『亡き人』මළගිය ඇත්තෝ ෴ මළවුන්ගේ අවුරුදු දා "Maḷagiya Attō" and "Maḷavungē Avurudu Dā" E・サラッチャンドラ 著 එදිරිවීර සරච්චන්ද්‍ E.Sarachchandra 野口忠司 訳 නොගුචි ටඩාෂි Noguchi Tadashi 読了②

1950年代、世田谷区奥沢から三茶にかけてを舞台に、ロンドン帰りのスリランカ人画家デウェンドラサン දෙවොන්දරා  සන්(38歳でしたか)と、近くのバー勤めの女性典子サン නොරිකෝ  සන්(21歳だったか23歳だったか)のふたりの、恋と別れの物語です。スリランカでは記録的なベストセラーとなり、この作品がもとでシンハラ文藝界がまっぷたつに割れる大論争と不毛なDISり合いが始まり、一時シンハラ文学はペンペン草一本生えないほど荒廃したとか。

ともあれ、私は銀座通りを散歩するより寧ろ浅草に行く方が好きだった。昼夜を問わず後草は いつも祭りのように賑やかで至る所飾り付けられている。アーケードの真中に吊り下げられた大きな提灯は毎週のように取り換えられる。 おどんま 盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃ 居らんど 盆が早よ來りゃ 早よ戻る

亡き人 | NDLサーチ | 国立国会図書館

Mala Giya Aththo - මළගිය ඇත්තෝ

https://www.kbooks.lk/image/cache/catalog/godage/mala_giya_aththo_%20ediriweera_sarachchandra-500x500.jpg左は原書表紙。

頁15
(略)彫刻を施し絵を刷る技術をマスターするには普通かなりの年期を要するのであるが、六、七ヶ月で私はそこそこの力量を身につけられた。私を指導してくれた浮世絵の師匠は、私のこの手際の良さを見て呆れかえっていた。この手作業は日本人より遥かに器用であると師匠は誉めてくれた。しかし私はこの師匠の言葉を素直に信じる訳にはいかなかった。日本人の手先の器用さは世界中に知れ渡っているので、私が短期間にその水準を上廻るだけの技術を体得したとは信じ難いことであった。しかし私が(略)
 浮世絵のスタイルをある程度理解すると私は師匠の元に通わなくなった。私は自室で絵を描く努力を重ねていった。手解きしてくれた師匠は私の絵を版木にし印刷して差し上げようと話してくれた。しかし師匠に刷り上げてもらうだけの自信作を私はまだ描き上げていなかった。その上私の描いた木版画は私が創作したものでなく、何かを模写したかのように思われたのである。(略)私は新しいものを創作するタイプの芸術家ではないことを日頃自覚していたからである。

そんなに簡単に技法が習得出来るとも思えないのですが、ようするに主人公デウェンドラサンはそういう人だと。

頁17
 真夜中近くまで私は大通りを散策する。しかし私が歩いているのはこの日本人社会の外壁をぐるぐる徘徊しているだけだと感じてならない。(略)商店やレストラン、バーに入ること自体が何故か私は恥ずかしい。(略)店屋に行けば若い女店員がその場に立ち竦みおずおず私の方を見つめる。彼女たちがこのように私を眺めているのは束の間に過ぎないが、私にとってはまるで小一時間もの長い時間に感じられる。勇気のある女店員が別の女店員に目端をきかせて私のところに(略)日本語を二言、三言話してみると緊張が解け生気が蘇ってくるのであった。
 しかしレストランやバーの閉ざされた戸を片側に押し開け中に入るには、これ以上の勇気がなくてはならない。勇気を奮って店内に入るといつも其処に漂っていた甘い言葉や賑やかな笑い声がピタリと止まる。この沈黙はほんの一秒にも満たない。(略)しかし全世界が急に動きを停止したかの如く私に感じられる。間を逃さず微笑を浮かべたウエートレスがやって来て、湯で絞り温めた御絞りを私の前に置く。しばらく停止していた世界は再び躍動し始めるのである。

本書はこのように、随所に美しい語りが散りばめられています。欧米人の日本滞在記や華人、コリアンのそれより美しいようにも思います。ただ、同時に哀愁が色濃く漂うので、義勇軍行進曲のニエアルサンのように、藤沢で入水自殺したりしないでよと思ってもみたり。

頁18
 (略)彼等が飲んだり食べたりしているものは一体何だろう。私には分からない。それらはきっと見事な味付けがされているに違いない。その味を試してみたい。(略)心引かれる。(略)しかしながら、そうした料理の名前を私は知らない。(略)目の前に吊り下げられた竹の短冊に書かれた料理や飲み物の品名も、値段もさっぱり分からない。箸一膳使うにも指先が慣れていない。思案のあげく私が注文するのは、味が無かろうが兎に角味だけは知っているトーストや卵焼き、でなければホットドッグである。フォークを手にして食べるのである。

