより、そういうディティールを読みたい読者を思い浮かべられないのかもしれない。私としては、韓国元大統領イ・ミョンバクサンの自伝を読んだ時、ヒュンデもばちばちに丸紅と世界各国でやりあっていて、で、ヒュンデは旧ソ連などでは日商岩井と組んでいたと書いてあったので、そういうインフォメーションが読みたかったのですが、残念閔子騫です。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

あと、石原サンといえば、仲本工事に外見が似てると言われるホンカツが、貧困なる精神かなんかで、石原さんは堀江謙一*3サンのさいしょの太平洋ぼっち捏造説をしつこく唱えていたと紹介していて、それを石原さんへの人格攻撃につなげていましたが、本書の解説は「あの」西木正明サンですので、探検部あがりが石原サンをどう評価しているか、けっこう期待しないでもないかったです。そこは肩透かしでした。探検部と正統派運動部との境目、境界線はよく分かりませんが、スポーツマンとしての石原慎太郎サンは、泉麻人サンに似てる気がします。なんとなく。

泉麻人 - Wikipedia

装幀 関口聖司 題字 華雪

電子版なし。文春公式に、許諾を経てきちんと表紙画像をDL可と書いてあるのですが、公式のその表紙画像だと、タイトルがタテに並んでいて、実際のヨコ並びと異なっています。なんでだろう。

以下各話感想。

『行為と死』"Deed and Death."

「文藝」1964年2月号掲載。西木正明解説によると、「戦争文学の傑作」です。スエズ動乱を舞台に、英仏イスラエル連合軍におされまくったナセルエジプト側が、エジプト海軍輸送船ゾエラ号を自沈させて運河を封鎖しようとした作戦実行者が、現地女性を愛した若き日本の商社マンだった、という史実フィクションないまぜの小説とのこと。詳しく検索すればこの作戦も探せるんでしょうが、ぱっと「スエズ動乱」の日英ウィキペディアを見た限りでは、書いてませんでした。

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国連では、英仏の拒否権行使を押し退けて米ソが採択[12]させた国際連合安全保障理事会決議119によって平和のための結集決議に基づく特別緊急総会が招集された。英・仏・イスラエルに対し即時停戦を求める総会決議997が11月2日に採択された。

この戦争は、実戦ではエジプト軍のボロ負けだったのですが、米国大統領アイゼンハワーソ連をさそって国連を使って、英仏イスラエルの全面撤退を実現させ、スエズ運河の国有化でナセルを勝利を導きます。ウクライナでは、ロシアと中国の安保理常任理事国が反対するから国連が機能してないなんてよく言われますが、過去には安保理常任理事国が反対してもそれを潰せた時代もあったんですね。

それはそれとしてというか、小説はそうした大局的な結末はいっさい描かれず、作戦の成否もよく分からず、人々に記憶がなまなましい時代だったからあえて書かなかったのかなと思いました。作者の本書特別エッセイ『暴力という業』によると、ソ連スエズのドサクサにハンガリー侵攻したが、あえてこっちを書いたとか。戦後、負傷から癒えた青年が帰国して、平和な日本で邦人女性に手を出して愛欲に溺れるかと思うと彼女の部下のもっと若い新卒女子にも手を出して妊娠させる(相手はいやがっていた)というgdgdと、戦火のテンションマックスの描写が交錯する構成になってます。女性にいってしまうタイプの男性という点で、足立倫行『1970年の漂泊 バヤ・コン・ディオス』*4を連想しました。そして、読み飛ばしたせいか、異教徒を愛したエジプト人女性のその後がどうなったか不明で、ハゲなのに後ろ髪を引かれています。

中表紙の口絵は石原太郎サン(ママ)ご本人。

『嫌悪の狙撃者』"The Disgusting Sniper."

