『ブライヅヘッドふたたび』(ちくま文庫)読了

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ブライヅヘッドふたたび (ちくま文庫)

ブライヅヘッドふたたび (ちくま文庫)

ブライヅヘッドふたたび

ブライヅヘッドふたたび

やっと読み終わった、というのが正直な今の心境です。
『エヴリデイ・ドリンキング』*1の訳者註で取り上げられていた本で、
図書館で蔵書検索すると吉田ケニチ先生訳でしたので、
かなり期待して借りたのですが、
よく考えると、山本博は『ブライヘッドふたたび』という、
現実にない書名で取り上げていたんですね。蜃気楼に気付くべきでした。
読んだのはちくま文庫
復刊ドットコムで出ているとは、今検索する迄知りませんでした。
ちくまの表紙は、映画から取ってるみたいです。

映画名:情愛と友情 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E6%84%9B%E3%81%A8%E5%8F%8B%E6%83%85
なぜケニチ訳が「ブライヘッド」なのかさっぱり分かりませんが、
そもそも私は"Brideshead"を"Brides"+"head"と読まず、
"Bride"+"shared"と空目っていて、花嫁共有とはまたエロいタイトルだ、
と勝手に誤解していたので、そういうアホをいさめるために、
「ズ」でなく「ヅ」としていたのかもしれないな、と思いました。

ForvoのBrideshead発音
http://ja.forvo.com/word/brideshead/

ケニチさんは「ふたたび」と訳してますが、"revisited"ですから、
イーヴリン・ウォーWikipedia日本語版*2のように、
『ブライズヘッド再訪』と訳すのがコレクトなんだろうと思います。
もうひとつの邦訳である小野寺健訳も、
『青春のブライズヘッド』だったり『回想のブライズヘッド』だったりして、
なぜ"revisited"を曖昧にしようとしているのか、よく分かりませんでした。
小野寺版の解説読めば、「ヅ」の謎も少しは分かるのかなあ。

回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)

回想のブライズヘッド〈上〉 (岩波文庫)

回想のブライズヘッド〈下〉 (岩波文庫)

回想のブライズヘッド〈下〉 (岩波文庫)

で、山本博の紹介では、
確かワインを飲むシーンの描写が素晴らしいとかなんとかだったのですが、
開けてびっくり、ただのアル中小説(前半のみ。後半は不倫小説)でした。
というか、ただのアル中小説ならいいのですが、
やがて倒錯した愛に溺れはじめるとの裏表紙で、
そんなデカダン小説読んでるヒマはないのに、と、切歯扼腕しながら読んだわけです。
私は、男色貴族は名香智子のマンガ程度の軽いものでいいです。そのキャラは、男色だからアル中になるわけでは無論なく、
カソリックの男色だからアル中になったわけでも無論なく、
家族の関係が何かありそうですが、全然分かりませんでした。
カソリックの男色というとまずジッドの下記を連想しますが、
それも全然関係ないですしね。
一粒の麦もし死なずば (新潮文庫 シ 2-8)

一粒の麦もし死なずば (新潮文庫 シ 2-8)

イギリスのカソリックというと私も珍しいと思いますし、
アイルランドでなく英国本土のカソリック
だから国教会からカソリックへ改宗した作者がこの小説をアメリカで発表し、
アメリカで連載し、アメリカでベストセラーになったというのも興味深いと思いますし、
そうなると全然関係ないですが、
小学館の編集者は早く下記のマンガを再開させないといけないと思います。
一色まこととかもそうですが、小学館ではダメなのかなあ、ハロルド作石完結してないですよね。シェークスピアが、実は国教会がカソリックを弾圧した時代の、
隠れカソリックだった、という大胆な仮説の歴史マンガ。続きが読みたいです。
行き詰って『Rin』に逃避したのでなければいいけれど。
RiN(8) (KCデラックス)

RiN(8) (KCデラックス)

吉田健一

吉田健一

で、私は、吉田健一の小説やエッセーは読んだことがあるのですが、
訳本はまだだったので、その意味でもこの本は楽しみだったのです。
上記、大佛次郎賞の評伝*3に書いてあるかどうか知りませんが、
(たぶんあると思います)
句読点のない日本語文章を指摘されて、平安時代の日本語に句読点があるかと言い返したり、
英国貴族かなんかから、彼の英語は完璧だが、
往々にしてそういう人間は母国語がアレなもので、
ケニチはどうなんだと友人の日本人が聞かれ、ケニチ先生の日本語は完璧なのですが、
友人はその英国人をホメ殺そうと思って、「いやあ彼の日本語はイマイチ」と答えて、
英国人が、そうだろうそうだろう、両方完璧なバイリンなんているわけない、
とほくそえんだというエピソードを踏まえてこの小説を堪能したかったのです。

