『東京気侭地図』読了

大竹聡国書刊行会から
著者アンソロジー
出したのを知って、
数冊著者の本を借りた
うちの一冊。エッセー集。
昭和五十六年文春刊。
編集者松浦伶。
初出は昭和五十五年
アサヒグラフ連載。
雑誌編集者は天野道映。
編集長初山有恒。
ここまであとがきより。
装幀 梶山俊夫
ⒸToshiro Kanki 1981
Printed in Japan

<目次>
鶏雑煮
上野の駅
お茶の水望景
柳橋
渋谷ジァンジァン

有楽町スバル街
築地のふぐ
芝ゴルフ
池袋サンシャイン
室町の梅
後楽園住宅展示場
青山墓地
地下鉄新宿線
神田のタンゴ
花の飛鳥山
わが街新宿
メーデーの代々木
天下のアメ横
銀座のテニス
本日オールナイト
七丁目の巴里
阿佐ヶ谷駅南口
羽田空港夕涼み
上野の水族館
公園通りマーケット
ATG日劇文化
赤坂サンロゼ

或る日 あさくさ
流れも古川
築地あたり
京浜急行に乗って
神楽坂の灯
谷東急ハンズ
白金自然教育園
新宿末広亭昼寄席
下町風俗資料館
渋谷ハチ公前
地下道大散歩
花園神社 一の酉
柴又暮色
銀座尾張町
あとがき
なんで
気儘でなく
気侭なんだ、
と言ってみるテスト。
以下後報


読書メーター
https://bookmeter.com/books/171102

頁13
 純東京風というのはどんなものなのか、よく知らないが、ぼくの家の雑煮は清汁すましである。
 子供の頃は、鰹節だけだったような気がするが、今は鰹節と昆布と両方でダシを取る。
 鶏と三つ葉と、大根を銀杏にして茹でたのに、切り餅を焼いて入れ、清汁を張って、海苔を浮かす。
 これは今で、昔はそれ以外に、里芋が入ったり、蒲鉾が入ったり、具が多かったように憶えている。三つ葉は入れずに、小松菜だった。

私のところも同じです。
海苔はないかな。

頁27、アテネ・フランセと、
往時の昌平黌を重ね合わせて、
中国の学問を日本人がせっせと
やってんだからね、とし、
山崎闇斎という儒学から国学への
転向者?を出して*1
もし孔子が大将になって、
孟子が副将になって、
日本に攻めてきたら、
儒学生たちはどうするつもりだ、
と言った話を書いています。
今検索したら、Wikipediaに、
どうするのかオチがあった。
便利な時代です。

頁43
 それに、こっちの調子もいいのである。十時頃に始まるというのは、外国なら珍しくはない筈だが、すくなくとも、大人が劇場に入って、なにかを見るのにいちばんいい時間といえば、晩飯のあとである。晩飯をゆっくり食べれば、八時を過ぎてしまう。映画にしても、劇場にしても常時九時か十時頃からの回があれば、ゆっくりと見られるのに、その頃は、どこの劇場の窓口ももう閉められていて、前を通り過ぎるだけでも寒々しい。

今は映画ならあります。
駐車場付きのショッピングモール
併設シアターが可能にした。
この、夕食後の、大人の時間は、
テレビに浸食されたと思います。
21世紀はネットが上書き。
ドア2ドアで劇場まで行ける、
終電を気にせず生活できる、
都市遊民が一定数以上いれば、
供給も又あると思います。
シモキタでカンパばかりでなく。

頁73、サンシャインに行って、
著者が歩くのが輸入雑貨の
商店街というくだり。
客がいないので気楽に歩けるし、
店員の愛想もとてもいいとか。
私などはガラアキの店に行くと
買わされるまで逃げれない気がして
なかなか入店出来ないものですが、
先祖は神戸の東京人は違う。

頁72
 それ等の店のひとつに、いつも覗く北京直輸入の段通の売場がある。
 ペルシャ絨毯も美しいとは思うものの、中国の段通の微妙な色合いと手触りには、もっと深く心を動かされる。
 鳥や、木々や、花を生活の道具のなかの図柄として取り込んでしまうのは、古今東西に共通のことだけれど、それにしても、一枚の段通のなかの鳥や花が醸し出す一種の夢幻の世界に、ぼくは、てもなく酔ってしまう。
 初めてその店に入ったときに、あまり他愛もなく感心していたので、きっと可笑しかったのだろう。老主人が奥から出てきて、段通の産地やら、工程やら、一枚々々引っくり返して丁寧に説明をしてくれた。北京、天津、上海製の違いや、その良否などを聞いているうちに、話は段々中国のことになってきて、その主人が、戦中から戦後にかけて長いこと中国に暮した体験があることも解った。北京直輸入は、その頃からのつながりによるものだということだった。