「海」昭和45年(1970年)2月号から6月号掲載。のちに加筆。著者から、山口博久弁護士、近藤宗一博士、保崎秀夫博士に謝辞。

西木正明解説「ー果てしなき存在確認の旅路」によると、「カポーティの『冷血』に日本的な湿度と温度を加えたような、奥行きの深い作品」だそうです。

頁202から216の「三 観客」は、石原サン自身の渋谷銃撃戦観戦記です。米国本土からハワイホノルルまでのヨットレースに十年がかりの念願叶ってやっと参戦出来、そこから帰国して青山で知人と待ち合わせて三崎のヨットハーバーに向かうつもりが、知人がすぐ近くで籠城銃撃戦やってると言うので、おっとり刀で野次馬見物に駆け付け、見物人も次々に撃たれたことから、自分も犯人のランダムシューティングもしくは狙撃の標的となっていることを知ります。そんな状態でありながら、石原サン自身は犯人への共感と賛歌を抑えることが出来ず(表現者ですね)また自分の生命が脅かされていることへの嫌悪と拒否をはっきり感じます。傍観者と当事者のふたつの二律背反する感情を同時に感じたことが、本作執筆の動機なのでしょう。人間の暴力に対する考察。

座間の山林で鉄砲バンバン撃って、警官もおびき出して複数殺傷してる事件を描いているというので読んだのですが、作中で彼が往来に使った「ひばりが丘入口」というバス停が、現存してないのか改名したのかフィクションなのか、見当たりませんでした。

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「ひばりが丘」のつくバス停は、座間ではこの二つでしょうか。西武池袋線西東京市とか福岡に行けばまだあるんでしょうけれど。雲雀ヶ丘と漢字で書けば名古屋にも宝塚にもあって、満洲にもかつては。座間のそこから、雑木林のあるような、かつて狩猟が出来たようなところは、ちょっと離れている気がします。この事件は昔からいる人は誰も知らず、新しく来た人が、ここの公園がそうじゃない、なんて言ってるそうですが、そこだと、この辺りのバス停ではなさそう。

最近はもうすっかりモデル小説というのもないように思います。田辺聖子はんの与謝野晶子など何冊か読みましたが、けっきょく小説家は小説家本人でしかなく、実在した他者の内的感情などを推測しながら書いても、本人足りえない。近世までの、徳川家康とか織田信長ならしかたないですが、近代以降の人間だと、資料も多いし、ナカナカその手法は無理があって、モデル小説は廃れたのだろうと思います。読んでる方が、小説家が紙の上で別人を演じる様というか、コスプレについていけない。登場人物はぜんぶ作者の分身ですからね。まったくの別人の思考を描き切ろうとするのは神の領域。

ので、石原サンも、鬱屈した青年、たぶん自分とあまりに異なる育ちの青年の鬱屈した感情と環境を描こうと、資料万端、豊富な情報を活用しつつ描こうとして、しかし結局かんじんな部分は裁判記録丸写しだったりというところに落ち着かざるを得なかった感があります。檀一雄が『夕陽と拳銃』を書いたようには、渋谷の銃撃戦を書けなかった。満洲の荒野と戦後日本では、あまりに状況が異なったのか。主人公はやっぱり海外脱出を夢見ていたようで、まだ当時移民も行っていたブラジルは銃所持オッケーなどの情報も得つつ、船員として国外の港も寄ったりしていたようです。しかし最終的には国内で事件を起こす。ピエール・ブルデューがチラ見したら、文化資本の有無で速攻結論づけてしまうでしょう。

後年西村賢太直木賞芥川賞とった時に、石原慎太郎さんはなんかいろいろ褒めたりスカシたり言ってましたが(内容忘れました。なにしろ私は当時の西村賢太のAKBのオキニが柏木由紀だと模造記憶してるくらいなので)この事件も脳裏をかすめつつ言ってたんだろうかと、ふと思います。

裏表紙。「石原」という篆刻(ちがうか)のハンコでしょうか。

『暗殺の壁画』"Assassination Mural."

1984年7月25日河出書房新社刊。本書の底本は1997年8月25日刊の幻冬舎文庫

その前年八月にマニラ国際空港で帰国直後暗殺されたマルコス大統領の政敵、ベニグノJr(ニノイ)アキノ氏について、翌年七月に親友として発表したノンフィクション的小説です。Wikipediaによると、福田和也サンは石原慎太郎小説のうち、やはり自伝的な『わが人生の時の時』をその書評集で最高評価をつけてるそうですが、政治家と小説家二足の草鞋を履き続けてどちらもそれなりの評価を収めてしまうというぜいたくかつ貪欲な人生を送った人なので、これもまた、ルポルタージュ的要素から、非常に面白いんだと思います。

