『一九七〇年の漂泊 Vaya con Dios』"Drifting in 1970:さらば、主とともに往かめ" 読了

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山口文憲団塊ひとりぼっち』(文春新書)に出てくるので、読んだ本だと思うのですが、メモとってなくて、具体的にどこがポイントで読もうと思ったのか、今となってはまったく分かりません。海老坂武『シングル・ライフ』(読まない)と津野海太郎『歩くひとりもの』(これから)は分かったのですが、これは、なんで読もうと思ったのかかなりナゾ。作者がルー大柴ばりに海外放浪したから、それででしょうか。

足立倫行 - Wikipedia

一九七〇年の漂泊 : Vaya con Dios (文芸春秋): 1986|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

1991年文春文庫化。

books.bunshun.jp

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読んだのは単行本。装幀 菊池信義 装画 木村繁之 あとがきあり。あとがきに文春出版部新井信氏への謝辞。八つの章に分かれていて、さいごの「南部スペイン遠回り」だけ、「旅」1976年9月号に発表したものを加筆修正したそうで、それ以外はだから書き下ろし。

スペイン語の副題がついていて、江利チエミも歌った有名な歌の題名だそうなので、知らなくても別にだいじょうぶみたいです。

バヤ・コン・ディオス - Wikipedia

www.youtube.com

作者を知りませんでしたが、今検索で、『妖怪と歩く』は読んでたことが分かりました。のんのんばあの実在に異議を唱えたりしたのは、たぶん、この本だったような…

反抗の世代なので自衛官の親(旧軍軍人が戦後民間で挫折して、創設の自衛隊に入る)に反抗するが自宅暮らしのままで、大学を中退して映画作りの世界に入ろうとするが、旧態依然とした上意下達の業界の因習になじめず海外に出るという話のようで、きれいにマスクしてしまえばもっと読後感がよかったと思うのですが、それでは意味がなかったということで、特に女性関連で読後感が???な本になっています。この京都女性と結婚したかどうか、それだけ知りたい。ウィキペディアに書いてくれないでしょうか。

映画作りに関しては、当初、旧態依然とした業界の枠組みでなく、自主制作のオルタナに活路を見出そうとしたのですが、新左翼間のヘゲモニー争いでその萌芽も潰されたそうです。

頁38

“新しい映像表現の試みとして昨年から始った「フィルム・アート・フェスティバル東京1969」が、開催初日の十四日、「杉並シネクラブ」の学生を中心にした造反グループによって妨害され、中止となった。(中略)十四日の午後、開映を前に、芸術家タイプの若者や、ヘルメット姿の男女が「前衛とか自由とかの名を借りた芸術の統制だ。フェスティバル打倒」などのビラをくばりはじめ、人数も約百人となった。赤坂署から約三十人の署員もかけつけ、運営委員会はフェスティバル中止に踏切ることになった”

 新聞の記事は簡単なものだったが、事務局に電話をした楢村の話では、杉並シネクラブの他に映像作家の金坂健二や日大全共闘の映画班も絡んでいるらしい。

 つまり、彼ら自主映画界の過激派が、主催者である草月アート・センターの商業的側面を突いて粉砕の脅しをかけたため、松本俊夫勅使河原宏らで作る運営委員会がトラブルの拡大を恐れ臆病風に吹かれ、ついにフェスティバルの中止を決定したというのだ。

 馬鹿げたことだった。あまりにも見当違いだと思った。商業主義ウンヌンを言うなら東宝東映をはじめとする五社体制に矛先を向けるべきで、今ようやく火がつきはじめた自主映画に水をかけてどうなるというのか。

「そうだろ! 公募のフェスティバル形式になってこれがまだ二回目だっていうのに、どこに倒すべき権威があるって言うんだ。敵が違うじゃないか!」

狭いパイを奪い合う仁義なきヘゲモニー争いなので、れんじゅうはそんなことを言われても「甘いな」とか「青いな」とか口で嘲笑って、上から目線で「もっと学習しないと」と平然とうそぶくのかなあと思いますが、まあそんなこんなで、友人の郷里である福井の海水浴場で水泳したり、玉村豊男サンと同じように、大阪万博のガイドのアルバイトしたり(旅行会社からの報酬が当時で一日五千円で、ほかに欧米人からのチップ)黒木和雄監督「日本の悪霊」で助監督デビューを飾ろうとするも、旧い因習の映画業界の下積みにインテリが耐えられるはずもなく、なんだか知らないがまずアリゾナに行きます。