グレゴリー・ケズナジャッサンの本でもこういう記述を読みました。みんな気に入ると思う。河出かちくまが南雲堂から版権買って、文庫と電子版にしてほしいです。

頁18
(略)その周辺はバーが軒並みに並んでいた。そうしたバーの内からは賑やかな笑い声が聞こえてきた。私が入れば急に笑い声が静まってしまう姿をふと連想した。

河出かちくまが南雲堂から版権買って、文庫と電子版にしてほしいです。

頁18
(略)彼方此方に見掛けるバーでは店の看板が英語で書かれていた。そうしたバーには多分英語を話すウエートレスが居るに違いないと思った。私は彼女たちの実態を知っている。(略)アメリカ兵を騙し途轍も無い大金を捲き上げることに慣れてしまった彼女たちの心に同情の欠けらもない。ウエートレスは赤裸々に客の御機嫌をとって金を遣わせるのである。「あんたのお目、大きいやおまへんか。お鼻も高うて。とてもハンサムなお人やわ! お歳は幾つ? 三十八? 本当? 二十五を越えてはるなんて思えへんわ。セイロンはいい国やし…。大好きやわ…」
 もし貴方が片言の日本語で一言、二言話せば「日本語とってもお上手やねえ…」と賛辞を浴びるに違いない。(略)貴方自ら財布の中味を空にして店を出ていくだろう。

1950年代の日本、暗黒街竹の家時代であることがよく分かる一文。黄金町のチャブ屋。なぜに関西弁と思うのですが、回想という形をとった一人称小説で、このあとデゥエンドラサンは関西に行くので、それでこうなってると。

頁19
 私が初めてバーに入った時、「ハッ」と溜息が漏れたと典子は後日、私に話してくれた。それは一体何なのかと尋ねた時、「風のようなものね」と煙に巻いてしまった。(略)意外なことにこのバーに入ると誰一人驚いた様子を見せる訳でもなかった。バー「ミドリ」はそうした小さな居酒屋であった。半円形をしたカウンターの周りには脚の長い高椅子が据え付けられ、其処には十数人の客しか腰をかけていなかった。常連客でもやって来たかの如く典子は私に「いらっしゃいませ」と快く挨拶をすると、何処でも同じ竹の盆に載せられた御絞りを私の前に置き、別の布巾でカウンターの上を拭いた。私が飲物を注文する前、横に座っていた一人の日本人が話し掛けてきた。彼はセイロンや印度の政治情勢を非常に詳しく知っていた。彼が東京大学の法学部で教鞭を取っている若い教授であったことを、私は後になって知ったのである。

いい店に巡りあう。

頁20
 その日、典子が黄色に近い着物を着ていたことは覚えている。彼女が美しい女性だとはその時気付かなかった。しかし彼女の何処となく落着き払った物腰はなんとなく感じていた。彼女の口元には口紅さえも塗られていなかった。髪は上に梳きあげ、後に廻したその髪は腰まで垂れ下がっていた。普通日本の女性に見馴れないこの美しい髪の毛は彼女をぐっと引き立てていると眼に写った。彼女は小さな眼を私に向けて愛嬌のある微笑を浮かべた。どの客にも話し掛けながら、また冗談を交わしながら客が注文するカクテルをつくり、典子はその客の前に落花生を添えては差し出し、実に慣れた手捌きでどんどん仕事を片付けていった。(以下略)

典子サン登場。

頁21
「皆、新しいお友達ができたのよ」と言って年上の女将さんが通い始めた二日目、私を他の客に紹介してくれた。
 他の客と楽しそうに話をする傍ら、時折り私の方を振り向く典子は、私に一言、二言声を掛ける。客は皆、彼女のことを「典んちゃん」と呼んでいた。この愛称は「典子ちゃん」というところを短く言ったものだろうと思った。一般にそこそこの年頃に達した人名の後に「さん」を添えて呼ぶようだ。「ちゃん」と呼ぶのは子供に限られている。しかし時には愛称や親愛の情を籠めて「ちゃん」と呼べるのだと私は想像した。(略)

