台湾の学生運動のフィルムより、こっちが面白いかなと、事前段階では思ってました。しかし。
日本の公式はむちゃくちゃ凝っていて、絵がいっぱいあってキレイです。
これだけ見ると、主人公かなと思ったのですが、主人公のツレのほんこん人でした。
中文版しかないウィキペディアで、よう知らん単語がぽんぽん出て来るのを、公式で、片っ端から東大教授の香港専門家がバシバシ解説している、ような気がします。ここで予習してしまったので、リリー・フランキーみたいな父親が、解説では〈包二奶〉私の理解では「一国二両妻」であることは理解しました。東大の先生の解説者は人格者で性善説なのか、映画のつじつまの合わない点(香港のトラックの運転手が深圳の愛人に高級マンションをあてがえるものなのか、など)も好意的に解釈していて、実は監督はそういう同性に憎しみを抱くタイプかもしれない、と思いました。このリリー・フランキーみたいな父親など、香港の役者さんは、エンドロールで、なべて広東語のアルファベット表記で、このパパは、廖启(啟)智を、"LIU KAI CHI"と書いていてます。北京語のピンインの"LIAO QIZHI"ではない。しかしもちろん香港人なので、イングリッシュネームを持っているわけなので、この人の場合、"Dick Liu"だそうですが、そう書かないのも、細かいところを詰めていって、ある日何かが変わっていることに気づく一例になるのかもしれないです。香港の行政長官、林郑月娥を「キャリー・ラム」と呼び続ける痛快!布マスク新聞が、"Lam Zeng Jyut ngo"に舵を切ったら、それは鉱山のカナリアがそうしたということで。
〈包二奶〉を検索すると、何故か下記の日本語ウィキペディアが出ます。
どうもこの映画は台湾で公開してないようで、それだからこの感想文における原題は、簡体字のみにします。香港だから繁体字もありなはずですが、どうもなんかびみょう。欧米も、トロント映画祭のみみたいだし。コロナの前なんですけどね、公開。下記の英語字幕トレーラーには、イギリスも昨年三月公開とあるのですが。
百度にあった煽り。豆瓣で8.0がつくとそんなにすごいんでしょうか。現在は7.7です。というかこの画面の右、“狗日的国产青春电影越来越好”と自虐的に書いてあるのが可笑的了。私がこの映画を見た感触では、"狗日的大陆青春电影越来越狗屎,热狗イイガウ!!!"てな感じです。公共秩序的、公序良俗的に、オチはこうしかつけられないのは分かりますが、押し付けられる観客がそれでもいつも金払ってくれると思うなよ、てな感じ。ホワウェイやシャオミーが頑張らないから主人公がスマホを落としただけなのに… になってしまう、いやちがう。そのiPhoneは運び屋である彼女の「ブツ」なので、落として液晶画面割ってしまうような粗忽ものの水貨客はいらんねや、みたいな。ここがいちばん盛り上がったです。しかし洞窟の個所など、誰が見ても、検閲でバッサリカットされた部分をなんとかごまかして話をつなげず、そのままつながらない話をぽんと観客の前に投げ出してるように見えるので、この監督、ギャンブラーだなと思いました。
トレーラーを見てたら、いつか一緒に日本に雪を見に行こうねって約束してた親友に、字幕では、あんたなんか母親と同じバイタ、でしたが、音声は、例の、ホウシャオシエンの悲情城市で、ジャッキーチェンのプロジェクトAなんかで名脇役やってた人が演じる、広東語が出来る台湾ヤクザが、便所でこれまた広東語が出来る上海ヤクザに、〈仆街〉とのたまいながら相手の首すじを撫でたその次のカットでいきなり刺殺される、あの言葉で罵られていて、いやこれJKに言わせるあたり、監督腹黒いと思いました。
監督が、顔出しはしてるものの、名前はモチロン芸名というか本名ではないでしょうが、出身地をぼかしていて、百度に「西北」とあるのみで、そしてそのソースはリンク切れしてます。ウィキペディアに項目はありません。三歳から深圳に移ってそこで育ったというから、監督にとって、故郷にあまり意味はないのかもしれません。深圳は広東であって広東でない、普通話だけの移民の町。东莞なんかもそういうところですが、深圳はもう出稼ぎ地区ではない、コングロマリットの本社機能が集中する町。中国嫁日記のゲツも、ふるさとは瀋陽なんだけど結婚前に住んでたのは深圳だったはずでした、そういえば。
話を戻すと、監督は北京の中央戯劇学院に進学してるので、エリートです。地球最後の晩のビーガン監督が、貴州出身で、山西省の専門学校からのしてきたのが、如何に中国では異例のことだったか、改めて思う。
監督の、うしろだての田荘荘はなつかしいような、なつかしくないような。この映画は、みんなタバコ吸うので、珍しい気もします。足がつかない現金商売ということで、スマホ決済、刷卡の場面は一切ありません。そして、ブラックライトで偽札かどうか調べるような場面も、一切ない。
山の上からの場面は、香港映画「十年」と同じ場所のような気もしますが、日を選べなくて、曇ってたりもやがかかってたりで、その辺、香港に不案内な監督がスタッフに翻弄されてるようにも見えます。
