『京都・六曜社三代記 喫茶の一族』読了

 その辺にあった本。京都の有名どころ喫茶店では唯一よく利用した六曜社の本なので読みました。とにかく便がいい。

京都・六曜社三代記 喫茶の一族

京都・六曜社三代記 喫茶の一族

  • 発売日: 2020/08/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 ふしぎな本で、表紙にも背表紙にも中表紙にも執筆者の名前を入れてません。版元の京阪神エルマガジン社は、以前、在日コリアンのライターの方が新華僑の店を取材した本を読んで、間違いではないけれど、書いてないことも書かないとほんとのことではないわなあ、と思ったことがあり、本書は誰が書いたんだろうと、記載がないので逆に気になりました。

京都新聞文化部編集委員の方が取材と文を担当されていると目次の次のページにあって、奥付に略歴が載ってました。なんで表紙に名前を出してないのかは分かりません。2015年夏から京都新聞で「六曜社物語 ちいさな喫茶店の戦後70年」を執筆したそうで、しかしそれが本書のもとになったのかどうかは明記してません。これが、あらゆることに明言を避け、隠喩を使う京都式なのか。姐ちゃん姐ちゃん、ぶぶづけしばきにいかへんけ? 下は「THE KYOTO」の著者ページ。

THE KYOTO

イラストは北林研二という人。表紙のイラストは頁46のものをそのまま使いまわしていて、表紙だけ見るとシンプルですが、じっさいの各イラストは、毎回、本文の印象的な一節をわざわざ手書きで添えていて、ちょっとウザイかなと思いました。写真 小檜山貴裕 ブックデザイン 横須賀 拓 構成 編集部 

読んだのは初版と同月月末の二刷。図書館でもう次の予約が入っていて、流石一等地の喫茶店知名度はグンバツだと思いました。ほんとうにこの店は便がいいです。このあたりで人と待ち合わせをしたい、ひとごみに酔ったのでどこかで腰を下ろしたい、と思った時にうってつけ。それだけに、この立地で喫茶店は大変だろうなあ、何か秘訣があるんだろうなあ、京都やし、知りたいわあ、というのがこれを読む動機のひとつかと。私はこのあたりの道路の反対側の、今でもあるか知りませんが、パチ屋のあたりで、覚醒剤売ってる人と思われて(飲食業の休憩時間なので、黒ズボンに白ワイシャツで自転車乗ってた)覚醒剤売ってくれと言われ、ちゃいます、知らんというと、目の前の歩道に自分の帽子を叩きつけて、そうかいそうかい大阪もんには売らんいうねんな、京都人は冷たいのー、と啖呵切られたことがあります。毎回鴨川でおこもさんがシケモク吸うのに火ィ貸してくれ言われたら貸してあげてたのに、そらないわと思いました。兄ちゃん兄ちゃん、一本恵んでくれへんかにも対応しとったのになぁ。

私が行ってた、京大医学部のあたりの喫茶店はまだあるようなのが今ストリートビューで確認出来まして、高野のミスドもまだあるのかな。上七軒の、フランソワ的な喫茶店が今でもあるのかは探してません。町家カフェは行ったこともないし、本書にもたぶん出ません。結論を急ぐと、六曜社存続は、創業者が副業で不動産仲介業を営んでいて、そっちで益を出してたのでよかったとのこと。不動産鑑定士の資格もいつの間にか取っていたとか。私は一軒家のころは知りませんで、だいいち、階がちがうと別と云うのもよく把握していなかった。賃貸だったそうで、創業者のプールしたお金が尽きて、賃貸からビルを買い取ってというくだりで本書は終わっています。

京都も喫茶店はなくなってるのはなくなってるのも承知してるつもりで、ブラック企業で働いてた頃持ち帰った仕事を土曜日家で片付ける気にならず、近くの喫茶店で電卓叩いてたら、煩くて耳障りだったらしく、一時間経ったころからすぐそばを分かりやすくホウキで掃きだして、ずっと掃いてたのですが、こちらも神経が摩耗していたので、一段落つくまで帳簿をつけ続け、一時間半か二時間で店を出て、たぶんその後塩をまかれたと思うのですが、その店も十年以上前に行った時見たらなかったです。彷書月刊に店主が連載してるような古書店の近くだった。

創業者は満洲帰りだそうで、でも西陣のええ家の次男坊だったそうで、その辺の嗅覚というか、経営者としての生まれ備わった、自然身についた才覚は並じゃなかったのかなと思いました。奥さんは関東人だそうで、満洲で事務職やってて、敗戦後、ドサクサで入手したコーヒー豆で満州で喫茶店始めるあたりでひっかけられています。在満七年くらいのご主人が中国語ぺらぺらだったというのは、在満邦人社会で中国語を覚えずともよかった奥さんの目から見ると、ということだったと思います。当時は、中国人並みに中国語ぺらぺらの日本人がやたらいた時代だったそうですが、そういう人はなべて大陸育ちなので、西陣のぼんがなんぼ大陸行ったかて、七年やそこらでぺらぺらになれるもんやおへん。私のひがみですが。