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頁606 特別エッセイ『暴力という業』

 私が参議院に初めて当選した直後、彼もまたフィリピンの選挙でトップ当選したということでの共通点で、彼がいきなり私の事務所を訪ねてきた。ちなみに、同年生まれということもあって、なぜか初対面から気が合い以来家族ぐるみの付き合いとなった。

石原サンの三男のしとが米国留学する際は、向こうから過剰なくらい熱く面倒を見てくれて、中国とか韓国みたいだなと思い、アキノサンも華人なのかしらと思いましたが、よく分かりません。奥さんのコラソン・アキノサンがフィリピン華人なのは有名ですが、アキノ家はそこまで検索しなかったです。マルコスサンも、四方田犬彦の本で読みましたが、貴種流離譚の一種で、別にそうではないのですが、華人の血を引いてると匂わせたこともあったとか。

三男のしとも、邦人なので、過剰に借りを作るとあとが大変という日本の常識をもって、あまりアキノサンの世話にならないように逃げようとして、そういう気持ちを赤裸々に手紙に書き、それがそのまんまバーンと載ってます。頁504など。三男のしとは、良純ではないそうなので、そこも残念閔子騫です。良純は出ません。長男は頁510に出ます。米国留学中中南米女子に熱くなって結婚すると言い出し、父親から冷や水でも浴びやがれと言われ、浴びたら冷静になりましたと返事したとか。

頁453

 初めて日本で会った後、招かれて行き、彼の案内で、彼の操縦する飛行機で飛んでいった首都郊外の、あの国一と言われるアキノ家所有の砂糖黍畑のある広大な農園ハシエンダは、一辺一三マイルの正方形で、そのなかに農耕収穫精製のための要員のつくる一つの町と二つの村落、彼らのための銀行、郵便局、病院、そして作業のための全長二〇マイルの小型鉄道があり、その農園の警備をするのはアキノ家の紋章を徽章にした二百名の私兵だった。飛行場の脇には日本人の銀行員が時折来てプレーするという一八ホールのゴルフ場と、超近代的なゲストハウスと、三段に分かれ、溢れた水が滝のように流れ落ちる豪華なプールがあった。そして同じ農園で作業する人々のほとんどは裸足でしかなかった。

 帰りの飛行機で、私は本気で彼に、

「君がこんな財産を持っている限り、民衆から本当に支持される政治家にはなれないのじゃないか」

 と言った。

 彼の答えは、

「どこかのビッグファミリーから出ない限り、この国では政治家が大衆から支持されることはあり得ない。その形のなかで、政治家として、自分の家に属する人間たちやその他の大衆に何を約束し、何を与えられるかで、政治家としての評価が決まるんだ。その証拠に見ろよ」

 旋回しようと傾けた機上から彼は、首都につながる大きな湾の入り口に近い、小広い入り江と、なかに浮かぶ小島を指差した。

「俺の家はこの国ではせいぜい十五、六番目のものだが、昔、わが家の顧問弁護士だった現大統領閣下が興されたマルコス家に、もうじき誰も及ぶ者はなくなるだろう。あれはマルコス帝王に日本の商社丸紅が貢いだ宮殿だよ」

 眼下の入り江に(以下略)

マルコスが権力を利用してどのように数少ない国内寡占企業を自分のものにしていったのかも、別のところに書いてあり、地元への露骨な利益誘導なども書いてあるのですが、個人的に、田中角栄の辣腕や越山会とどう違うのかくらい、比較してくれたらなと思いました。昨今は、善悪のコンプラの基準がほんとにあいまいになってしまって。

また、ここの前段で、人口の十パーセントに満たない富裕層が富の九十パーセントを支配するとあり、そこは今の中国と同じなのですが、ちがうのは、スペイン時代の大土地所有制をアメリカーがろくすっぽ農地改革せず、人々が大名や豪族みたいな富裕層に使えることにのみ生活が保障されるので、そこに忠誠を誓う社会だ、日本でいうと蘇我氏とか藤原氏の荘園があった時代と実質的に同一、と書いていて、( ´_ゝ`)フーンと思いました。今でもそうなんでしょうか。また、そこにスペイン系以外に、スペイン語名を持つがゆえにインビジブルなフィリピン華人はどれだけいるのか。