Amazon.co.jp: 日本の悪霊を観る | Prime Video

私はどっちも知りませんが、この小説の印象では、映画と原作はだいぶ違いそうです。

www.kawade.co.jp

アリゾナは、その前になんかアメリカの宗教法人だかなんかが、アジアとか北欧とかの若者を異国体験させてあげる的な奇特な無料ツアーに受かって旅した時に知り合った知己の関係です。

頁129

 万博のガイド中に出会った京都の女の子からのは、抑えた調子ではあるがラブ・レターだった。”……あとで考えると赤面する思いでした”、とある……。

 付き合ってもすぐに別れることになると自覚していたはずなのに、なぜまたこんな関係を結んでしまったのかと思う。相手はまだ十八歳だ!

この女性が後半のキーマンになるのかどうか、同一人物であってほしいです。頁124に初めてのマリファナ体験を書いてますが、それはどうでもよくて、頁164、ロサンゼルスの邦字新聞「羅府新報」で三島割腹を知った時のもろもろが記憶に残ります。作者は「羅府新報」をあまり買ってなくて、パキスタン津波で三十万人が死亡して、その後伝染病が蔓延した時に“まさに泣きっつらに蜂の状態”と形容した同紙をKYだと考えていたようです。アリゾナは外国人バックパッカーが働いて米国人より安くあげるという職場で、日本人もほかにもいて、空手マンで、おおいに事件にショックを受けているのですが、欧米人には伝わりません。「羅府新報」によると、佐藤栄作中曽根康弘はコメントで三島を狂人扱いしたそうで、作者の興味はそこにはないのですが、私はこの本を読んでいて、こういう情報こそ拾い物だと思いました。

頁194、空手マンは元自衛官で、しかも母親が韓国人のダブルであると唐突に書かれます。以前聞いた、華人系は自衛官になれないが在日コリアン帰化者はなれるという話を思い出しました。

その後、作家の人はメキシコに行きます。旅の途中で知り合った青年のアパートに転がり込み、彼の実家へ。メキシコ人の生活様式として、正式な結婚ではない、ウニオン・リブレというものが頁211に出ます。事実婚かな。作者はこのスペイン語をフリー・ユニオンと英訳してますが、リバティをフリーに置き換えるのはう~ん、どうだろうでした。

どうもこのホスト青年の無償の奉仕にさぶ的なものを私は感じるのですが、作家の考えは書かれません。別れの場面も回想もなく、話はメキシコシティーのびんぼうフリーター生活に移ります。

 メキシコシティーでは、あれこれニッチな商売を試すのですが、なかなか稼げるようにはならず、なぜか日本人だまりにやってくる、日本人とつきあいたいというか興味のあるメキシコ人の女の子が、「私そんな軽いおんなじゃないの」「もっと大切にして」「けっきょくあなたもからだだけがもくてきだったんだ…」みたく言うのを、サルのようにやりたいだけでかき口説き続けて、やって別れます。男と女のラブゲーム。思うに、そうした個人的体験を露悪偽悪するのは、本人はいいでしょうが、読まされる方はたまらんと思います。もっと楽しい、夢のある話が読みたい。

その後ロンドン。その日本人たまりでは一番年長で、一目置かれる存在になってるのをいいことにってわけでもないんでしょうが、紅一点の邦人女性(美女)とつきあいます。ところが京都から妊娠した女性が作家のあとを追ってきて、修羅場になります。ここはもっと読まされる方はたまらない。かといって、美化されてたらもっと読まないと思いますが… たんたんと、事実を書いて、それがヨゴレでないものを読めたらと思います。ようするに、行動時は常に、晩年回想録に書いて胸張って死ねるかまで考慮して動きよし、ってことだと。

頁299「妊娠したということ以外何一つ非のない智子」という箇所なぞ、「お前が妊娠させたんやろが」と突っ込みたくなります。これが前段の18歳の子の成長した姿だとしたら、こわいです。

その後スペインをめぐって、同性愛者に熱視線を送られたり、同宿のアルゼンチン人から、北欧のフリーセックス礼賛を聞かされたりします。しかしそのアルゼンチン人も、もう四十をこえたオサーンで、若いころのようには北欧でも相手の同意を得られまいと読んで思いました。

この京都の女性とその後結婚したのかどうか、それだけ気になります。以上