「ラモとガベ(原題)」<日本プレミア上映>ལྷ་མོ་དང་སྐལ་བྷེ 〈拉姆与嘎贝〉"Lhamo and Skalbe"(映画で見る現代チベット チベット映画特集)劇場鑑賞

f:id:stantsiya_iriya:20210320120021j:plain

原題がカタカナとひらがなってわけではないです。この映画はタイトルロールに明確に漢語文が併記されてるので、この日記でもそれを踏襲しました。〈嘎〉という、チベット人の名前にまあまあ使われる字をこの日記にも出しておきたかった、てのもあります。日本版のポスターはまだなくて、あちらのポスターは、画像検索の範囲では下記のみでした。はてな技法が使えないので、右側の余白がもったいないです。

《拉姆与嘎贝》亮相平遥国际电影展 首映获赞一票难求_腾讯新闻

https://inews.gtimg.com/newsapp_bt/0/10540291280/1000

画像が消えた時のためにメモしておくと、上のポスターは草原のふたり。

Lhamo and Skalbe (2019) - IMDb

https://m.media-amazon.com/images/M/MV5BZTA0NGI0NDMtYjQxNy00YmM0LWEwNzktYTU2OGU2YTIwOTdjXkEyXkFqcGdeQXVyNzc5MjQ2MTQ@._V1_UX182_CR0,0,182,268_AL_.jpg

ケサル王の劇のお面(悪事を裁く人?)が右にあって、裁かれるおきさきのカッコしたラモが左、中央遠くにガベがしょんぼり心配そうに立ってます。

Lhamo and Skalbe fail to register their marriage because Skalbe is already engaged in a legal conjugal relationship. Skalbe embarks on a journey to search for his so-called ex-wife Tsoyag.

《拉姆与嘎贝》-高清电影-完整版在线观看

https://img02.sogoucdn.com/v2/thumb/resize/w/258/h/360/t/0/retype/ext/auto/q/75?appid=200839&url=http%3A%2F%2Fimg04.sogoucdn.com%2Fapp%2Fa%2F100520052%2F173a122939a73bdd106e04f70da9f357

これはちょっとよく分からない、ラマ教(棒)の尼僧?が叩頭跪拝する台の前に、足を縛られている、その下半身の写真がポスター。

拉姆与嘎贝去登记结婚,才发现嘎贝昔日未成的婚事,在法律上仍未失效。嘎贝踏上寻找“前妻”措雅的旅程,惊讶得知她四年前失约悔婚时便已遁入空门。当措雅的宗教身份为离婚带来了重重阻碍,拉姆对嘎贝亦若即若离。她正参与排练、筹备春节上演的藏戏,拉姆将在《格萨尔王传》的选段中,饰演主角阿达拉姆——一个因罪业深重堕入地狱的女人。她对角色心生抵触,对婚姻揣有恐惧,同嘎贝一样,她也藏有未经揭晓的往事……  

 上の英文と中文をグーグルで邦訳したほうが、ウィキペディア(漢語版)よりストーリーが分かりますが、よく考えたら、岩波ホールほかの邦文に書いてあるあらすじと同じでした。

拉姆与嘎贝 - 维基百科,自由的百科全书

映画で見る現代チベット チベット映画特集 | 岩波ホール

ソンタルジャ監督が、東チベットで生まれた世界最長の英雄叙事詩「ケサル大王」の物語に若い男女の運命を重ねて描いた意欲的な最新作。ラモとガベが婚姻届を出しに行くと、ガベが以前の妻とまだ離婚が成立していないことがわかる。ガベはラモと結婚するために元妻を探すが、元妻はすでに出家していた。一方、ラモには大きな秘密があった……。 

婚姻届を出しに行って初めて、自分が誰かの伴侶として登記されてるのが分かるとか、そんなバカなことがあるか、と思うかもしれませんが、それがあったりするから映画になるという。ラモの場合は、もっと分かりやすいです。ヒント:一人っ子政策。あと、人の口に戸は立てられないので、狭いムラ社会に噂の伝わるのが早いのは、チベットであってもおんなしデスヨ、という。

拉姆与嘎贝_百度百科

主以讲述主人公漂亮的拉姆在感情上遭遇过挫折,对婚恋格外慎重,但“尴尬人”偏逢“尴尬事”,追求者嘎贝的已婚身份再度让拉姆陷入羞愤的泥潭的故事。

(略) 

松太加说,“为此我很想探讨个体面对现实时的爱情与婚姻价值观,以及人性在灰暗时期的温暖光亮、窘迫与无奈"。

百度が、ガンガー、ガンガー言ってるその「ガー」が〈嘎〉とカブると思ってください。勿論アベガーとは無関係。

baike.baidu.com

《水浒传》第十回:“却才有个 东京 来的尴尬人,在我这里请管营、差拨吃了半日酒。”

 そんな映画です。邦題が「(原題)」のままなのは、エンドロールの、鳴いて謝れコーナーのトップにジャジャンクーの名前があるので、これもまた、「◯◯なふたり」的邦題にしたい的野望を持った配給スタッフがいるからかもしれません。