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頁442

「マルコスに勝つなんてもうどうでもいいじゃないの。大統領が欲しいと思うなら、なんでもくれてやればいいわ。何も取り戻さなくてもいい」

 叫ぶように言うコリーへ、

「そうじゃない。俺たちのために帰るのじゃない。君が毎週一回許された面会のたびに、奴らの前で素裸にされて検身されるのを我慢しながらあそこへ通ってくれたのは、俺だけのためか。そうじゃないはずだ」

本作には若宮清という、戦後珍しく成功した大陸浪人みたいな人がたくさん出ます。うらやましい。この人にはなんら注釈がなく、三男の「ヒッピーみたいな人」という容姿の形容があるだけで、そのへん、すごく相手によって描写に落差があるのも、石原小説の特徴なんだろうなと思いました。途中まで、誘拐された若王子サンのことかと頭ごちゃごちゃになりながら読んだです。

若宮清 - Wikipedia

三井物産マニラ支店長誘拐事件 - Wikipedia

頁513に、中川一郎の自殺が出ます。石原サンの派閥の総帥で、石原サンが後釜を引き受けたように読めました。そうなのかな。以下は石原サンとアキノサンの、中川一郎についての会話。

頁513

「中川というのは、会ったことはないが、タフな男だったそうじゃないか」

「俺もそう思っていたのだがね」

「彼はなんで死んだんだ、借金か」

「どうもそうではなかったようだ(略)」

「じゃ、いったい何だ」

「知らないよ」

「遺書は」

「ない」

「与党の総裁選挙に出たほどの政治家が、いったいなんで首をくくって死ぬのかね」

「わからない。多分、いろいろ疲れ果てて死んじまったのだろう」

(略)

「(略)君は八年も監獄のなかにいたが、彼だったら、いったい何カ月もっただろうかと、俺は時々思うことがある」

(略)

「(略)中川は総裁選挙の最中、俺にそそのかされてこんな闘いを始め、要らざる敵をつくったと、時々泣き言を言ったことがあった」

「君の国のように開かれた選挙で闘う相手が敵だというのかね」

「多分彼は、勝つということは、誰にも愛されることだとでも思っていたのだろう」

ja.wikipedia.org

自分でそそのかしておいて、それか、というようなことは、真のクリエイターに言ってもしかたのないことなのでしょう。

また、頁500に、ミシマ・ユキーオのおもひでがちょっと出ます。アキノサンが獄中で五部作を読んで、リ・インカネーション、輪廻転生を信じるかと石原サンに問います。石原サンはアキノサンに対し、旧知の三島サンの実像については、彼の子供達が成人した後に何か書くかもと言ってますので、たぶんセクシュアリティに関連した事項かなと。そして、石原サンはアキノサンに、アキノサンがマルコスに民主主義の本義に立ち帰れと説くことは、三島の市ヶ谷自決前の演説と同義で、「浮世離れした試み」だと断言します。アキノサンは、何が無駄かは神にしか分からないと返答し、石原サンはたたみかけて、いや、何が無駄か、分かるのは自分じしんだと言います。

頁580

 マルコスはカソリックの熱心な信者とは言えないが、他宗派に比べてカソリックがおおよそ認めている神秘神託のたぐいのほうは信じてかかるそうな。この春先に、彼は日頃相談を持ちかけているある予言能力のある老婆から神託を聞かされた。海が赤く染まり、地が揺れて割れ、そしてある男が帰ってきた時、マルコスの政権は揺らいで倒れるだろうと。

 そしてその予言の、三つのうち二つまでがすでに現出していた。大統領夫人の故郷ビサヤ州のカリガ湾一帯が、この春近く、原因不明の赤潮で汚染されおびただしい魚が死んで浮かび上がった。そして五月、マルコスの故郷のイロコス・ノルテ州で震度の大きな地震が起こり、何百かの家が崩れ、十数人が死んだ。海と大地の出来事は救いようもないが、ある男の帰国だけは自らの手で防げるとマルコスは決心したという。

 噂の真偽は別にして(以下略)

本作には、フィリピンの電力不足の救世主となるはずだった原発開発が汚職まみれで、最初から実現させる気がなかったとしか思えないと書いてた箇所があったのですが、どこか分からなくなりました。