「サン」と「チャン」の区別説明。何食わぬ顔をして、本書を読んだインテリシンハラ人はこれくらいとっくのとうに知ったうえで来日してるという。

頁23
(略)私は黙ってゆっくり小さなグラスに残ったワインをチビリチビリ飲んでいた。彼女は私の心境を見透かしたかのように、私の方を振り向いた。
「私、歌舞伎がとても好きなのよ」と典子は頭を傾け、静かに眼を閉じて言った。
(略)
 私が生まれて初めて歌舞伎座に入った日、幸運にもその日の公演は「勧進帳」であった。市川猿之助という男優が「弁慶」役をまるで弁慶そっくりに実に見事に演じたことや、彼が花道をやって来た時、観客席から声色を使って「沢瀉屋!」と歓声が上がったり、観客が拍手喝采し満足度を露にする姿を、私は鮮明に記憶している。
「最近どこで御覧になりましたか?」
明治座で。吉衛門一座の公演でした。幸四郎のことなら皆さん御存知でしょう――弁慶の役を立派に遣りこなしたわ。富樫を演じた女形のあの役者さんの演技は今一つだったけれど…」
「それでも女形守田勘弥は有名な役者さんの一人でしょう」と私が言った。
「勿論その通りよ。富樫の役柄にちょっと相応しくなかったと言ったの。歌舞伎座で講演した市川段四郎市川猿之助の息子さんよ」
「弁慶役の中でも一番名の通っているのが幸四郎ですね? 私は生憎、彼の舞台をまだ見ていませんが…」
「そうなの。幸四郎の父が昔からずっと弁慶の役を務めて、いつしか有名になったのよ」
(略)
 客が一人店にやって来たので典子はその場を中座し、客の飲み物の支度を始めた。てきぱきと用を済せると再び私の側に戻って来たので先程の話の続きをした。
「来週、菊五郎の一座が公演するんですよ。歌舞伎座で」と私が言った。
「本当ですか? 私、菊五郎一座をまだ見たことがありません。海老蔵松緑幸四郎は皆兄弟でね。御存知ですか?」
「はい、知っています。幸四郎、吉衛門一座」と私は答えた。
「アレッ…何でも御存知でいらっしゃるのね。私たちよりも」と彼女は嬉しそうに微笑を浮かべて言った。「そうでしょう…幸四郎が結婚しているのが吉衛門の娘さんと」
(略)
 暫く経って典子が私に尋ねた言葉に、私は瞬間耳を疑った。(略)
「何時か御一緒しましょうか、歌舞伎見物に?」と突如彼女の口から飛び出した。他の客に聞こえたのではあるまいかと私は少し顔の火照りを感じた。私の心に生じたこの突然の羞恥心を見破ったかのように、典子はすぐ客の方を振り向いて、「この方、歌舞伎のことならなんでもご存知よ」と話し掛けた。

香川照之パパ登場。

頁26
 私が他の客のように典子と自在に会話が出来ないと思うと切なさが胸に込み上げてきたが、一方私はそのバーで決して寂寥感を覚えることはなかった。バーに来た客が私にいろいろ話し掛けてくる。私に酒を振る舞ってくれる。そこそこ酔いが回ってくると彼等は生得の羞恥心から、ややもすれば仮面を外し親しく接してくれる。いつも彼等が尋ねることは日本についての私の印象であった。私が日本が大好きであることを話すと彼等は素直に喜ぶ。日本は他の東洋諸国との間にもっと親善を深める必要があると彼等は弁じる。
 過去の戦争について彼等が語る時、恥じる気や後悔の念を包み隠そうとはしない。「戦争ならもう懲々だ。戦争は恐ろしい。戦争は誰もが憎んでいる。もうこれ以上たくさんだ」と赤裸々に話す。 
「日本は他の東洋の国々とは比較にならない程、発展していますね…」と私が話すと、「しかしね…我々は戦争に負けたでしょうが…」と彼等は心底からしみじみと語る。 
「確かに日本は戦争に敗れはしたが…東洋諸国は日本のお陰で自由を勝ち得たではなかったですかね?」とその内の一人が威厳を保とうと弁説する。

秋刀魚の味」なら軍艦マーチが鳴り出す場面。ウヨサヨ両方ご納得の描写と思うのですが、ちがうかな。

頁27
 チベット、ネパールに於て大乗仏教を解する機会に恵まれた私は、その後も興味を覚えるようになっていた。上座部仏教の国からやって来た私のような人間が、大乗仏教についてその真価を称賛する講話を聞いた人々は、私に対し一様に理解を示した。一般のシンハラ人から日本人が常に聞かされていたのは日本には仏教が存在しないという考えが主流であったので。(略)

ここはかなり意外でもあり、現代の日本ではうっかりすると読み流されてしまう箇所。ようするに一般的なテラワーダ仏教のひとは、大乗は同じ経典の民とは見做してるが、真の仏教徒とは思ってないという箇所。

頁54
典子の兄博次の家は三茶、若林225という番地で、住宅金融公庫のローンで、博次がひとりで建てた家だとか。

maps.app.goo.gl

頁54
私が靴を脱いで座敷にあがろうとした時、典子は私の脱ぎ捨てた靴を出掛けるとき、履き易いように玄関の表向きに揃え直し、踏み台の上に載せると、私を家の内に通してくれた。 

