『旅人たちのバンクーバー わが青春の田村俊子』 (集英社文庫)読了

表紙は菊池信義*1
ハードカバーの表紙*2とだいぶ違います。
右の女性が、インディアンでなく、
オサレなモガの人であることは、
虚心坦懐に曇りのない目で見れば、
すぐ分かったのですが…

ほかの本*3田村俊子のプロフ見て、
カナダに滞在した時期がバンクーバー朝日*4
かぶってるので、触れてないか知りたくなり、
この本だったら書いてないかと思い、
借りました。結論から言いうと、書いてない。

しかし、在加日系人全体については、
小説V朝日作者テッド・フルモトとはまた違う、
カナダに生活の基盤を置こうとする、
当時の作者の立ち位置から見た記述があり、
興味深かったです。

頁80
 愚直なほど勤勉に、移民達は故郷へ送金をした。仕事を選ぶ余裕も、労働条件を云々する暇もなかった。彼等の送金を、ひたすら待ちわびる妻子や兄弟、父母、縁者達が日本にはいたのだから。
 この形態は、間もなく一つのジレンマを生んだ。労働の場はあくまでカナダである。それなのに、日系移民の賃金は、ほとんどが日本へ流れた。新しい国を建設しようとしているカナダ人にとって、地域社会の発展になんの貢献もしない日系移民は苦々しい存在となった。それのみならず、労働者がだぶつき出すと、日系移民は低賃金に甘んじて、資本家の要求のままに働いた。最悪の場合はスト破りをした。日系人には日系人の事情があり、なんとしても賃金を確保したかったのだが、そのために職を追われる白人労働者達の怒りは頂点に達した。

田村俊子と工藤美代子の共通点(ともに恋人を追ってカナダへ)、
それが執筆の後押しした、協働取材者であるカナダ人女性のその後、については、
佐々木幹朗*5の解説が的確と思います。
瀬戸内晴美田村俊子』について、工藤は頁18で、
これは日本を一歩も踏み出していない俊子だった。
北米社会の影響を全く受けていない俊子しか、私は見出せなかった。

と書いており、解説もそこに触れていますが、私はここは違う感想を持ちました。
上海と北京の違いはありますが、瀬戸内もまた敗戦までの短期間中国に住んでおり*6
そこで、やはり、海を越えていながら、一歩も踏み出ていない、
踏みだすことの出来ない生活を送っていたのではないかと思うからです。
その視点から上海の田村俊子を描こうとしたのではないかと…
田村俊子は上海で中国語婦人雑誌を主宰していたとウィキにある*7ので、
実際は一歩も二歩も出ていたのかもしれませんが… でも寂聴の意図はそうではないかと。

頁145で、いつか上海も調査したいと当時(昭和54年くらい)のメモにありますが、
実現したのかどうか… この本の後半に収められている昭和59年のエッセーの中で、
頁187、ブリコロ大学のニトベ・ガーデン*8の看板が「新渡戸稲造記念庭園」でなく、
新渡戸稲造紀念庭園」なのは日本語の文脈としてどうか?、という記述があります。
画像検索すると、確かに「紀念」になっています。
鮮明な看板画像は個人の方のブログなので、引用は控えさせて頂きますが…·*9

「記念」と「紀念」の違いは? Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1236856262

『カナダ遊戯楼に降る雪は』で、カニタマ、芙蓉蟹の元々の形態、
カニぬきの中華プレーンオムレツ甘酢あんかけの名称を、
芙蓉蛋とスパッと書いた作者が、現在はどうか分かりませんが、
ホンクーバーでオリエンタル同士交流があった日系華人系について、
当時はほほえましく考えていたのではないか、
しかしそこから漢字文化やら何やらアマルガメーションやら、
にのめり込んでゆく方向には向かわなかった、と思います。

頁92、英文学の授業で、宿題形式でなく、教室内で制限時間内にレポートを書かされる、
インクラス・エッセイと呼ばれる試験方式について、
英語での思考論述スピードに時間のかかる非英語ネイティヴに不利ではないか、
と抗議したタンザニア人への教師回答。

だが、教師はこの抗議に対して、「しかし、君は現在カナダの大学に在籍しているのだよ。我々は君にカナダの大学に来てくれと頼んだ覚えはない。君は自分の自由意思でカナダに来た。それについて、君は責任を持たなければならない」と返答したのだった。私はなんと冷たい教師だろうと思った。そこをなんとか、配慮するのが人情だろう。しかし、教師は、「インクラス・エッセイも書けないような語学力の学生に、大学は卒業証書を出すわけにはいかない」と冷たく言い放った。
(中略)
 考えてみれば、地球の裏側やら、表側から、どっと雑多な人種が集まって建設された社会で、私はこんなハンディーがありますと、みんなが泣きを入れていたら、それだけで国の歴史は一ページも進まなくなる。

まーこれはスタンダードラングェッジだからの特権のように思いまス。
仏語ですら、これと同じ言質を振り回したら、
ドグマ(独善)とのそしりをまぬかれえないでしょう。
植民地の少ないドイツや、ソ連の強圧の後押しがあったロシア語やおや。
日本語や中国語、ハングルでも言えるのかどうか。
居着くなら同化してもらわな困るけどもや、そもそも居着いてほしいのかどうか。
日本に活動の場を移した作者の著作タイトルや活動はWikipediaで見ました。

話を戻すと、田村俊子バンクーバー朝日が同時代だったことは確かなので、
ほかの田村俊子の評伝(瀬戸内含む)も読んで、何か記述がないか知ろうと思います。

旅人たちのバンクーバー―わが青春の田村俊子 (集英社文庫)

旅人たちのバンクーバー―わが青春の田村俊子 (集英社文庫)

以上