『大陸ロック漂流記―中国で大成功した男』読了

前作『酒と太鼓の日々。』読書感想
http://d.hatena.ne.jp/stantsiya_iriya/20160118/1453116216
作者
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC%E6%9C%AB%E5%90%89
これは1998年までの記録ですので、「中国で大成功」はウソではないですが、
「中国人相手に大儲け」ではないことを始めに書いておく必要があります。
湯水のように稼いだカネを中国に費やして、前世紀末の時点では、まだ、
頁216にあるように、服部くん事件やロス暴動を受けて米国から中国へ留学先を変えた、
日本人富裕留学生たち相手のアガリがかなりの度合いを占めている記述だからです。
しかし、武警宿舎の隣なので誰もが水商売に二の足を踏んだ立地なのに、
三里屯を酒bar街にしてしまった張本人がジャズ屋、価格設定もすべてジャズ屋ベース、
の記述は素直に信じたい気がします。

頁241
「あと一番問題なのがねえ」
「問題なのが?」
「北京のロッカーどもなんだよ」
「どうして?」
「あいつらいつも、俺はファンキーの友達だって言ってはチャージを払わないし、酔っ払って客と喧嘩始めるし。今日は末吉さんが何と言ったって金とるよ。払わなきゃいくら暴れても追い返すよ」

私も地球の歩き方に載ってたのでJazz屋行ったことがあり、
セレブ留学生相手の価格設定に面食らい、
四川小吃などで毎食一元から三元で外食してる私に、これはありえんと思い、
面識ないけどサインもらおうと思い、
店員に「ファンキーさんいますか」と聞いたら、
「いませんけど、お知り合いでしたら、VIP席に行かれますか?」
と返され、おえんと思いました。

頁286
「一緒に夢を追いたい」
 そんな人材が入れ替わり立ち替わりやって来てはやめて行った。だいたい中国人料金で人民元で給料もらってて長く続くはずはない。

頁246酒癖の悪さで武蔵小山界隈を鳴らした男が番頭になり、
獅子奮迅の働きをみせるわけですが、当初の日本人女子留学生チンシュエイ
(漢字が思いつかない)もそうですが、人をおもっくそこきつかうのが上手いな、
と思いました。これは相当でないと付いてこない。

218「為了朋友両肋挿刀ウェイラポニョウリャンレイチャーダオ(友達のためなら人をも殺す)!」

この本では中国行のきっかけが鍼治療を受けに行く友人のつきそい、
となってますが、前巻でそうだったか思い出せないです。
中国にのめりこむほど日本の友人が激減、との記述は近年読むとまた違った味わいが。
大陸人の人名漢字は簡体字で書く、というルールなのかと思いましたが、
(蘇は"苏"、「巒(読めない)」は"峦"、「馮」は"冯"、「趙」は"赵"、
 「張」は"张"の字で書いている。香港人BEYONDのメンバーは日本漢字と繁體字)
日本留学経験者の"关"くんは「関」と書いてるので、本人の意思尊重かしれません。
BEYONDのメンバーが日本のバラエティー番組収録中に事故死したくだりは、
論考でなく、情景描写に限定して、かなり筆を費やしてます。
日本人の恋人について懸命に擁護しています。立ち位置等。
頁234恋人は日本では他人だが中国では家族なのである。

崔健のプロデュースやってる日本人とか、謎の長期滞在日本人が出てきますが、
友誼賓館に暮してる日本人とか、確かにそういう人いると思います。
将来チャイナスクールになるであろう、東外大中国語から北外に留学とか、
そういう人とセットでいたりして、不思議でした。あーいう前世紀末の人たちって、
韓国の組織力の前には衆寡敵せず、北京では蹴散らされたりしたんだろうか、
なんて思ったりもします。

頁183
「どうした、じゃないですよ。僕は末吉さんの何なんですか。お金なしで中国なんか行かされて。給料だってろくにもらってないじゃないですか」
「ないもんは払えん!」
「冗談じゃないですよ。帰国する金だって僕の自腹だったんですよ」
「そうか、悪かったなあ。ごめんな」
 ちょっと安田が可哀相になってきた。
「でもねえ、僕、わかるんだ。末吉さんが中国好きになって、どんどん身ぐるみ剥がされていって、それでも中国が好きで……。僕、北京でそんな人間に何人も会ったもん」
 そう言いながら安田の口調はだんだん熱を帯びてきた。
「でもねえ。それだけじゃあどうしようもないんだよ。金がないなら撤退するべきかも知れない。行くのも勇気だけど撤退するのも勇気なんだよ」

でもこの番頭さんは作者にオルグされるまで、バッグとかの個人輸入で食ってた、
個人の貿易商なので、シビアな人間です。でも年は若い。この2ページあとで、
あっさり自分でパトロンというか金主を見つけて来て(友人の父親)、
北京事業の資本金に出資してもらって、それがJazz屋の導線になります。
親の遺産を食いつぶす荷風とかに憧れる人間には真似出来ん。
下記は1982年爆風スランプと崔健の北京ジョイントコンサートの一幕。

頁113
 中盤でやる予定だった「大きな玉ねぎの下で」をやった頃には中国人客はもう飽きていた。しかし日本人客(私の注釈:駐在がいない頃なので、主に留学生)は、あのヒット曲をこんなとこで聴けるなんて、と喜んだ。
 中国人客はもうすっかり飽きてしまい、崔健、崔健、と連呼した。
「崔健はまーだ」
 と中野が優しく言ったが、それが中国人には「崔健他媽的タマーダ(糞ったれ、崔健!)」と聞こえてブーイングが起きたりもした。
 大失敗のコンサートは幕を下ろし、崔健のステージは逆に大いに盛り上がった。
(後略)

光華寮事件でも敗戦処理でもなんでも同様で、日本人は資料を残さないクセがあり、
それはあとあと不利ですので、ちゃんとこのように記録をつけておくとよい、
と思いました。聞き間違いなんですよ、と。以上