中国映画で邦人女性を演じる中国人女優は、心理的抵抗感からか、こういうこまやかなしぐさの演技をしないのでウソくさい。

頁35
(略)漢字を簡易化する方法はないものかと我々は議論の鋒先をかえた。漢字の使用を廃止してしまうと外国人が日本語を学ぶのは随分楽になると私は言った。すると漢字を使用しなければ文章の意味を汲み取るのが困難になると彼は反論した。音に対して多義があるので、それぞれの意味を有する別個の漢字を用いなければならないと彼は頑なに信じていた。

ここの背景は、当時GHQが提唱していた漢字廃止論。

頁37
「デウェンドラさんまるで日本人みたいですねぇ・・・」と彼女の父は、半ば笑いを堪えながら言った。
 典子は燗をした徳利と杯を持ってきて、机の側に膝をついて座ると、淑やかな手捌きで、杯を軽く取りあげ、私の小さな杯に酒をついだ。その立ち振る舞いが、私の心の奥底にまで深く刻み込まれている。彼女に酒を飲むかどうか尋ねてみると、「ほんのちょっぴり、それじゃ頂きましょうか」と言って、杯を手にとって私の方に差し出した。私がその杯に酒を並々とつぐと、彼女は杯をいったん食卓の上に置き、改めて両手で持ち直し、唇に軽くあて、まるで味を確かめるかのように、一口、そしてまた一口飲んだ。彼女が部屋を出て、我々に食事を運んで来た時のその姿も私は忘れられない。彼女は膝を折り曲げ、襖を開くと向かう側の畳の上に置かれたお盆を持ち上げ、こちらの部屋に移し、次に襖を閉めて再びお盆を手に持ち直し、食卓の側にやってきた。その所作たるや、何か厳かな儀式を執り行っているかのようであった。彼女のこうした仕草の全ては生まれつき身に備わったものであるかの如く私には感じられた。バーで出会った典子とこうして家庭に居る時の典子とは、まるでこの世に典子が二人存在するのではないかと奇妙な錯覚をおぼえた。 

中国映画で邦人女性を演じる中国人女優は、心理的抵抗感からか、こういうこまやかなしぐさの演技をしないのでウソくさい。

頁41
 私は知り合いになったセイロン人留学生から貰った〝セイロン 紅茶〟を入れて差し出した。
「兄さんはとても好きなんですよ。このセイロン紅茶」が」と典子は言った。
「それじゃ典子さんはお好きじゃないんですか?」と私は問い返した。
「私、嫌いではありませんが、それよりも日本茶の方が好きなの」と彼女は素直に答えた。
日本茶は渋いでしょう・・・」と私が言うと、 「渋くても味がいいわ。日本のお菓子はとても甘く出来ているでしょう。だから食べてお茶を飲むとこれがぴったり口に合うんです」
「〝セイロン紅茶〟を飲む機会なんてあまりありません。一杯の紅茶が五十円程するんですから・・・」と博次が言った。
 紅茶を飲み終えると典子は、三個の茶碗を水洗いすべく食卓からさげていった。朝食後そのままほったらかしにしておいた他の食器も、彼女は黙って洗い終え、食卓の上を拭いて奇麗に片付けた。 

卓袱台をこまめに拭くのは、コリアン世界でも見られる所作。中国朝鮮族も同じ。でも水屋でお椀を洗うのは、どうだったかなあ。ここで典子サンが「日本茶が好き」というわけで、彼女の自己主張は、彼女が一人称で語る『お命日』まで読むと、かなり天地鳴動です。

頁43
(略)店屋に売っている「唐辛子」という辛子の粉末を買い、たっぷり使った。ココナツ・ミルクの代用品に牛乳を使った。
 ところで、私好みのカレーを作ったけれども、それに少し箸を付けたのは博次だけであった。典子に至っては、ほんのひと口手をつけただけである。彼女の眼には涙が溢れていた。彼女はすぐ水を飲んで、幸い私が用意しておいた漬物と一緒に白い御飯だけを食べたにすぎなかった。

お返しのデウェンドラサンのスリランカ料理をほとんど食べない典子さん。お・も・て・な・しをする人が、必ずしも相手のおもてなし返しを無条件で受けるかというと、そんなことないという。

頁52
「歌舞伎見物だったらいつでも飛んで行くわ。」彼女は歌舞伎座の正面で日曜日の朝、十一時私と落ち会う約束をした。これまで以上に彼女は出掛けることに神経を払っている様子が出会い頭に感じられた。
 彼女はその日赤い柄の着物を着ていた。私が初めて彼女に会った時もやはり着物を着ていたことをふと思い起こした。典子は弁当箱を二個、風呂敷に包んで持ってきていた。私は典子と一緒に歌舞伎を見物し、幕間に他の観客と同様弁当を取り出し箸をつけ、空弁当を風呂敷に包み、典子の掌に乗せるや…、私はやっと自分が歌舞伎観賞家の仲間入りを果たした人間であるかのように思えてきた。
 歌舞伎が終わったのは夕方四時であった。「ミドリ」に行くにはまだたっぷり時間があったので私は典子とコーヒー店に行くことにした。新橋に在る「イエライシャン」は私がよく知っているコーヒー店であった。その店はいつもよく外国人が来るので、私は気兼ねせずに済んだ。外側の壁に大きな竜の絵が描かれたその店は、中国風に工夫を凝らした建物であった。店内も様々な型をした中国風の竜の絵や彫像、ランプ等で内装してあった。一階から三階にかけゆっくり上下に移動する円形の舞台がホールの中央にあった。そのステージに陣取った演奏者はお茶やコーヒーを飲みながらいる客にいつも曲を演奏していた。ぼんやりとした明かりを投げかけているホール片隅のテーブルに二人は腰を下ろした。驚いた様子の典子はあたりを見廻した。
「どうして私をこんな所に連れて来るの?」と良子は尋ねた。

