『路上のアジアにセンチメンタルな食欲』読了

 前川健一を読んでみようシリーズ 図書館にあった本でいちばん奥付の日付の古いもの。ですが、奥付の著者紹介によると、これ以前に既に『東南アジアの日常茶飯』1988、『東アフリカ』1983を上梓してるとのこと。へー。

 筑摩書房 路上のアジアにセンチメンタルな食欲 /

装幀 清宮政子 装幀者も編集者も、原稿読みをした人も旅行者。そういう縁で出来た本が筑摩から出た時代なんだなと。巻末の書籍紹介には、関川夏央『東京からきた旅人ナグネ』山口文憲『香港世界』鶴見良行『アジアの歩きかた』立松和平など。80年代バックパック旅行の一瞬を切り取った13のエッセーとあとがきがわりの一文ですが、'60年代末の海外渡航自由化からすぐ後の1973年からアジア放浪を始めた作者だそうなので、早婚してたら中学生くらいのこどもがいてもおかしくないとか(頁45)ウイリアム・サトクリフのバックパック小説『インド行き』で、三十代から四十代の旅行者がこわい、その年になっても旅行が続けられる筋金入りの信念みたいな精神力がこわい、の年代に執筆していることを伺わせる「おじさん旅行者」「おとうさん旅行者」になってるとか(頁99)その辺がちょいと類書と異なると思います。毎回横浜から香港行きの船でスタートするのですが、そこからして既に分からない。上海行き、釜山行き、ナホトカ行きの船なら分かるのですが(あとキールン行き)香港行きの客船があったんですねという。ちなみに、サトクリフの上記書籍だと、二十代バックパッカーはこわくない、四十代以降も将来の不安が濃厚なのでこわくない、幾ら経験豊富でも体力落ちてるしこわくない、むしろ見下せる、でした。

 で、講談社文庫から文庫化され、そっちは電子化されてるので、今でも普通に読めるということです。解説誰だろう。どっちのタイトルも植草甚一カトマンズLSDを一服』を意識しつつ、ジャンキーちゃうで、健康路線やで、と言ってるようにも思えます。

アジアの路上で溜息ひとつ (講談社文庫)

アジアの路上で溜息ひとつ (講談社文庫)

 

 表紙イラスト拡大が下記。南伸坊が書きそうなイラスト。こういう、路上でしゃがんで食事する中国系の話はありません。あと、メインランド・チャイナは出ない。フィリピンでもエジプトでも香港でもマレーシアでも華人が出るのですが、PRCは出ない。作者は中華料理店で修業した経歴がウリのひとつですが、あんまし中華料理も出ないです。

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本書執筆時点は職業「ライター」とのこと。それで長期旅行と生活が両立出来た時代だったんだなあと。でも今はネットで仕事が出来る人が、海外放浪しながら仕事請け負ってこなす例もあるので、さらに両立出来るのかも。そういう、スペイン旅行中のデザイナーのはてなブログを見たことあり〼。むかしながらの、生コンミキサー車を半年ころがして、残りの半年をタイで女性と過ごすようなおっさんは、その後どうなったのかなあ。

www.nhk-ondemand.jp

上記の番組に、タイで暮らす嫁と息子と家のローンのために、六十代の今も日本の建設現場で働く日本人のおっさんが出てました。日本円の稼ぎでないと養えないと。2018年9月28日放送。こういうのが現在の「かつてのアジア放浪その後」なのかも。それと犯罪の確率上昇と自己責任。そして、逆にインバウンドで日本にたくさんやってきたアジアからの旅行者。

以下各話感想。

イミグレーション・カット」ヒッピー入国禁止のマレーシアで長髪を切られる話。作者がそれで後世に名を残したいと当時思っていたであろう、アジアの屋台メシ記録蒐集へのこだわりが見て取れる気概の一篇。作者が中華の鍋振りやってた人間ということを知らないと、読んでて、何故こんなに一食一食の味付けの点が辛いのだろう、そんなグルメなんかこのオッサン、自分でも最高の味付けは気分とか書いてるくせに、と思ってしまうかも。現実にどこまで会話力があるのか分からないが、文章では相手とスラスラ会話出来てるこの手の紀行文のスタイルを踏襲してることも分かります。

