『ロッテルダムの灯』(庄野英二全集 9 )読了

 この人の戦争体験を読もうと思って何冊か著書を読み、どこにも深くそういうことは書いておらず、しかしそれは私が物知らずなだけで、作者は戦後、沈黙から覚めるにあたり、まず自身の青春をすべて捧げた十年間(まず満洲と中支戦線、途中重傷を負い送還、にもかかわらず再度召集され南洋)をまとめて、自費出版したのだと知りました。

ロッテルダムの灯』というタイトルの著作が初期にあることは知っていましたが、これが作者の戦争エッセーだったとは。このタイトルの話は巻頭に収められており、なぜこういうタイトルで一冊をまとめたのか推測出来ます。庄野サンがサンフランシスコ講和条約で独立した日本から欧州旅行に出かけた折、朝鮮で負傷したイギリス兵と同じ飛行機になり、彼は記憶を喪失していて、なぜ自分が朝鮮の戦線に赴いたのか、朝鮮でどのような戦闘に参加したのか、どう負傷したのかもまるで覚えておらず、ただ、軍用船の甲板の上からロッテルダムの港の灯を見たことだけを覚えていた。

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District Rotterdam Centrum

これは私が'90年代にロッテルダムの警察で盗難届けの調書を作成してもらった際にもらった、調書をはさむ紙ばさみの表紙の写真ですが、イギリス兵が見た景色も、そんな変わらないんじゃないかと思います。ブレードランナールトガー・ハウアーは、いま鮮明である自分の記憶が消えることを悲しみますが、本書を貫くテーゼは、自身のいちばん多感で重要な時期を十年間も過ごしたその思い出を、どう語ってよいのか、それは沈黙と等質なのではないかと静かに考える青年の姿です。

庄野英二全集 (偕成社): 1979|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

全集なので月報がついていて、河盛好蔵「『帝塚山風物詩』を巡って」阪田寛夫「鴨の足音」庄野潤三「軍隊と兄と『ロッテルダムの灯』」収録。真ん中のは、帝塚山学院の小学生だった阪田寛夫が、当時カンガクの学生やりながら父を手伝って劇や臨海学校や創作踊りなどを児童に指導していた庄野サンを回想する話です。立派な体格の学生服姿で、物静かな青年のようでした。その青年の情操が、十年の戦争を経て、さらに本書を刊行するまで、十五年の歳月を要したことを、アホの阪田はんは「ふとこぼれて忽ち蒸発した人間らしい心を、ずいぶん日を経てからゆっくりふくらませて行く」「美しく時にはのんきな夢物語のかたちをとりながら、実は厳しく深い世界の淵に浮んでいて」「夢から現実にもどる裂け目の恐ろしさ」と書いています。

全集編集 前川康男(巻末に解題記述)戸塚惠三(巻末に覚え書記述)

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装幀 カット 庄野英二 

装幀協力 山高登

あとがきあり

初出は雑多な新聞や雑誌、同人誌に発表した散文。未発表含む。最初の自費出版は、覚え書によると、1961年第九回日本エッセイストクラブ賞宮本常一『日本の離島』塚田泰三郎『和時計』とともに受賞。佐藤春夫激賞。1965年理論社えすぷり双書の一冊として再版。装幀カット鈴木充朗、函写真周はじめ。1974年講談社文庫入り。本文カット、あとがき、年譜は作者。解説河盛好蔵、表紙カバー装画中谷千代子。その後、検索で分かるのが、2013年講談社文芸文庫入り。

頁40「美校出の兵隊」前半は武漢三鎮漢口に上陸した大阪第三十七連隊が大別山を目指して行軍する中にいた補充兵のはなし。「しょうはい」とルビを振った熟語が「小子」で、"小"でない誤植。彼は戦死。

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後半はジャワ俘虜収容所の話で、美大出の中尉が描かれ、芸術家気質で神経衰弱気味で、戦後俘虜虐待の戦犯として絞首刑。

頁46「サンパギータ

  Rの音をLと強く発音するフィリッピンの少女たちと他愛のないおしゃべりをかわしながら、私は毎晩ビールを飲んでいた。

 その酒場には火野葦平氏が毎晩あらわれていた。

 フィリッピンの少女がこんなことをいった。

 ミステル ヒノ セイド マイ スイート ハルト イズ ビール。

 そこで私もこんなことをいった。

 ミステル ショウノ セイド マイ スイート ハルト イズ サンバギータ。

 頁117「ダンクウェル」は、蘭語のダンケ。ジャワのチラチャップ収容所の思い出。仲のよい捕虜に頼まれたことは、公私混同は出来ないとつっぱねるのに、押しが強くてあまり好きでない捕虜からも同じ頼みごとをされて、そっちはやってしまう。それに対する彼の感謝のことばが題名になっています。人は時として道理に合わない行動をする、そのまんま。

頁129「マリーゴールド

 オランダ人がオレンジ色を愛好することを私が知ったのは、昭和十七年ジャワへいったときである。

 夜になると家々のベランダにはオレンジ色のシェードに火がはいり、その下で夜おそくまで語りあっている姿が見られた。

 オレンジ色のシェードをとおした光は柔らかくてしっとりと落ちついて、人々の心を和ませるのにもっともふさわしい色あいで、私は気にいった。

(略)

 俘虜たちのほとんどはオランダ人であった。列車輸送の日、私は見送りに駅へいってみると、俘虜の輸送を指揮するオランダ人の将校たちはいちように帽章の上にマリーゴールドの花をさしていた。よく見ると将校だけではなくて、兵士のなかにもマリーゴールドをつけているのがポツポツあった。

(略)マリーゴールドをつけた兵士があまりに多いので私は親しいオランダの将校にきいてみた。

 すると彼はにこやかに、

「今日はヴィルヘルム女王の誕生日です。私たちは女王の誕生日を祝っているのです。」

と語った。そしてこの花が女王のオラニエ家を意味しているのだということを説明した。 

オレンジブーム。オランダ代表の色は、ヨハン・クライフの昔からオレンジ。バレーボールもオレンジ。なんもかんもオレンジ。同様に、イタリアはなんもかんもアズーリ。ブラジルはカナリア。競技ごとにカラーが変わる日本スポーツはなんかへん。 

戦友は戦闘で死んだり戦犯になったり。そして母親は泣く。この十年で何を語るべきか。そんな本でした。母親が泣く話は「母のこと」、これとその次の「松花江」を佐藤春夫は絶賛していて、そっくり教科書に採用すべきとしています。松花江は夢で自分の軍馬に再会する話で、松花江は結氷しています。作者一流のペーソスをもうそこに見ることが出来る佳品です。母親が泣くはなしもすさまじい。

下士官がいちばん損耗率が高い、その事実と、弱兵揃いと言われた(現実にはそういうこともないそうで)大阪連隊にまた一つ伝説が、というはなし。出征前に母親が、調子に乗って先陣切って飛び出すなといさめ、近所の老人が、こんなことはよそではいわれへんけどと前置きして、お国のためやいうたかて死んだらあかんでと言う。しかし重傷を負った南昌の激戦では、中隊長戦死で代行指揮をとり、大隊長から「御苦労だが、貴公あれをやっつけてくれ」と命令され、右肘貫通のさい、「やられた」「母に叱られる」と感じ、しかし内地送還後母は広島まで庄野サンを訪ね、「ごめんよ、かんにんしてよ」と泣く。庄野さんの負傷は、母の監督責任ではないのに。

帝塚山風物詩』『子供のころ』は別途読書感想をあげます。よい本でした。以上

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