関東人の男と京女は相性がよいなどとよく言われましたが、その逆のほうの成功例をほかにもタイレストランなどで見聞きしたので、逆ちゃうかなと思ってます。京の一見遊び人のだんはんと関東の骨のある女性の組み合わせ。敗戦後の大陸の描写で、北韓藤原てい流れる星は生きていると同じところにいたらしく、そっちから引用もされてますが、証言等が同じだったから引用したわけでもないです。ここは珍しい文章引用で、だいたいは、註をつけて、巻末にまとめて出典を列記しています。ウィキペディアのようです。

第一部が創業編、第二部が名物の三男編。次男の人がまず店をてっとて、インタビューでも出て来るのですが、その後何してるかちゃんと読めてなくて、分かりません。三男編は京都の音楽好き、サブカル好きにとって資料価値が大きいのかもしれませんが、私は、頁72、高田渡が1969年前後、山科で暮らしてた頃は下戸だったというのが印象的でした。だからおかしな飲みかたになったのかも。この三男の人は上京して山谷に行ってどうこうなのですが、西成や尼崎ではあかんかったのか、そこは分かりませんでした。最近も私の地元の凶悪犯罪の裁判で、デパスハルシオンだという単語が出て、ヒッピー時代、関西はこういう、現在でいうところの処方箋藥が入手しやすく、それを大垣夜行でバーンと東京に持ってくと、価格格差で遊んで帰るくらいのお金は稼げたと聞いたことがあり、それとは関係ないだろうけどと思いました。横浜の寿にはいらしたかどうか書いてません。来てたような気もしますが。本牧にも足伸ばして。

頁120、今世紀に入って、経営が厳しくなった頃、「あと何年もつやろな」と創業者が言ってたというのが印象的でした。大坂都構想が敗れた後、ヤフーニュースのコメント欄を読み漁って、如何に218億のフェイクニュースによるハンマースレッジ作戦が効いたか(私も夕食時のNHKニュースでやったので、信じてて、勿論訂正されたことなど知りませんでした)それととともに、どう考えても裏技も寝技も多彩に見える松井市長が私心のない人などと言われるとしらけますし、魚心あれば水心でないと民都大阪の首長はつとめられないし、周りもついてこないと思ったのですが、維新で如何に大阪がよくなったか各所各所で絶賛されると、2009年にカガー在籍のセレッソベルマーレの試合観に行ったくらいから大坂行った記憶がないので、そんなによくなってるなら見てみたいと思いました。ブラックレインで松田優作がバイク走行した梅田とか、紀伊國屋が開店したというのが私にとっての大阪の変化で、あとは客がお好み焼きを焼かないぼてじゅうがあるのが大阪のすごいところで(お好み定食含め)それからサウナ料金をとらないのが大坂銭湯の当たり前でしたので、それは関東のようにややこしくなくていいですな、と思ってます。なおみをよく打ち込むので、変換が、大坂になったり大阪になったりします。話がそれましたが、京都都構想で再戦したらいいと思います。ガキ帝国がパッチギ!になったように。きょう、ととさま。

第三部は創業者のお孫さんで、再生事業編。第二部の三男長男さんもそうですが、ちゃんとヨソで修行してきやはるところがあたりまえのスタンダードで、よろしいなと。頁163で、有能な女性スタッフをよそから引き抜く際に、固定給16万を約束したというのが、これが手取りであるなら、私も京都や地元で、しょっちゅうそんな値段で働いてましたので、わかるけどもえげつないなと思いました。ゴハンは一度に炊いて小分けしてラッピングして冷凍して、レンジでチンして食べるとか、そういうひとり暮らし女性たちのつましい生活の知恵の上に、外食産業は成り立ってる気がします。そうして気が付くと、年をとって、若くして抜擢されたチーフにイケズされて泣いて店をやめたりとか。某ホテルの改変で、あからさまにそういうのを見て、私はこの業界無理だと思いました。

一等地で味もサービスもお値段も充実した喫茶店を維持し続けるコツは副業で稼ぐこと、みたいに言い切ってしまうとせんないし、あれやこれや手ェ出したらあかん、みたいな法則もあるのですが、前世紀だいぶ前、京都駅で時間があまったのでお茶しようということになった時、ホテルの喫茶室で一杯千円のコーヒーでサクッと時間を消費されたことが対比として思い起こされ、一杯五百円で至福の時間を過ごすこともあれば、一杯千円で時間を金で買ったとしかいいようのない時間を過ごすこともある、要は納得するかどうかだし、選択の余地がない時は仕方なので仕方ない、と思いました。こういう喫茶店があるのはうれしいですが、その一方で、耳塚のあたりの、店内禁煙の喫茶店で、缶コーヒーがあるから喫茶店が流行らなくなったとくどくど愚痴を聞かされ、五時くらいに、六時くらいに待ち合わせなのでそれまで粘らないとマズかったのですが、喫茶店だけで食ってけないので夜店を開けに行くので、もう出てってんかとおっぽり出されたようなこともあったので、変な思い出もあとで楽しめればそれでよいと思います。以上