新橋暴動の新橋に華人の店があるのもむべなるかな。この手の、パンパンガール扱いを避けたい彼女の視座はその後もたびたび出ます。頁55、デウェンドラサンの奥沢の貸家の大家サン、緒方サンは韓国帰りで、麻布にレストランを経営しているとのこと。ハンサムで豪快で、話す英語は間違いも無ければ、話の内容を汲み取るのに苦労もいらないとのこと。他の多くの日本人と話している時のように、デウェンドラサンが日本語を交えていちいち説明する必要がなかったとか。しかし緒方サンも戦後の女性過多社会の中で、典子サンをそういう目で見ており、しまいには「ねえちゃん、ワシにもええやないか」と言いそうな感じなので、典子サンは彼の接近をいやがっていたそうです。

頁57
(略)から二週間程、些細な事を除けば私はとても愉快な晴々とした日々を過ごしたと思う。典子と私はこれまでのように家の内に引き籠らず、東京の町中を点々と歩き廻った。(略)来日し一年居ても到底得られないような諸々の経験をこの短期間につぎ つぎ経験し得たのである。
 典子は私の下宿先を訪ね、私と一緒に外出することを極力嫌ったので二人は外で落ち合い、日が暮れる頃外で別れるようにした。緒方さんを初め、隣り近所の人々から色眼鏡でみられているのではないかという恐怖感から、彼女が考えだしたことに違いないと私は思ったけれども、彼女の口から聞き私そうとはしなかった。二人は商店街をずっと歩きながら、ショー・ウインドー越しに見える美しい豪華な商品に目を配り、幾ら位するものかと話し合ったりした。(略)私は安いヘヤービンとイヤリングのセットを買って彼女に差し出すと、彼女は驚きを隠しきれず、そしてまた恥ずかしそうに私の方を見た。
「これ・・・、私に良すぎるわ」と言って典子はそれを受取ろうとしない。たちまち私の表情が曇るのを感じとる彼女は、思い直し、すぐ自分の頭に差すと私の方を振り向いてみせる。でなければ身に着けていたイヤリングを取り外し、真新しいイヤリングに換え、ハンドバックから小さな手鏡を取り出して顔を写し、嬉しそうに謝意を表し私を見詰める。
「父に見せなくちゃね。デウェンドラさんが買って下さったの・・・と言って。」この典子の言葉に 私は淡い哀愁を感じた。彼女がまた私から離れていくかのように思えてくるのだ。

このイヤリングのプレゼントのくだりは、ネタバレですが、典子さん側からの描写の『お命日』では真逆です。主客が転倒すると、こうも感覚が変わるのかと驚く。

頁58
 夕闇がせまる頃、銀座、渋谷、それにあたり一面ネオンサインが点滅し始める。そこに浮き出される漢字や日本語の文字を一つ一つ典子は私に読んで聞かせてくれる。翌日、典子はその漢字をもう一度見せて読めるかどうかを尋ねる。しかし私はそれらの漢字を暗記などできはしない。ましてや覚える努力もしない。意味を解さず漠然と眺めている方が余程美しいと私は思う。その上漢字の読める典子が私の側に居るのだから、私が読めなくっても別に構わないのではないか?
 ともあれ、私は銀座通りを散歩するより寧ろ浅草に行く方が好きだった。昼夜を問わず後草は いつも祭りのように賑やかで至る所飾り付けられている。アーケードの真中に吊り下げられた大きな提灯は毎週のように取り換えられる。この通りを歩くと、この世に存在する有りと有らゆる色が目を射る。

美しい。この後、デウェンドラサンは京都に行き、ガイジン専科の芸妓と金銭的な関係をもったりします。追記します。

右のページにはパチンコで遊ぶという記述まであるのですが、残念なことに頁数を写し損ねました。残念閔子騫

頁63
(略)二人は電車に乗って井之頭公園に行き、そこでボートを漕いだ。私はいままでオールを手にしたことがない。しかし彼女は慣れた手捌きで往来するボートの間を潜り抜け、二人を乗せたボートをスイスイと操っていった。ボートに乗った若い男女が顔に微笑を浮かべ我々の方に視線を投げかけ、何かを言った。(略)井之頭公園内で太宰治が自殺したといわれる水門の跡を典子は私に示してくれた。そこには勢いを増した汚水が滔滔と流れていた。
「同じ自殺する位なら、どうしてもっと景色のいい場所を選ばなかったのでしょうね、富士山ならここより遥かにましでしょうに」と私は冗談交りに言った。