私は段通*2
知りませんでした。
もうこの店は現存してないかな。
作者は、中国への造詣も深く、
折々それを読んで、
感心することしきりです。
洋食セーヌ軒でも、
ヨウティアオをご飯で巻いた
江蘇浙江の朝ごはんに
紙面で再会出来て、
うれしかった。

頁77、霰そばが分からなかったので、
検索しました*3が、
著者の筆にはかなわない。

頁77
 霰そばは、寒中からこっちの景物として、なんとなく気をそそられる食いものだ。
 かけのように、汁を張った熱い蕎麦に海苔を浮かせ、その上に小柱を盛っただけだが、冷たい小柱のひと粒ずつを味わいながら、下の熱い蕎麦を啜るその変化が楽しい。小柱が汁の熱さで半がえりになってしまわないように気を遣いながら、その磯っ臭さを試みるところは、かきそばも同じで、かきが白くなって腹を出して引っくり返っていては、なんにもならない。

今とでは店の温度も暖房設備も
調理も冷蔵も違うので、
こんなふうにお出し出来ない、
お出ししても分かってもらえない、
気がします。

頁84後楽園住宅展示場。
白山には何度も行きましたが、
ここにこんなのがあった時代が、
あったんですね。

頁89閼伽桶*4
検索しましたが、作者の云う、
お墓掃除の木桶の意味で、
軽く使ってませんでした。

頁92
 もの堅いといえば、墓参に出掛けると、もう、お墓が綺麗に掃除してあって、花とお線香があがっていることがあった。
 近くに、やはり知り合いの家のお墓があって、その家が先に墓参を済ませた年は、うちのお墓にも参って行ってくれるのだそうだ。うちの方が早かった年には、それにならっていたようで、そういうことは、今でも忘れないものである。

私が今やってることです。

青山墓地は、杉田玄白の子孫とかいう人についてったことがあります。
人生至る所青山有のジョークは、その時は、聞きませんでした。

頁99、都営新宿線が開通して、昔なら、代々木から大島まで行くなど、
年に一回、数年に一回というもののはずが、一時間足らずで行けるなど、
まさに隔世の感があるそうで、乗って見て、降りたい駅がいっぱいあって、
いやいや家まであっという間に帰れるのだから我慢我慢と帰宅して、
気づかれというか時差ボケでくたびれてしまったという話、
その後の、何の関係もないオチも含めて、非常に面白かったでした。

頁105、神田のタンゴも面白かったですが、検索して、今でも、
タンゴ流してるのか!!!とそれも面白かったです。
本原稿時点でも、本場アルゼンチンでもタンゴが廃れ、
ロックとチャチャチャに負けて楽団は国外流浪とか書いてあったので…

頁115、米軍王子野戦病院、この作者なのであまり書いてはいませんが、
書かないということもないという、やはりそれだけ記憶に残ったのだ、
と思いました。時代として。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%8C%97%E5%8C%BA%E7%AB%8B%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%85%AC%E5%9C%92#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

頁122、アルタ新宿が出来たばっかの記述です。高圧鍋のようなビルだとか。

頁126、作者は代々木に住んでるので、メーデーの日は、
鈴なりの群衆が見えたようです。トイレを探すのが大変な、
そういう人々の観察がありました。今も大変なようで、
ツイッターとかでトイレ情報が拡散されるのは見たことあります。
それももう最近はないか。あと、デモ客が入るかどうか、
みんな自販機で買っちゃうから、こねんじゃね、みたいな、
茶店の会話も収録されています。徹マンでデモ脱落とかも。平和だ。

頁131
 アメ横は、天下のアメ横である。誰にでも、アメ横で通る。アメ横の業者の組合の正式の名前も「アメ横問屋街連合会」だそうだ。
 なまじ今日的に「インターナショナル・ブラックマーケット」などとしなかったところが偉い。緑林の出の心意気みたいなものが感じられる。
 アメ横の名のおこりは、戦中戦後に幅をきかせた芋アメに由来している。

ブラックマーケットと自称するわけもないだろうと思いました。
インターナショナルフリーマーケットと自称してたら、作者はどう評したか。

頁137、銀座のテニス。私は、主婦とか一般人のテニスブーム、
よく知らないので、めぞん一刻とか読んでも、そういう時代があったんだな、
くらいにしか思わず、この文章は、その前だと思います。ザギンなので。

頁145、新宿でオールナイトに入る話。女装の男性お断りとありながら、
そんで女性客が二人もいるとか、高校生四人連れが入るとか、
そもポルノでなくピンク映画だとか、隔世の感どころではないです。
満席で立ち見もいてロビーのソファにも寝てて売店が開いてて、
飲み物が飛ぶように売れてるとか。