最初の、映画会社の名前が、ガルーダだったり美麟だったり太陽部落だったりするのもよかったです。何がどういいのか聞かれても困りますが…

グサル王伝説をモチーフにした芝居を、村のチベット正月の余興に、芸達者な村人たちが選抜されて演じるわけですが(一部の花形役者はどっかよそから金出して呼んでくる)半農半牧地帯であっても冬は農閑期なのだろうかと思いました。まあ、農閑期なんだろう。同徳(チベット語の地名も当然あるでしょうが、知りません)がロケ地みたいで、冬はもっと寒いだろうに、みんな意外と薄着に見えて、なんでだろと思いました。地球温暖化? さほど寒くない時期に旧正月という設定でロケ? でも地面凍ってるし… 雪が舞うのはご愛嬌。もちろん岩波ホールなので、岩波文庫のケサル王伝説も売られてました。欧州の抄訳の邦訳でしょうか、大菩薩峠や大正新修大蔵経以上に長いはずなので、一冊しかないのならそれは忙しい現代人に忖度した抄訳でしょうと。それでも、岩波文庫になってるの知りませんでした。

 電子版はないみたいです。

今回の一連のアムド映画のうち、シネスイッチザギンの《气球》は、「マレ」「チェズレ」映画で、《老狗》は「ジョ」(行こう)映画。タルロは卡拉OKドヘタ映画で、この映画は、なんというか、デモイン映画というか、デモイナ映画。チョデモイナ。

元気ですか、チク、ニ、スム、ダーッ。

ラサでもチョデモとか言いますか、と、わざわざ質問しにチベットレストランまで行って聞くと、チョデモはアムドだそうです。都営新宿線で神保町から一本なので、映画で分からないところはみんな聞きに行けばいいのに、もったいない(むかしはカワチェンが早稲田に店舗構えてたので、聞くところも複数ありましたが、今はほかはどうなんだろう。リモート、SNSで訊けばよいので、音波で聞く必要もあまりないかもしれませんが)

ガベは、若いからか、右肩出しの着こなしもあまりしないのですが、それでも歩き方は、あの筒袖をぶらーんぶらーんする前提の、からだを左右に揺らす歩き方で、三つ子の魂百までと思いました。ラモのおとうとはジャシという名前で字幕が入ってるのですが、ラサやダラムサラならタシになるだろうし、アムドデターと思いました。「巡礼の約束」で、ギャロンのウォマみたいなすごい芸が出つつ、ザシダワがタシダワになった多様かつ豊饒なチベット語路線をさらに追求。ここで「追求」をジュイチュウと北京語で読んだらダメです。

なんというかなあ、なついてるし、「そして父になる」みたいな展開がこの映画のあとあってもいいんじゃいかと思いました。前作が、懐かれないステップな父親と、たどうせ…だか自閉症?だかの息子の物語でもあったので、本作は、悩め悩めば悩むときですが、案ずるより産むがやすしですよと思いました。二股とかよりいいはず。期せずして晩婚になってるというせりふの暗示もよかった。漢族にくらべて性に開放的なチベットだからこそ、こういう悩みもあるのかなという。能天気なラテン気質のイタリア人がモラヴィアみたいな陰々欝々文学を生むようなものかと。

尼寺は、分かりやすくタール寺ロケだろうかと思いました。あんな、ペンペン草はえないくらい完全破壊そして再建、と、分かりやすく物語る名刹はなかなかないような。クムブムモナストリー。冬に、たまさかのやわらかい太陽のひざしに恵まれた、ミルクの日の絵がよかったです。ああいう日差しはむかしは北京の胡同にもあったはずですが、大気汚染はコワイデスネ。

f:id:stantsiya_iriya:20210320120007j:plain

草原の村が、忽然と出現した真新しい建築の集合住宅になって、学校もピカピカだったりするのは、『黒狐の谷』に出てくる、幸福生態移民村を、いいほうに作るとこうなるのかなと思いながら見ました。草競馬、赛马会を、父親は馬をいじめてからに、と怒りますが、ただの賭け事に堕してるからでしょうか。一般観客もいないし、イベント感がなかった。

漢語の会話は、書類偽造業者との会話のみ。偽造職人は、四川訛りだと思います。イークウェー、リャンクウェー。ウーシークウェーチェン。ちがうよ、という人がいるかもしれませんが、そういうことにして生きてゆきたいので、ほっといてください。ここ、公文書偽造をあっけらかんと描いて検閲でカットされて、未回収されない伏線になるんじゃいかと心配しましたが、同じ少数民族の官が有休までとって民のために動いてくれて魚心水心の展開になった後、ちゃんと伏線回収されたので、よかったと思いました。

f:id:stantsiya_iriya:20210320120223j:plain

歴史の浅いチベット映画は、アムドで数少ない高等教育の場で出合った俊才数人で勃興してる奇蹟だと、トークで語られてましたが、ラサの高等教育機関が暴動その他で長く閉鎖されてる状態が続き、四川や北京では少数民族が圧倒的多数の漢族に埋没してしまう「アムド以外の条件」ももちろんあったと思います。ただそれで、才気煥発な数人がいずれも才能を開花出来たわけでもないので、本人たち(複数)の努力と、彼らの言い方を借りる?と、仏縁があったのでしょうね、と思いました。自覚的に、このまま伸びていってほしいと思います。

f:id:stantsiya_iriya:20210327200654j:plain

以上