- 作者: 生島治郎
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1989/01/01
- メディア: 文庫
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読んだのは単行本です。表紙はいっしょ(と思う)
装画 山野辺 進
装丁 岡 邦彦
初出は「いんなあとりっぷ」1983年1月号〜1985年3月号
“やさしさだけでは生きていけない”改題
あとがきあり。
頁245
その生存競争に負けてしまった、われわれよりナイーヴで心やさしい人々はとっくに死んでしまっている。
頁68、作者の父親は上海語も北京語も読み書き出来たそう。
頁107
もちろん、土地だけならば二束三文である。今なら一坪何百万何千万という都心の土地がタダ同然で買えた。
眼先の利いた人たちは、それを二束三文で買い、後にそれを売って莫大な利益をあげたわけだが、一般の庶民にはそんな知恵を働かせる余裕もなかった。
ポツダム宣言受諾をいち早く知りうる立場にいた人たち。戦後の国籍はいろいろだったかも。
頁37で五木寛之が、作者が金沢一中なのは意外と言ってたと書いています。上海から命からがら帰還後転入した長崎から横滑りで転校したので、そうなったとの由。長崎のその後を知ると、僥倖に思えます。金沢では食事に事欠く疎開、配給のみ生活組に所属し、たいそう困ったそうです。戦後横浜に移り、藤棚の先に住み、二中、のちの翠嵐高校に通う。翠嵐は男子校で平沼高校が女子高だったとか。翠嵐の同級生に青木雨彦がいて、仲良くて、その後もずっと仲良いとか。
青木雨彦 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E9%9B%A8%E5%BD%A6
頁178、ニコヨンのことを当時は別名「プー太郎」と呼んだとか。
大学では童貞喪失とかいろいろあって、で、卒業後早川書房へ。田村隆一が採用したとか。早川書房は給料がたいそう安かったそうで、
頁226
「(前略)実は、入社試験の成績に関して言えば、きみより優秀なのが一人いた。しかし、この男は地方出身者なんだ。と言うことは、東京では家族とはなれて生活しなければならん。ところが、うちの社の給料ではとうてい独りで生活なんかできっこない。その点、きみは両親もおられ、横浜の実家から通えるようだから、給料だけで生活する必要はない。そうだろう?」
早川にはこのほか田中潤二氏福島正実氏江戸川乱歩氏(顧問)都築道夫氏常盤新平氏が集まったとか。
そんでこの本は終わりますので、小泉喜美子は出ません。飢えた少年時代の記述は鮮烈でした。以上