2011年のジェトロのレポート。

バタアン原子力発電所は再封印か?(鈴木 有理佳) - アジア経済研究所

2021年の記事(ドゥテルテ時代)

www.tokyo-np.co.jp

頁523、ニノイが帰国を急いだ理由として、健康に問題を抱えてるという情報のあるマルコスが急逝したら、軍やイメルダで政局が分裂し、その隙に中ソがベトナムのダナンやカムラン湾からミンダナオなどの共産ゲリラに支援し、フィリピンが中米ニカラグアエルサルバドルのような危機に陥るのではないかという懸念を表明する箇所があります。これは、アメリカの衛星国家という点で日本とフィリピンは似たようでも、日本からはまったく考えつかないような、中米と自国を同一視するラテン文化の共通性という点でびっくりしました。また、中国が支援するなら、犬猿の仲のベトナム経由はないだろうと思ったです。

この当時なら中国やソ連は共産ゲリラへ支援したのでしょうが、現在なら、ビルマやアフリカ諸国のように、直接軍政を支援して、掌握してしまうので、この分析は通用しないと思いました。なんならビルマのように、軍政と少数民族をムリクリ手打ちもさせる(西側はキリスト教徒と民主主義支持派をほそぼそと支援)

頁472ほか、石原サンは、アキノサンが、軍の非主流派と組むことを拒否った時にはオーノーとなじり、学生時代はデートメイトだったこともあるイメルダ夫人から帰国しなければこの口座の金を自由に使ってもいいと申し出された時には、そりゃいいや全額引き出して反マルコス運動資金に使おうと言ったりして、君は政界に入ってスレたなみたいに言われ、日本の政界はもっとカネにアレだよと反論しています。その石原サンが、親北京のマルコスに対し、自身も肩入れしている國府関係者にアキノサンを引き合わせ、反共の國府ならドミノ現象を恐れてアキノ支持をしてくれるのじゃないかともくろむ場面があります。これ、どうなんだろう。ペシャワール会の中村医師が、川崎の講演会で、中国ではしませんみたく突然言い放って、一ヶ月後くらいに暗殺されたのがどうも、なんか釈然としないので、影響力のある人物に対してはほんと何されるか分からないようにも思い、フィクサーとしての石原慎太郎サンの力と、作家として石原慎太郎サンの空想力とのあいだに、どれだけの折り合いがあるのか考えたりもします。

en.wikipedia.org

石原サンは上記のマセダ"Maceda"という亡命議員兼弁護士が、やはりベニグノ・アキノ・ジュニアに非常に近い位置にいたことがうさんくさいというかひっかかっていたようで、再三よく書いてません。極秘会談のはずの國府関係者との密会に、アキノがぺらぺらさべって同行者として現れるくだりなど、まさにまさにです。でも現実にはこのマセダサンはその後もフツーに政界に生き、死んだ。

頁472

 彼はホテルにチェックインする前、出迎えた現地の部下に、空港からの車のなかで信頼と期待を改めて示してみせながら、報告を促す会社の役員のように微笑し、私の膝に手を置いてみせた。

 そんな仕草のなかにも、一ミリの針の先でも相手を倒す刺客のように、隙のない、完璧に近いこの男の魅力があった。

 

頁606 特別エッセイ

 彼のお陰で、監獄に幽閉されている彼に危険を感じながらも会いに出かけるとかその奪還を企てるとか、終いには議席を捨てて彼と反乱を起こして南の島からマニラ目指して攻め上がるとか、日本の政界では考えられぬブッキィシュな試みを本気で考え計画する羽目にまでなったが、何が私を救って阻んだのか、実現の前に(略)私は生き延び、彼はああやって死んでしまった。

 

頁606 特別エッセイ

 彼が祖国のフィリピンに関して愚直なほど愛し信じたもの、根着いているはずのデモクラシーとか、軍人たちの真の勇気と国民への忠誠、あるいは粗忽にも彼が期待していた独裁者の最後の良心なるものは、結局は彼にどう報いも応えもしなかった。

 

頁606 特別エッセイ

(略)アキノの喪失はなぜかもっと無垢で透明な、だが決して政治の世界にしかあり得ぬ思い出として心に抱きつづけている。

 

小説家と策謀家の二足の草鞋を履くということは、自身が関与した事象に対し、このように文学的に総括出来る特質も持つのだと思いました。すばらしいのかおそろしいのか。以上

<おまけ>

はさまってた、2007年5月文藝春秋新刊の広告。