ミサを弥撒、ストライキを罷業、テーブルを卓子。
ハリウッドをホリウッド(頁362)、キャビアをカヴィア(頁360)、
メレンゲをメラング(頁338)、ブライズヘッドをブライヅヘッド。
そういうクセは面白かったです。
罷業や卓子は、そのまま漢語で使われているものです。
その辺もケニチ先生と、その時代の教養の一端で、好きです。

で、いい文章と、アル中の印象的な部分を、これから引用しようかと思いましたが、
時間もないことだし、それから、自助グループアメリカで出来る以前の、
旧大陸と英国のアル中に対しての考え方をどれだけうまく抽出できるか分からず、
またその意味もさしてないような気もするので、いったんこれで読書感想終了とします。
とにもかくにも、読み終えることが出来て、よかったよかった。以上
【後報】
いちおう、アル中部分を少し引用しておきます。
私のコメントなんか余計なんだけど、引用ばかりだと箸休めがいるかもなので、挟みます。

頁10
 私はここでまだ三十九にしかならないのに、老いを感じるようになった。晩になると体が強張って疲れが出て来て、基地を離れる気が起らず、或る椅子とか、新聞とかを自分のものと見做す癖が付き、晩の食事の前に必ずジンを三杯飲んで、九時のニュースが終ると直ぐに寝た。又、起床喇叭が鳴る一時間前にいつも目が覚めて、もう寝付かれなかった。

これは主人公の近況で、彼は酒に取り込まれたわけじゃありません。

頁62
「それから酒。――一学期に一度か二度酔っ払うのは当り前のことで、場合によっては酔っ払うべきことだってある。併し君はよく午後のうちにへべれけになっていると言うじゃないか。」
 ジャスパーは義務を果して、一休みした。彼の頭は試験のことで悩まされ始めていた。
「申し訳ないけれども、ジャスパー、」と私は言った。「そして又、貴方に迷惑を掛けていることは解っているけれども、私はあの悪い連中が好きなんですよ。昼の食事で酔っ払うのも好きだし、私の手当ての倍はまだ使っていないけれども、今学期の終りまでにはその倍使うだろうと思うんです。時に、私は丁度今頃、シャンパンを毎日飲むことにしているんですが、貴方もどうですか、一杯。」

主人公の若い頃が上記。

頁193
 セバスチアンが私とは全く違った意味で酒を飲むことに私が気が付いたのもこの学期だった。私もよく酔っ払ったが、それは元気があり余っていて、現在の瞬間に生きる喜びと、それをなるべく大きくして引き延したい気持ちからだったが、セバスチアンは現在から逃れる為に飲んだ。私達がともに年を取って真面目になるに従って、私は前より飲まなくなり、セバスチアンはもっと飲むようになった。私が自分のコレッジに戻ってからも、セバスチアンは一人で後に残って遅くまで飲み続けることがあるらしかった。そしてこの頃、彼は徐々に幾つかの事件を惹き起して、それが余りにも急速に彼を襲った感じで私は今でも、彼が窮地に追い込まれていることを知ったのがいつだったのか、正確には覚えていない。併し復活祭の休みになった時には、そのことが既にはっきりしていた。
 ジュリアは彼に就て、「可哀そうに、あれは何か化学作用なのよ、」とよく言っていた。
 これは当時、科学の知識の普及が妙な誤解を生じて出来た流行語の一つだった。例えば、二人の人間が並外れて愛し合ったり、憎み合ったりしている場合、二人の間には「何か化学作用がある、」という風に言われたので、これは古くからある決定論にそういう新しい形が与えられたのに過ぎなかった。

アル中の友人の若い頃が上記。
化学作用と訳された単語は、21世紀ではカタカナで、
ケミストリーとそのまま書かれるようになりました。

頁194
 彼はその一週間、飲み続けて、――それを知っているのは私だけだった。――それも昔の彼とは全然違った、変にこそこそした具合にで、客達がブライヅヘッドにいる間、書斎にいつも各種の酒を載せた盆が置いてあり、セバスチアンは私にも黙ってそこに行っては飲むのだった。昼間は、家の中には人が殆どいなくて、私は列柱の脇の小さな部屋で又一つ、楯形の枠に絵を書いていた。セバスチアンは風邪を引いたと言ってどこにも行かず、その間中、殆ど素面でいることがなかった。

