下記、スペインかぜの本を読み、そこに、この小説がスペインかぜを扱った米国小説として紹介されていたので読みました。
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『幻の馬 幻の騎手』という邦題ですが、原題の"pale horse, pale rider"は、明らかに「青ざめた馬、青ざめた騎手」ですので、晶文社がなんでそんな邦題にしたのか分かりません。スペイン風邪の小説がそんな黙示録的タイトルだったら、ねたばれになるとでも思ったのでしょうか。
幻の馬幻の騎手 (晶文社): 1980|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
部分タイトル 死の宿命.幻の馬、幻の騎手. キャサリン・アン・ポーターについて 高橋正雄著
高橋正雄サンは1954年にも本書を訳していて、ダヴィッド社という出版社から出ているのですが、表題はもう一つの作品からとられています。この時のペイルホースの邦題は、『娘ごころ』というさらに意訳もいいとこのタイトルだったようです。で、晶文社版はその全面改稿版だとか。
愛と死の蔭に (ダヴィッド社): 1954|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
部分タイトル 娘ごころ,愛と死の蔭に
原作は三つの短編が収められているのですが、上記はどちらもふたつだけしか収録されていません。もうひとつの、"noon wine"『昼酒』という作品が入ってない。『昼酒』は、1957年に、彼女の最初の短編集で出世作の『花ひらくユダの木』"Flowering Judas"と一緒に邦訳刊行されています。訳者は別の人。
花ひらくユダの木・昼酒 (英宝社): 1957|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
青ざめた馬が幻の馬なのはなんぼなんでもおかしいので、1993年に小林田鶴子サンという方が、青ざめた馬のタイトルで邦訳して、あぽろん社という出版社から出しています。ダヴィッド社は検索でウィキペディアが出ますが、あぽろん社は、京都にそういう出版社があるらしい、くらい。
蒼ざめた馬、蒼ざめた騎手 : キャサリン・A・ポーター物語集 (あぽろん社): 1993|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
コロナカの2021年には、石塚久郎という人が『疫病短編小説集』という本を平凡社ライブラリーから出していて、この小説も新訳で入れています。
上記スペイン風邪の本には、スロヴェニア出身のルイス・アダミックという作家の人の、兵営にスペイン風邪が流行して大混乱の様子が描かれた、『密林の哄笑』とでも訳すのかという作品、"Laughing in the jungle"が紹介されているのですが、平凡社ライブラリーには入ってません。入っていれば、銃後の民間社会と徴兵後の兵営、両方の描写でスペイン風邪が読めたので、残念閔子騫です。
Laughing in the Jungle - Wikipedia
題名の由来は、黒人霊歌で、主人公ミランダは綿花摘みの黒人たちが、恋人のアダムはテキサスの油田で黒人たちが、こう歌うのを聞いていたという。"Pale horse, pale rider done taken my lover away."「青ざめた馬が、青ざめた騎手が、わが恋人をつれ去り行く……」(頁171)
歌の動画が出ないかなと検索しましたが、たぶん違う歌しか出ません。
著者はすごく寡作な人で、家を出て15年も世界を放浪してるのに、南部を代表する作家だそうです。とんでもないと思いました。
Pale Horse, Pale Rider: Three Short Novels - Wikipedia
頁113
きのうのことだが、彼女のタイプライターの両側に、二人の脚がたれ下っており、どちらの脚も高価そうなフランネルのズボンに、あったかそうにくるまっていた。彼女は遠くから、その一人は年寄りでもう一人は若く、二人ともが明らかに同じところから借りてきた借り物の、黴の生えたような勿体ぶった態度をしているのに気づいた。一人はともに栄養が足りすぎるほど足りており、 若いほうは四角い小さな口髭をはやしていた。二人の様子がそんなふうだったので、用事がなんであろうと なにか不愉快なことだろうと思った。(略)
(略)それから、年取ったほうが彼女に、なぜ戦時公債を買わないのかとたずねた。その時初めて相手をよく見たが、貧相という印象を受けた。(略)ミランダは、国内で戦争関係の仕事にえらばれている人は、どうしてみんなこの男みたいな連中なんだろう、と不思議に思った。この男はなんにでもなりかねない人だ、と彼女は思った。ロード・ショウの先発員にも、インチキ石油会社の発起人にも、新たにキャバレーの開店を発表する酒場の経営者にも、自動車のセールスマンにもーーとにかく狡猾な水商売のどんなものにでも手を出せる人間だ。だが今の彼はまったくの愛国者になりすまして、政府のために働いているのだ。 「ねえ、あんた」と彼は彼女にいった。 「あんたは戦争が行われているのを知っているのかね、それ とも知らないのかね?」
(略)
「ああ、戦争のこと」とミランダは高い声でおおむ返しにいって、あぶなく笑いそうになった。 (略)
「そうだよ」と若いほうの男が下品な調子でいった。「戦争だよ」ミランダはその調子にびっくりしながら、相手と視線を合わせたが、その目つきは文字どおり石のようで、文字どおりぞっとするほど冷たくて、人けない街角でピストルをつきつけられた時出っくわすような目つきだった。その目つきが、得体の知れない顔を、はっきりとした職業をもっていない人々特有の顔を、一瞬意味ありげにした。「わが国は戦争をしており、ある者は戦時公債を買っているっていうのに、ほかの連中はてんでそれにそっぽを向いているんだ」と彼はいった。「われわれのいいたいのは、そのことなんだよ」