太宰は出てくるわ、井の頭恩賜公園まで出てくるわ、サラッチャンドラサンの日本通ぶりはとどまるところを知らないです。ウィッキーサンに教わったわけでもあるまいに。

b.hatena.ne.jp

頁90
「『藤十郎の恋』というお芝居は今、東横劇場で公演中です。その藤十郎の役を演ずるのが扇雀。 君子ちゃん、扇雀の大ファンなのよ。だから芝居を見たかどうかって尋ねたのよね」
 「私、テレビで姿を見たことがあります。でも実際に行ったことがありません、東横劇場へは」
と君子ちゃんは答えた。
「さあ、ちょっと持って来て、デウェンドラさんに扇雀のブロマイドを見せて御覧」と君子ちゃんに典子が話し掛けた。

たしかウィッキーサンも、日本で色の黒さから不快な思いをしたことがあって、たしか街を歩いてたら、イキナリテキヤがダッコちゃん人形をウィッキーサンの腕にまとわせて、指さして笑ったんだったかな。本人のインタビューで読んだことがあります。

頁94の別れの場面で、典子さんはデウェンドラサンに「おかめ」のお面を渡すのですが、デウェンドラサンは般若のお面を典子さんに渡します。これを自分だと思ってくれと言って。逆じゃないかと思いました。

ja.wikipedia.org

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以下京都編冒頭。

頁98
第七章
私は一年間京都で過ごしていたが、それでも京都の生活に馴染めなかった。古き日本の面影を忍ばせるものが今なお其処に残っているのは事実であろう。しかし東京ほどエキゾチックなものが京都には見られない。東京の大都会には現在の日本の姿と過去の日本の面影が相入り混って共存共栄している。空に舞う大きな鳳凰の形をした古い大寺院の姿は東京に於てはそれ程までも見 受けない。東京では京都の町のように何処を向いても舞子さんの姿や芸者さんの姿は見られない。 しかし、かって都のあった京都の町やその周辺の都市には、古代日本文明の流れが今なお庶民生活に受け継がれている姿を見ることは、ごく稀に過ぎないと私は思った。京都は至る所、古代遺産が点在している。しかしその遺産も只その古さだけが残っているにすぎない、と思えた。
 このように考えるのは誤りであるかもしれない。しかし私が感じた印象は正にそうだった。私が「江戸ッ子」風の生活をしていた所為であるのだろうか・・・、このように感じるのは?  関西寿司は私の口に合わない。少し甘すぎる。東京の人間にある気取らない上品さが、京都の人間には欠けていると思った。京都の女性はそれほど愛想ややかさが目につかない。レストランや商店で働く女店員も今一つ引き付けられるものがない。
 私が暮らしていた寺院は清らかな誠に閑静な所に在った。その寺の住職は口数も極めて少なく物静かな人物であった。いつも経机に向かって何か仕事をしていた。住職の奥さんは全く正反対な性格をしていた。彼女はいつも大声で話しながらバタバタあちこち歩き通り、家事に精を出していた。二人の間には非常に可愛いい二人の子供がいた。
 その寺院にはあと僧侶一人と、京都大学に通う三人の学生が住み込んでいた。その僧侶は毎日夕方になると三人の学生と一緒に酒を飲む。彼が外に出掛けるといつも帰りに酒瓶一本と住職の子供たちに玩具やお菓子を買って来た。彼は酒を飲もうと何度も私を誘ってくれた。しかし私はその場に居るより、外の世界を散歩する機会が多いので、 彼等と杯を交わしたのは稀だった。時々奥さんも仲間に加わり、我々が杯を汲み交わしているとあれこれ酒のおつまみを作ってきては差し入れてくれる。こんな時、彼女も少しお酒を飲み、皆と歌を歌って大いに興じるのである。酔いが回ると彼等はあれこれ余興を始める。ある日のこと、一同が「能」の舞いの真似を始めた。 山本正文という学生の一人が謡曲の部門を見事に声色をつかって演じ、舞いを披露した。
 こうした娯楽から私がえた喜びは一時的なものにすぎなかった。お酒を飲めば気持ちが半ばほぐれる。五感を刺激する無情の世界がその時淡く果敢ない霧のベールに包まれて優しい姿を覗かせる。月の光に照らされて遠く彼方に浮かび上がった遠山の如く、私の目に、ほんのりと棚引く、一楽の霞のみが見えてくる。衰えきったその感覚は為すがままに任せ、私は役教の世界にひたすら陶酔していく。 
 私は足の向く所に出掛け、面識のない人々の中に腰を下ろし、豆腐や焼とり、でなければ刺身を食べながら夕方を過ごすのがむしろ好きだった。
そうして時を過ごしていると私の孤独な気分が薄らいで一時間でも半時間でもそこに座ってい(以下略)