頁213
「私が何の為に伺ったか、もう察していらっしゃると思います。私はただ貴方に、セバスチアンが今学期、飲み過ぎていないか聞かせて戴きたかったんです。」
 私はそれを察していた。私は、「もし飲み過ぎているのなら、お答えしない所ですが、実状は、飲み過ぎてはいないとお答えすることが出来ます、」と言った。
「私は貴方がおっしゃることを信じます。嬉しいわ、」と夫人は言って、私達は一緒にクライスト・チャーチのセバスチアンの部屋に昼の食事をしに行った。
 その晩、セバスチアンは三度目の事件を起して、午前一時に泥酔してコレッジの広場をうろついているのを副学長に見付かった。
 私は十二時少し前に、沈んではいてもまだ少しも酔っていない彼と別れたのだったが、その後、彼は一人で一時間のうちにウィスキーを半本空けたのだった。翌朝、彼がそのことを私に話しに来た際には、彼はもうその時のことを余りよく覚えていなかった。
「君は私と別れてから一人で飲むっていうことを今までもやっていたのかね、」と私は聞いた。
「二度ばかりだ。いや、四度位かな。色々と煩さくされる時なんだよ。ほうって置いてくれさえすれば、どうもないんだ。」
「併しもうほうって置きやしないだろう。」と私は言った。
「そうなんだ。」
 私達は二人とも、今が危機であることを知っていた。私はその朝、セバスチアンに愛情を感じることが出来なかった。彼にはそれが必要だったが、彼に与えるべきものが私にはなかった。
「君が君の家族の誰かに会う毎に一人で飲んだくれることにしているなら、もうどうしようもないじゃないか、」と私は言った。
「そうなんだよ、」とセバスチアンは悲しそうに答えた。「もう駄目なんだ。」
 併し私は、自分が嘘つきにさせられたので自尊心を傷つけられていて、彼を慰める気になれなかった。
「それじゃ、君はどうする積りなんだ。」
「どうもしないよ。連中の方ですっかりやってくれる。」
 そして私が何も言わないので、彼は帰って行った。

共依存に引っぱり込まれる怖さですかね。

頁215
「セバスチアンが飲んでいないと言った時、私はそれを本当だと思ってそう言ったことを信じて戴きたいんです、」と私は言った。
「貴方がセバスチアンを庇おうとしていらっしゃることは知っています。」
「そうじゃないんです。私は貴方に言ったことを自分でも信じていたということなんです。今でも或る程度は信じています。セバスチアンが前に二度か三度しかあんな風に飲んだことはないと思います。」
「いいえ、もう駄目なんです。チャールス、」と夫人は言った。「貴方がおっしゃっていらっしゃることは、貴方が私が思った程セバスチアンのことを御存じでもなければ、セバスチアンを動かす力を持っていらっしゃらないということなんです。私達がセバスチアンを信じようとしても、もう駄目なんですよ。私は前にも酔っ払いの経験があります。一番恐しいのは、そういう人達が平気で人を瞞すようになることで、真実を愛するということが先ず出来なくなるんです。

下記は自助グループ発生以前の発言。

頁250
チューリッヒのボレトゥス博士の所にやればいいんです。ボレトゥスなら間違いありません。あすこの療養所じゃ毎日、奇蹟が起っているんです。あのチャーリー・キルカートネーがどんな飲み助だったか御存じでしょう。」

頁250
「いや、チャーリーも可哀そうに、飲まなくなってから余り面白い男じゃなくなってしまいましてね。併しそれは別な話です。」

自分という主体なき転地療法は無駄だと、個人的には思います。

頁251
「ボレトゥスは変態も扱うんですよ。」
「まあ、それじゃセバスチアンも可哀そうに、チューリッヒで随分妙な人達と付き合うことになりやしないでしょうか。」
「あの療養所はもう何カ月も先まで予約ずみなんです。併し私から頼んでやれば何とかなると思います。今晩ここから電話を掛けてもいいんです。」
(レックスが少し親身になって人の世話を焼く段になると、彼は気乗りがしない主婦に電気掃除器を押し付けているような具合になった。)

共依存はこわいと思います(繰り返し)。

頁309
「君の眼付きで、私があ奴をそんな風にしてしまったんだと思っていることが解るよ、チャールス。それがセバスチアンのよくない所で、あれはいつも誰かにそんな風にさせられたんだと人に思わせてばかりいるんだ。