頁155、シャンソンの話。丸山時代のアキヒロとか、阿佐田哲也ならぬ、
色川武大が出てきます。シャンソンはジャズにかき乱された、
とあるのですが、讀んでもその言葉の是非が分かるわけもなく。
作者はマイク以外、電子機器をシャンソンで使うのに反対で、
同意見者としていねむり先生は登場します。

頁161、阿佐ヶ谷駅南口の話は、ほぼ台湾料理屋の話です。
今でもあるのかないのか知りません。気楽な台湾料理屋といえば、
カウンターに内蔵その他の煮込みが並んでいる、とある時点で、
もうそんな店はなかなかないんじゃいかと。最後にそういう店入った時は、
「本場の民進党」御用達みたいなケーブルテレビ流してました。

頁170、羽田空港夕涼み。穴守稲荷の信者に横浜華僑が多かったという話。
そうなんだと思いました。まだ穴守稲荷行ったことないので、
いつか行ってみます。国際線のほとんどが成田に移転した後で、
中華航空を見る場面が、今読むと面白いです。この後、羽田勝組の短い栄光
そしてLCCの現代へと至る。私はいまだにサーチャージが分かりません。

頁179、公園通りマーケット。これが唯一場所が分かりません。
山手教会と西武パーキングの間とのことで、この山手教会がハマのでなく、
東京山手教会で、そのへんなんだろうな、ってことだけ。
渋谷のアメ横、とのことですが、そんなの原宿でやれよ、
ってことだったのかも。作者は、ポヴァティズムとか、
チープ・シックという言葉が、入ってきては消費され尽したけれど、
自分は好きだった、と書いています。

と思うと、頁193、赤坂サンロゼ。
http://www.sunroser.co.jp/
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9b/Akasaka-Excel-Hotel-Tokyu-01.JPG/480px-Akasaka-Excel-Hotel-Tokyu-01.JPG
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9D%82%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB%E6%9D%B1%E6%80%A5
赤坂東急ホテルの通称「軍艦パジャマ」に説明の要はない、
としていますが、今写真見ても、分からないです。説明しろよし。
この話のオチはシニカルで、好きな人はスッキゃろ、みたいな。

頁231、神楽坂、おきな庵、カツそば、冷やし。
それってこの店だったっけ、と思いましたが、
検索したらバババッと出ました。よい時代…なのかな。
https://tabelog.com/tokyo/A1309/A130905/13040894/

頁234
 石段を上り下りし、右左と曲っているうちに、高低の感覚も、方角の感覚も、次第にあやふやになってくるのが心細く、また面白い。
 この一画の小路には、行き止まりは、あまりない。殆ど、「抜けられる」道だ。
 ひときわ狭く、趣きの深い小路を歩いていると、つい鼻の先の軒灯に、ぽっかりと灯がともった。暗い軒灯だけれど、墨で書かれた屋号の字は、くっきりと読みとれた。
 その軒灯の上には、まだかすかに陽の色が残っている空があった。
 ぼくは、まるっきりの下戸だけれど、吞んべえが、酒をのみたいと思うのは、こういうときだろうな、と思う。

頁237、東急ハンズ。こんなお店が長きに渡って、関西に存在せず、
江坂にかろうじて一軒あるだけだったという事実から、
何を読み取ればいいのか、っちゅうことです。専門店だけあればいい、
という発想なら賛同しますけどね。でも日曜大工のために、
本来自分一人でやらなくてはならない工程を、あれこれ、
スキップして代行してくれるお店ってのは便利なのかもしれない。
でもそれは都市生活者だけ? と、アミュー見て、思ったりもする…
…本文とは違う感想です。

頁245、白金自然教育園は、東京にはもう武蔵野が残ってない、
とおなげきの方に、灯台足元暗しどっせ、総面積六万坪、
三分の一近くが湿地帯の自然園が、目黒におまんにゃ、
ということだそうです。執筆時点。淡水産のしじみもいて、ホタルも飛ぶとか。
今でもそうだといいですね。

頁252、末広亭。私は時間にタイトな時に落語聞いたので、
このような感慨に耽ることは出来なかったです、残念びんしけん。

頁256、下町風俗資料館大竹聡さんのほうの文章で読んだかと思ったら、
こっちだった。こう書いてあると行きたくなります。
またあの辺で展覧会とかあったら、ついでにでも。

頁266、ハチ公に会った記憶があるのだが、銅像落成より後なので、
記憶の整合性がとれない、よもや模造記憶か、という記事。
公存命中に銅像落成との事実が判明し、記憶が正しいと分かり、
一件落着。よかったですね。ブレードランナー2049にならなくて。

頁270、地下道大散歩。諸星大二郎『地下鉄を降りると…』を想起。

以上
(2018/1/1)