これを読むまで、私はタイでも水浴をマンデーと呼ぶと思っていましたが、マンデーはマレー語で、タイ語はアプ・ナムと知りました。職場のタイ語使いにそれを話したいですが、彼は正月にブチ切れてやめてしまった。

おもちゃの見る夢は」メーホンソーンの近くの山中の食事つき宿で、そこで働く少年の料理を手伝う話。作者は英語が出来るんだなと思わせます。あと、田舎が嫌いで都会が好きらしい。(でも欧米の都会には行かないようで、めんどくさい人だとも分かる)もち米主食地帯であるとか、ゆで汁をこぼすあの米の炊き方の描写もあります。中国は日本式の炊飯器の普及後、あっちゅうまにこの伝統のマズい米の炊き方は消えましたが(マズいといわず、油ものばかりのお菜にあったぱさぱさごはん、竹バチで研ぐのでコメが砕けるから、もともと古米でコメが砕けていても気にならないごはんと言い換えてもよい)タイも日本式の炊飯器が席巻して、この炊き方が消えたのかどうか。

自分は海外放浪バックパックが出来るが、現地少年はせいぜいチェンマイに行くのがまずは現実的な空間移動プランだ、と作者が書いていた時代から、コロナで今は一時的に枯れてますが、インバウンドでアジア各国からもバンバン来日出来る時代になり、ヨカタデスネと。
微笑みの値段」現地で『東北タイの子』を読むという贅沢のため、コーンケーン、ノンカイ、ナコンパノムで同書を読み続ける話。ノンカイは行ったことありますが、コーンケーンもナコンパノムも行ったことがなく、むかしの地球の歩き方だと、じつに面白くそれらの地方都市が紹介されているので、行ってみたいなあと今でも思っています。ひょっとしたらその執筆者は作者かも知れない。ウドンタニはB52北爆の拠点だったので英語が喋れる人がいるとか、ナコンパノムはベトナム人の移住者が多いので、ベトナムサンドイッチ、バインミーが喰えるとか、そういう記述が続きます。ノンカイにもそういう店があると書いてありますが、私は滞在時見てません。外国人向けのゲストハウスでない、タイ人向けの商人宿に泊まりますが、大差ないことが分かります。ほかの客がいないせいかもしれませんが。上記地球の歩き方には、タイのタイ人向けの宿がわりと書いてありましたが、それも作者の仕事だったかもしれない。

作者がタイに初めて来た頃は、メコンを自由に越境してラオスに行けたとか。こういう、1973年からの情報が時おり出るのも、80年代からの旅行記と異なる点。
白い花の料理人」化粧した美青年料理人の話。作者以外の長期滞在の中年日本人男性旅行者が出ますが、フアランポーン近くということで、ジュライ、楽宮というホテル名を思い出しました。間違ってもカオサンのゲストハウスではない。

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ペンの旅とトウガラシ」ニューヨークに一年、イギリスに二年いたのに英語がぜんぜん話せない日本人青年が登場し、海外在住年数を誇ってますが、作者に、日本料理店でバイトして日本人とルームシェアしてただけのバカとバカにされます。ロサンゼルスのリトル・トーキョーにはそういう日本人がいくらでもいるとあり、リトル・トーキョーじたいもうない21世紀に想いを馳せました。お話のメインは、高野秀行エッセーにも似た味のある、現地インテリ女性と作者の清い?交際です。インバウンドの昨今でも、日本人のアジア人を見る目は変わらないといいますが、あっちから、出稼ぎでなく、楽しみの旅行に日本にたくさん来るようになったことによる変革は少なくないと思います。
ツタンカーメンの呪い」香港のドミトリーで出会ったアメリカ人ホステスからツタンカーメンのミステリーのペーパーバックをもらったことから、南米行きをやめてエジプトに行く話。中華料理の修業を二年間したのにすっぱりやめてバックパッカーに戻るくだりがさらっと書かれます。私は一ヶ月だけタイ料理店で働いたことがありますが、カオマンガーイが海南鶏飯だとか、ガーイパットメットマムアンヒマパンが宮保鶏定(鶏肉とカシューナッツの炒め)だとか、そういう中華っぽさを分かってしまう自分に気づき、辛くないタイ料理を所望する客にはどうしてもタイ風中華料理を勧めることになるアホさ加減にだんだん当惑してきて、自分が引き裂かれるような感じになって、中華に戻ったです。空芯菜炒めとクレソン炒めだけで金はとれないとか、現地屋台料理とタイスキの違い(その店にタイスキはありませんでしたが)にも頭クルクルしましたが、それは青かったせい。