東京人酔わせてどうするつもり、てな感じの関西辛口評価。スリランカ贔屓の関西人が読んだら、ウィシュマサンの件なんかすっかり忘れて、「このスリランカ人おかしいで、ホンマの関西見てへんのちゃうかなあ」と言いそう。

下は豆若登場場面。

頁104
 私が豆若と出会ったのは丁度その頃である。彼女は花柳街に暮らす遊女ではなかった。自分は芸者であると名乗ったけれども彼女は元々芸者ではない、と私は知っていた。北海道に行ってアイヌ語を調査し、その後、京都大学で教鞭を取っているオーストラリア人教授が、芸者さんの居場所はここだと言って自分が知っている住所、氏名、電話番号まで英文で印刷された名刺を、ある時私に呉れていたからである。名刺の裏側にはその居場所に通じる道筋が書かれた地図まであった。それは外国人兵士や、または旅行者のために設けられた売春宿に違いないと私は思った。幾度も私は電話ボックスの前を行ったり来たりした挙げ句、勇気を振って、名刺に印刷された電話番号を回わした。中年の女将の声が聞こえた。私が英語で話すと、彼女も英語で答えた。時間を打合せ、私はタクシーに乗り込んで運転手に名刺を見せた。彼は二、三度交差点で車を止め、目的地に近づくと、提灯がぶら下がった門の正面で車を止めた。私がタクシーから下りるや、仲民さんが私を出迎えに出て来た。こじんまりとした中庭に建てた別棟に彼女は私を案内し、脱ぎ捨てた靴を端の方に片付け、つるつるに磨かれた床の上を通りぬけ、障子の戸を半ば開けるや、内に入るように勧めた。そこは真新しい畳が敷かれた小さな部屋であった。片側の壁には絵画が 掛けられ、背後の壁を切りぬいた出窓の棚には花瓶が置かれ、部屋の中央には丸型の食卓があった。畳の上には四角の座蒲団が数枚敷かれていた。部屋中が小綺麗で確かに客の心を引き付けるに余りある。暫くして仲居さんがもう一度部屋にやって来る。日本茶を二杯入れ食卓の上に置い(略)
(略)暫くすると赤い着物に黄色の帯を締め、微笑を浮かべ、淑やかな仕草で襖をあけ、部屋に入るや畳に顔を深々とつけ、私に挨拶をしたその芸者さんは、女将の言葉どうり器量のいい若い女性であった。ところが彼女が芸者さんでないことをその場で私は見抜いた。彼女は髪を短く切っていた。普通の芸者さんとは違って彼女の顔は厚化粧もされていなかった。
「こちらは豆若。この方がデウェンドラさんどすえ」と言った女将は我々二人を紹介した。豆若は可成り流暢に英語を話した。彼女は外国人との接客に相当馴れているに違いないと感じた。お座敷にくる芸者は外国人にとても恥ずかしがるのだと女将の言った言葉は嘘ではないか? 女将は彼女たちを芸者だと触れ込んだけれども、日本について事情をよく知らない外国人にこうした方便を使っているのではないかと私は疑った。それは兎も角、豆若は御世辞がうまい訳でもなく、またどぎつい派手さもなく、はにかむ様子を兼ね備えた女性であった。彼女は見事に初の恋心を演じようとしていた。彼女は仄かな明かりが灯っている別室に私を案内した。お酒が飲みたいかを確かめると、彼女は仲居さんを呼び寄せた。
「うちおコーヒーを頂きます」と彼女は言った。彼女は丹前を持ってくると私に着るように勧めた。小さな提灯に明かりが灯り、黒の御影石と白い砂利を敷きつめた中庭を通ると、棟とは別に風呂場があり、そこに私を案内するとすぐお湯を沸してくれた。日によって、彼女はラジオを持って来て我々の小部屋にソフトな音楽を流していた。
 私が帰り支度をし始めると、また来る日まで私を待っていますと彼女は優しい声を掛た。(以下略)

本書では豆若サンはほんとの芸者ではないのではないかと書いてますが、ホントの芸者も駐留軍将校が上客で、髪をおろして水着で琵琶湖の日本人オフリミットのビーチで白人サンたちとはしゃぐ写真なんかが残ってますので(東山区の図書館で読んだ芸妓さんの回想録に載ってた)あまり本物偽物言っても仕方ないと思います。