ミランダはさっと恐怖に青ざめながら、びくっと顔をしかめた。(略)
ミランダは自分には今お金が無いのだと、それからどうやってお金を工面したらいいかわからないのだと説明しはじめたが、年取ったほうがそれをさえぎっていった。「そんなことはなんのいい訳にはならん。全然、なりゃあしない。あんたも知っているように、今ドイツ軍はあの気の毒なベルギーを荒し廻っている最中なんだからね」
「それに、わがアメリカの青年たちはペローの森で戦って、さかんに死んでいるんだからね」と若いほうがいった。「それだもん、ドイツ軍をたたきのめすためなら、だれにだって五十ドルくらい都合できるはずさね」
ミランダはせきこみながらいった。「わたしは週に十八ドルしかもらっていませんし、それ以外は一セントだってはいりません。ですもの、なに一つ買えるはずがありませんわ」
(略)
ミランダはやっとの思いで口をつぶりながら、考えた。「もし私が臆病者でなくて、今思っていることを口にしたらどうなるだろう。(略)もしこのチンピラ悪党に、あなたはどうしたんですか、なぜペローの森でくだばろうとしないんですか? わたしはあなたにも……」
出だしはこのような、銃後の独身女性兼職業婦人の苦悩。ミランダは地方紙の記者です。アメリカは、第一次世界大戦の時代から、女性のブン屋がいたんだなあと感心しました。夜討ち朝駆けのヤクザな商売だというのに。彼女は、未遂に終わった駆け落ち事件の、保護者に連れ戻された娘の泣きはらした顔に同情して、いろいろ伏せて記事にした時、ライバル紙がぜんぶスクープとしてばらしたので、責任の詰め腹を切らされて、以後閑職の演劇欄担当になった(興行界とのしがらみで、予定調和のヨイショ記事を書かねばならず、正直ベースの酷評レビューなんてトンデモハップン歩いて十五分)そうです(頁117)しかし、女性ブン屋というだけで、ちょっと長いこと日本では考えられなかったろうと、改めて私は思います。天声人語が女性の書き手を入れたのがやっと昨年後半。そういえば、ちむどんどんには女性記者がいました。
で、彼女は、平気でタバコをふかすんですよね。シーカレにたばこねだる。頁128、「わたしに煙草を一本くださらない?」フラッパーガールの本格登場は第一次戦後なのかもしれませんが、すでにしてという。禁酒法は当時もバリバリだし。アン・ポーターサンはフォークナーと並び称される作家だそうですが(南部なので)フィッツジェラルドとは並び称されないんだろうかとも思いました。それで、若い女性の義務というか推奨される奉仕として、帰還傷病兵とのダンスパーティーに出たり、慈善バザー等でお金を作って、そのお金で果物や雑誌や煙草を買って、衛戍病院*1に入院している負傷兵に届けて、気晴らしの会話に付き合うなどの余暇活動も行います。
頁122
もう一人の女の子が、非常に疲れた様子で病棟から出てくると、ミランダの隣りに乗りこんだ。しばらく黙っていたが、やがてその娘が、当惑顔にいった。「わたしには、こんなことをしてなんの役に立つのか、まったくわかりませんわ。あの人たちのなかには、全然なに一つ受け取ろうとしない人もいるんですもの。わたしはこんなことをするのは好きじゃないけど、あなたはどうお?」
「わたしだってきらいですわ」とミランダはいった。
「でも、これでいいのかも知れませんね」と、その娘はあたりに気をくばりながらいった。
「たぶん、そうね」と、ミランダもあたりに気を配りだしていった。
しかしミランダは、この時、自分は何もかも失ったが、ほどこしはいらない、持って帰れと鋭いまなざしで無言で告げる若者に出会ったことで、魂が救済された気分になっていたのです。アメリカ文学って、ふところが深いなと思いました。少なくとも当時は。今はツールが進歩しすぎたせいで、民主国家が独裁国家をその民衆が打ち倒す手助けをすることは非常に困難になりましたし、逆に、独裁国家が民主国家の野党勢力などを支援することは非常にたやすくなりました。野党どころか、政権与党の中枢が与党内野党を牽制するのに反日カルト宗教の力を借りる時代ですから、おえん。
なんで彼女たちが人目を気にしたかというと、当時の米国にもやっぱり、ラスク委員会という、それなりにそういう厭戦扇動を取り締まる機関があったからだそうです。
ミランダのシーカレは前線勤務を内地で待つ将校です。頁156には軍歌が二つ出ます。フランスのと、イギリスのと。
巻末の、訳者「キャサリン・アン・ポーターについて」によると、アン・ポーターサンは、記憶を元に自伝的小説を書く人だったそうで、出来事を思い出すたびノートにとり、個々の断片がつながって連鎖し、ものがたりとしてその全容を明らかにすると、そこで筆をとって作品にするんだそうです。と、いうことは、この話の後半、スペイン風邪で床に伏し、病床がない中なんとか入院し、医師の治療を受けるくだり、途切れ途切れの記憶が、朦朧とした意識と、幻覚の中で語られるのも自伝で、回復して退院するときには戦争は終わっていて、しかし、恋人もまた、という結末も、自伝ということになります。完全なフィクションであったなら、ご都合主義もいいとこだ、と酷評されるストーリーかもしれません。しかし事実ベース。アン・ポーターサンは生涯で四度結婚して四度離婚していますが、この時の恋人は、作品以外に、どれだけ彼女の中で生き続けたのだろうと思いました。
もうひとつの短編、"OLD MORTALITY"は、やはりミランダが主人公で、しかし彼女が幼少の頃、親戚にいたという、夫以外の男性を愛した女性の話を聞き語りに聞くという話です。寝取られ男となるガブリエルという男性が、ミランダたちを見る目つきが、後添え候補みたいな感じに見えましたが、考えすぎかもしれません。南部の旧家を覗き見したい人にはいいのかもしれませんが、しかしそれだけの話です。
以上