香港で再会したホステスが人生に疲れていたのは、理解出来ます。デラシネがずっと続けられると思うのは、錯覚。

スリの仁義」カイロでスリに遭う話。ヨーロッパで金を稼いで旅を続けるくらいなら、日本に帰って金を作る、という発想がバブル前夜。欧州のほうが金が稼げる(特に北欧)という時代を、1973年に旅行を始めた作者は知っていて、しかしこの話の時点では日本も好景気という変遷を、作者は書きながらまだ理解出来てなかったと思いました。

カイロの中華料理店で働いて金をためようと決意するのですが、これは、中国人が海外渡航バンバン出来なかった時代、同じような顔のアジア人ということで、日本人旅行者が現地華人になまあたたく受け入れられてた時代の描写だと思います。当時は南京アトロシティーなどの政治も、比較的オブラートに包まれてた。今はもう中国と言えばアフリカ、アフリカと言えば中国、そして中国人の黒人蔑視というくらい21世紀な一路一帯時代。
大衆食堂「銭箱軒」」ナイロビの話。自己責任。
キムチシャワーにようこそ」お皿をたくさん並べる料理形式は、ソウル五輪をさかいに激減したとありますが、私は体験したことあり、こういうのが旅行者の悪い意味での体験主観主義ともいうべきものだと思ってます。こんなことでよくウマが合わない旅行者同士は口論になる。作者はそういうところにいないので、長く旅が続けられるのかもしれない。グレゴリ青山の『旅のグ』に出てくる、猫田ナントカをボロクソに言う人に会ったことあります。

この話は、日本語で日本人に話しかけてくる韓国人(元在日含む)のテンドンで成立しています。チャン・リュル監督「福岡」もう一般公開されたでしょうか。
御招待はつらいものバックパッカービルマ旅行は、滞在費を密貿易(闇で持ち込んだ品物を現地でさばく)でひねり出すという話は、確かに聞いたことがあるのですが、これ読むまで忘れてました。そういう意味では、記録が残っていてヨカッタデスネと。作者は中国にも北朝鮮にも行きませんが、ミャンマーには行ったんだなと(ビルマ時代)旅行者は、その国のマイノリティーと袖すりあうことが多い、という事実を裏付けするように、印僑ムスリムとばっか話してます。
氷のかけらインドネシアとタイでかき氷を食べる話。生水で腹壊すだろと読んでて思う人は、ビュアを振りかけて食べたんじゃねーのと思えばよいかと。作り方の時代変遷がざっくり書いてあります。
3泊4日遅延の旅」飛行機トラブルでドンムアンとおぼしき空港に足止めくらい、フィリピン人宣教師と雑談する話。作者の英語力はどのくらいだろうと訝しむ向きを殲滅するために、ナイジェリアの作家チアヌ・アチュベの「シングズ・フォール・アパート」ケニアの作家ングギ・ワ・ジオンゴの「ホーム・カミング」「ザ・リバー・ビトウィーン」などの名前がすらすら出ます。ただの旅行者じゃないお、インテリ旅行者だおって感じ。

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

 

ライフ・イズ・ハード」「故郷を去る娘に贈る1本の餞」フィリピンの話。行ったことがないので、なんとも。出稼ぎ哀歌みたいな話で、今でも構造は変わってないと思われます。でも日比混血の力士が活躍する時代までは予想してなかったと思います。それでいい。
そして、旅はまだ続く」後日談。昔はトムヤムラーメンのティーヌンに、バミーもセンミーもセンレックもあったのですが、誰も注文しなかったのでなくなったはず。高田馬場時代。

 以上