同級生に、ひとり、ヒジャブの子がいるのですが(シャブの子ではない)、香港土着のインド系ではなく、マレーシアかインドネシアの顔つきです。この辺も、監督が細かく取材してると本人としては声高に強調せざるをえない、底の浅さと指摘されてしまいそうな考証のアラだと思います。香港は大陸と違って西洋人やインド系が市民権を持って暮らしてる、という知識はあっても、インド系とマレー人の外見の違いが分からないのかな、と突っ込まれるスキがある。「西北」なら回族と呉越同舟のはずですが、毛沢東の第三線で移住されられたインテリだったりすると、地元民と深く交流しないので、出身の詳細をホント、知りたいところです。キンペーチャンは、地元民と深く交流しないうわべの西北漢族知識人、嫌いだと思う。平遥ナントカ賞を獲ったそうですが、平遥は山西ですから西北ではない。
サメのイレズミが稚拙で、ガキが自分で入れるタイプだと思いました。タムブンの場面は、香港らしい場面。主人公は16歳には見えなくて、ニキビが出た状態で撮影してるので、ニキビに助けられてると思います。広東語の会話にプートンホワの「シェンフェンジョン」が入るのは面白かったですが、身分証と顔が違う、整形したのかと聞く場面も、監督の主役いじりの一環かと。24歳で16歳を演じる演じない以前に、JKというより、ワンビンの打工ドキュメンタリー「苦い銭」に出て来そうな女の子なので、例の、風呂に入ってるはずなのに、妙にテカって汗のにおいとニンニクと、という肌とか、もろもろのテイストが、主人公に感情移入させなかったです。女性の観客ならどうだろう。制服と顔のアンマッチがすごかった。もちろんプロモーション等の女優画像はちがうふいんきですので、そういうメイクを課したわけですが。
福島香織『中国の女』に、ホストクラブの章があるのですが、あっちのホストは、えらそうに自慢話するだけで女性にかしづいたりぬかづいたりしないのに、ホストにはまった打工女性たちが勝手に貢いでるので、福島香織は、あんたバカぁ?の心境だったそうで、それとこの映画のヒロインと彼氏の関係が、クリソツです。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
監督はチャウ・シンチーの「食神」だけ広東語で見たのかなあ、とふと思うくらい、「ホウホウメイ(好好味?)」とか「ソイグワイ(西瓜)」などのことばが飛び出し、あまつさえJKにこの乾杯をさせています。
そのふたりがその後憎しみ合うのもむべなるかな。「男朋友」ナンポンヨウがそのまま広東語になって、ニーハオがレイホウになるわけですので、ランパンヤオになってましたが、そもそも「男朋友」なんて言葉香港人が使うのかと思いました。最初の学校の場面でも、遅刻は迟到で、広東語だと「チードゥー」みたいな発音だったのは、コンフィデンスマン.JPロマンス編で三浦春馬もそんな広東語言ってたのを思い出しますが(東出昌大だったかもしれない)、その後、排队と言ってたのが北京語な感じで、そういうのいちいち分かる台湾で公開しないのもそりゃそうかもねと思いました。
ニキビのほっぺは反対側です。監督は、ツルツルの壁を鏡に見たてた演出が好きみたいで、よく使ってますが、何の意味があるのかと思いました。不用意に使われても効果はない。この、ヒロインのツレのジョーは、監督も香港人のツレがいてコンプレックスがあったのか、かなり無理のある設定で、なんで単非の主人公とつるんでるのか、主人公が金がないことなんで知らないのか、そも自分の彼氏が、ネタバレですが、主人公云うところの「屋台のソバ売り」なのを知らないのは何故か、さっぱりさっぱりです。近隣の同じ境遇階層の同年代に、同じように学校さぼって遊んでくれる連中がいないのか。
この映画はここの協力で作ったとか。一時間半の短めの尺なのには助けられましたが、こういう登竜門的なワクだったからなのかな。フォン・シャオガン、ジャ・ジャンクーが主席を務めたあと、残念なことにちんちんまたおでなく、北京五輪CG花火監督チャン・イーモウが主席を簒奪し、実権を握ったそうです。白雪姫はその後の援助。
で、ワンダー集団の映画部門が出資してこの映画が完成され、映画の中で、ヒロインの母親が、最初フランス語かと思ったのですが、スペイン語をしゃべり、スペイン移住の夢を娘に語る場面があり、ワンダーといえば大連万達、大連万達といえばハオ・ハイドン。漢字で書くと赫海東。ハオ・ハイドンといえばスペインに移住したのち、今年か去年から、公然と中国の人権批判などを始めて、中国本土ではそれに対し、彼のかつての代表経歴やらなにやら、一切合切をブラックボックス化、抹殺してなかったことにしようとしてるのかしてないのか、みたいな感じで、かつてのトルコ代表ハカン・シュキルがアメリカでウーバーイーツの配達員やりながらトルコの人権問題を批判してるのと並ぶ、五十代の元代表はときどきヤバい、の代表的存在なので、それを連想させたのが、この映画の唯一か唯二の、ナイスなポイントです。
思うに、iPhone密輸問題もそれなりだったかしれませんが、監督の故郷深圳のほうが、ヤバめの問題いくらでもありそうで、越境入学をテーマにするなら、監督のおひざ元に暮らすアフリカ黒人たちの子どもがどこの学校行ってるか、どこにも行ってないのか、中国の学校行ってないなら何故か、それを監督の次回作にしてみたら? と思いました。
厚木のこれからのラインナップに、当然のように入ってるこの二作。いいのか、よくないのか、私はやっぱり見てしまうのか。さて。
以上