頁107
「あんたはんのお声ですぐ分かりました」と女は笑いながら言った。「あんたはんのお友達、豆若さんやおまへんか? あんたはんのお越し、首長ごへして持っとりまっせ」 
その日私がそこへ出掛けてみると豆若は女将と話しながら私の着くまで玄関先で待っていた。 彼女は私を部屋に案内すると一言も話さず、すっかりしょげきった表情で暫くその場に座り込んでいた。 「うち、今・・、神社へお参りに行ってきた所どすえ。悩みを神様にお話してきましたんどすえ」 「どうしたのですか? 何かあらたな悩みごとでも?」
「デウェンドラさん・・・、うちを見捨ててしまはったんやおへんか??」 私は豆若の話を信じなかった。しかし彼女に同情心が湧いてきた。彼女
が私に何か間違いを犯したとでもいうのか? 私が彼女に金を渡したのは私の好き勝手でやったことである。彼女の圧力に屈したからではない。彼女は一切合切残らず女将に話しているに違いない。私は電話で女将に話したことを思い出し恥ずかしい思いがした。そのような些々な事でも強固な意志が必要であ ると思った。
「いいえ、私そんなこと言っていません」と私は答えた。
「豆若さんが今日はお留守だろうと思ったので。いつか電話した時も豆若さん居なかったし」

豆若ばっかしなのに飽きたのか、別の女性とあれしようと画策して敗れ去るデウェンドラサンの場面。パロパロin京都。

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(略)店のカウンターの方をチラッと見た。私の名前や住所を控えた店員やその他の店員、女店員たちが何か立ち話をしながら笑っている姿が見えた。彼らの話はきっと私のことに違いないと思った
 二、三日経って豆若の便りを受取った。彼女が私の住所を知ったのは、小荷物の差出人を見たからであろう。手紙は英語で書かれていた。
「貴殿がお送り下さいました贈物、確かに頂戴し大変嬉しく思いました。失わずに大切に使わせ て 頂きます。私はずっと貴殿のお越しをお待ちしておりました。できるだけ早い時期に再びお目に掛かれることを楽しみにしております」
 私はもうこれが最後の最後であると心に言い聞かせながら、再度豆若に会いに出掛けた。私の 姿を見るや否や、彼女は先日送ったプレゼントのことに触れた。自分の腰元のポケットからそれを取り出し私に見せた。
「これが届いた日、私の友達がこんなことを言ったのですよ。あれ御覧。豆若さんに誰かいい人が高価なプレゼントを送ってきている・・」と言って。」彼女は微笑を浮かべて言った。その言葉のなかに秘められた皮肉な響きに私の心は痛んだ。私は何故また豆若なんかに会いに来たのか? もはや単なるビジネス以外の何物でもないことが明らかだ。見方仕第だが、贈物をして姿を見せないことよりも寧ろここに会いに来たことがよかったのではないかと思った。
今、彼女は出来る限り私から多くのものを吸い取ろうとしている。私も自分の決意を実行すべきである。
 その日、私が帰ろうと立ち上がるや隣り部屋で二、三人が荒々しい声で話すのが聞こえた。彼等は米軍兵士に違いないと思った。私は豆若の顔を見た。どことなく落着きの無さが顔面を掠め、すぐまた消えるのを私はとらえた。
 彼女は流し目に自分の腕時計を見た。
「丁度お時間なんでしょう?」と私は間髪を入れずに言った。 
「いいえ、こんどはいつお越しやすか?」と彼女は話を変えた。
「電話しますから」と言って部屋を出た私は、再び電話を掛けることもないと思った。彼女は玄関までついて来ると、私の靴を下駄箱から取り出し玄関の踏み石の上に揃えたあと、私が靴を履いて外に出るまでいらいらしていたに違いない。

しょせんカネだけの関係なわけですが、一枚うわてな豆若にしぼりとられることに男の矜持、プライドを傷つけられるデウェンドラサン。

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久方ぶりに私は夕方下宿先の寺を出て外を散歩していると、豆若にまた会いに行こうと急に思い立った。私は彼女に電話した。しかしその日「豆若は家に居りません」と別の女性が返事した。 
「何時頃お帰りですか?」と尋ねたら「夜遅くまで帰らないでしょう」と彼女は言った。私の心に大きな妬みが生じた。

電話するならこの時間と豆若に言われていたのに、ちがう時間に電話して、その時間は彼女は別のいい人と逢瀬なので電話NGというありきたりの真相を知るデウェンドラサン。これで百年の恋も冷めたとばかり京都を脱出します。当初の予定では沖縄を回って出国する予定でしたが、どっかよそにいきなり行っちゃうんだったかな。典子さん置き去りに。

下は、典子サンとデウェンドラサンのシンハラ語表記を調べた時に出て来たブログ。写真の説明は一切ナシ。サラッチャンドラサン滞日時に撮った女性とのツーショット、なのかなあ。確かに本書の頃、1950年代の風俗っぽいですが。

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