Primary Source : Partisan Review Nov. 1949 : 1122-1134
ヒサエ・ヤマモト作品集 : 「十七文字」ほか十八編 (南雲堂フェニックス): 2008|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
表題作。重層的な構造というか、幾つかのテーマが並走してるので、ひとことで言えません。カリフォルニアの日系農場のニセイ少女ロージーは、商品作物のトマトを箱詰めして出荷する家業を、父母と雇い人のメキシコ人カラスコ親子とともに営む日々。学校では英語はおろかフラ語までパンパカ学んでいるが、毎週土曜日に通う日本語学校の日本語はなかなか上達しない。母親はハイクきちがいで、ロスのほうが家に近いのに、サンフランシスコの「マイニチ・シンブン」に、ウメ・ハナゾノ(means "plum flower garden")のペンネームで(本名はトメ・ハヤシ)ハイクの投稿にいそしむ日々。ハイクとなると、農作業そっちのけになってしまい、父親はそれが不満である。
(1)
この話の頁63に、メキシコ人少年とのあいびきのため「ベンジョに行ってきます」とうそをついて場を抜け出す場面があり、カリフォルニアでも、農家の日本家屋はトイレが戸外にあることが分かります。メキシコ人少年にその口実を告げるとおかしがるので、使用人の家はトイレが屋内にあるから笑うのだとロージーは返答します。ロージーの入浴場面では、木で出来た四角い浴槽があり、ロージーはまず洗い場で、浴槽から汲んだ湯できれいにからだを洗い、よく石鹸の泡を流してから、足から少しずつ、熱い湯船につかると書かれています。風呂場で歌も歌う。日本と変わらぬ日系人ライフ。
(2)
メキシコ人少年の名前が、本書ではヘイスース、ウィキペディアではヘイサスになっていて、これは本書が正しいようです。
Jesús Cristo の発音: Jesús Cristo の スペイン語 の発音
(3)
キン=コク・チャンは序文で、父親が母親のハイクぐるいに業を煮やして実力行使に出る場面を大きく取り上げています。しかしキン=コク・チャンにとってこの場面は、男性の暴力と女性の受難であり、背景にあるトマトの出荷作業かハイククリエイトかの二択問題、家内制手工業マニファクチュアリングと文化資本の相克にまで考えが及んでいないように見えます。チャールズ・クロウという別の研究者は、ヒサエサンの描くイッセイの父親たちがどのような存在かを論文にしたそうで、しかしヒサエサンは、マキシン・ホン・キングストン(湯亭亭)の中国人移民一世やアリス・ウォーカーの黒人男性のように、イッセイ男性をステレオタイプ化したとの批判に応対する必要はなかったと、キン=コク・チャンは書いています。イッセイ男性の繊細さなどもちゃんと書いているから。でもその例に出てくる小説は、『朝の雨』であり、『お父さんならモハメド・アリを倒せる』であって、本作はその例に出ません。しかし私は本作の母親のさいごの告白が、それをおぎなって余りあると思いました。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
キングストンサンの本は、もうなんというかえげつないくらい引っかかる箇所が多くて、読むだけなら何とかですが、それの読書感想まで辿りつけてません。
(4)
本作は写真花嫁の話でもあり、ネタバレになりますが、相手の顔も知らずに写真一枚で結婚を決めて海を渡った女性たちのストーリーは、かなしいやらなんやらの文脈で語られることが多いですが、本作は逆張りで、母国の狭いムラ社会の醜聞を逃れるため藁にもすがる思いで海外に飛び出した、渡航しなければ、うわさばかりが立ち込めるムラで、閉塞した私は自殺していた、と母親が血を吐くように告白するです。だから、母親は、父親が母親のハイクにした仕打ちを、冷静に、顔色一つ変えずに受け入れるのだと。そして、母親は、ヘイスースと娘の関係に気が付いていて、自分の二の舞にならないよう以下略
よくこんな話書けるなあと。びっくりしましたよ。マキシーンサンのチャイナメンの邦訳は、世界のハルキ・ムラカミとシバターのしとが再発掘して新潮文庫だかに入れましたが、ヒサエサンにも目をつけてよ、いい加減にしてよアグネス、って感じだと思いました。本書の訳者二名のうち、山本岩夫サンはなんか検索で出ましたが、桧原美恵サンは、これはというのがなくてさびしいです。
山本 岩夫 (やまもと・いわお) - ディスカバー・ニッケイ
以上