頁325
 彼は最後に会った時と同様に痩せこけていて、酒は大概のものを太らせて赤ら顔にするのに、セバスチアンの場合は、酒を飲むことで萎れて行くようだった。

頁326
「貴方の友達は又飲み始めています、」と医者が言った。「ここではそれが禁じられているんですが、私にはどうすることも出来ません。ここは感化院じゃないんですから、病室に監視人を置く訳にも行きません。私は人の病気を直す為にここに来ているんで、道徳教育までやることは出来ません。貴方の友達が今コニャックを飲んでもどうということはありませんが、それだけ次に病気をする時までに抵抗力が又弱ることになって、そのうちにちょっとしたことが原因になって死んでしまうんです。ここは酔っ払いの為の収容所じゃないんですから、今週の末には退院して貰わなければなりません。」
 セバスチアンを看護している修道僧は、「今日は貴方のお友達はとても嬉しそうで、変貌が行われたようです、」と言った。
「この可哀そうなお人よしの坊さんが、」と私は思った。併し修道僧はさらに付け加えて、「それが何故か御存じですか、」と言った。「寝床の中にブランデーを一本隠しているんです。これで二度目で、私が一本持って行くと、直ぐに又どこかから一本手に入れるんです。アラビア人の子供達が持って来るんですよ。併し今まであんなに悲しそうにしていたのに、今日のような様子をしているのを見ると、こっちまでが嬉しくなります。」

何度でも思いますが、地獄への道は善意で舗装されている、と。
打算やカネばかりではなく、善意。

頁329
「そしてその医者はセバスチアンが酒で寿命を縮めていると言ったのか」
「抵抗力をなくしているっていうんだ。譫妄症だとか、肝硬変になっているっていうんじゃない。」
「精神異常じゃないんだね。」

頁459
セバスチアンはなるべく奥地の、何も知らない、一番素朴な民族か、或は人食い人種がいる所に行って布教の仕事がしたいって言ったんですって。院長が、『私達の教区に人食い人種はいません、』と言うと、セバスチアンは、それじゃ小人でもいいし、或はどこか川の傍にある原始的な村でも、或は癩病患者の部落でも、そう、癩病患者が一番いいって言ったのね。院長が、『癩病患者なら沢山いるけれど、これは医者や看護婦が付いてその為の療養所に住んでいて、奥地なんていうものじゃありません、』と言うと、セバスチアンは少し考えてから、癩病患者よりも、どこか川の傍にある小さな教会で司祭がいない時に、その留守番が出来るような所はないだろうと言って、――セバスチアンは川が好きなのよ、ね。院長は、『そういう教会ならあります。今度は貴方がどんな人なのか話して下さい、』と言うと、セバスチアンは、『私は何でもありません、』と答えたんですって。『随分、妙な人間がここに来ます、』」とそこでもコーデリアは院長の声を真似して言った。「『あれも妙な人間でしたが、非常に真剣でした。』院長はそれからセバスチアンに見習いの心得や、その間の修行に就て話をして、『貴方はもう若くないし、そう丈夫そうでもない、』と言うと、セバスチアンは、『私は修行はしたくないんです。修行しなければならないことなら、しなくていいんです、』と答えたんですって。それで院長が、『貴方自身に宣教師を一人付ける必要があるんじゃないですか、』と言って、セバスチアンはそれに、『ええ、勿論です、』と答えて、それで返されたんですって。
「次の日、セバスチアンは又戻って来て、その時は飲んでいた。そして見習になって修行することに決めたって言ったんですってね。院長は私に、『併し奥地に行く人間が決してしてはならないことが幾つかあって、その一つは飲むことです。それが一番悪いことではないんですが、それだけでも命取りになります。その時もあの人に帰って貰いました、』と言っていた。それからセバスチアンは毎週、二、三回ずつ、いつも酔ってやって来て、しまいに院長は門番に、セバスチアンが来ても入れないようにって言い付けたんですって。それで私は院長に、『本当に御迷惑を掛けまして、』ってつい言ってしまったんだけれど、勿論、ああいう所では迷惑なんていうことの意味が解らなくて、院長はただ、『あの人の為には祈る他に何も出来ないと思ったものですから、』と答えただけだった。

こういう態度がとれたのも、まだ仕送りがあって、
底をついてなかったのもあると思います。
彼の最後(推定)は小説を読んで頂ければよいとして、
セバスチアンが仏領マグレブを気に入った理由は、ジッドのそれと同じだと頁319で思いました。

あとは不倫の箇所で、頁346の先妻との部分が結構気に入っていて、
再婚する不倫相手との部分は、下記でした。

頁359
「私を御覧なさい。私は私に与えられた仕事をすませました。私は美しくて、その美しさは全く類がないものです。私は人を喜ばせる為に出来ていて、私自身はそれでどうすればいいのでしょう。私にそれに対して与えられる報酬は何なのでしょうか、」と彼女は言っているようだった。

カッコと句読点を重ねる文法は、私も小学校で習い、後年社会で否定されたものです。
戦前を重んじた職業婦人の教師でした。PTAとかそういうものが勃興したのち、
山間の県の、誰かの後添いになって離職されました。
この文法を貫いたケニチ先生を尊敬します。
以上
(2015/1/7)