初恋 (早稲田大学出版部): 1994|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
ファンファン大佐の『落日』を読んだので(感想は書けてません)武漢を代表する女流作家として、池莉子のほうも読もうと思って借りました。京都の下京区図書館で一度読んでるのですが、そうとう忘れてるので、「再読」とはしないでおきます。
「私とあなたは同時代人 ―日本の若き友へ」という本人の序文があり、1989年発表でしょうか、《勇者如斯》邦題『初恋』と、1990年発表なのかな、《太阳出生》"The Sun was born"『太陽誕生』、それから、訳者による解説という構成になっています。
《勇者如斯》『初恋』
文革末期の下放青年たち五人と、指導にあたる生産大隊民兵中隊長との、心温まるような、どうでもいいような交流の記録みたいな小説です。今読むと、こんなに甘くてインカ帝国な感じがします。文革世代は中国のロスジェネ、所謂傷痕文学というような言い方に対し、習近平指導部のような人たちを見てると、違うのはないかという想いが、ないこともないからです。
東ドイツで、みんなが被害者のわけないのに、加害者側のシュタージが、私も被害者ですヅラして、刺したら報復すんでみたいな睨みを効かしながら市井に溶け込んで暮らしてるみたいに、紅衛兵も、利用されたとかのちに市民兵同士の深刻な内戦状態になったとか、下放されて農村で苦しかったとか、そういう被害者ヅラだけでなく、前期には文化人をガルウィングにして吊し上げてた加害者の面もあるわけなので、「あの時代はみんなが苦労した、みんなが被害者だった」みたいな言質で、のうのうと何の咎もおわず生きてる人もいるんでない、みたいなことを考えました。この小説にも、七年も下放を続ける、ヒゲにボタンが一個もないコートにロンゲの、元紅衛兵が登場し、おまいは韓国映画の鯨とりか、と言いたくなりました。一億総ざんげは思考停止という考えに賛成してしまうと、なかなかここはやさしく読めないです。
昔読んだ時はどうだったかな、有吉佐和子の中国レポートで彼女がレイチェル・カーソンの沈黙の春を中国人がどう思うか聞いて暖簾に腕押しだったのを、登場人物のひとりが急性農薬中毒に陥る場面で思い出したとか、そういう読み方だった気がします。
今回は、下放青年たちはすぐ村の鶏を盗んで食べてしまうとか、すぐサボるとか、そういう、村人が下放青年をイジめる逆の構図が目につきました。
頁105
欧光星は一つ飛び跳ね、「アアーーオイ、ヤークシ!」と叫んで、ウィグル族のように短いひげを左右に振りながら、活発でユーモラスなダンスを始めた。手拍子を高く響かせ、仲間たちに向かって頭を振ると、仲間たちは心得て朱仲賢を囲み、彼の拍子に合わせて踊り始めた。
「ヤークシ、ヤークシ、ヤクシー、ヤクシー、ラララララーー、隊長はほんとにヤークシ! アイ、ヤー、ヤークシ! ……」
マスターキートンの第一話でもキートンがウイグル人の長老に「ヤクシミシース」とあいさつしてますので、ウイグルの挨拶が「ヤクシ、ヤクシ」なのはわりと知られてると思います。
《太阳出生》"The Sun was born"『太陽誕生』
改革開放の時代に結婚し、妊娠が分かって、一度は中絶しようとするが、翻意して、子どもを産んで、育てる武漢の若いふたりの小説。国産の粉ミルクが飲めたものではなく英国製を大枚はたいて購入するとか、農村出の子守女を雇うとか、公園デビュー、ママ友など、現在につながるライフスタイルがもう見てとれます。それとは別に、世界の普遍的な事象として、子どもが生まれるまでのすったもんだを、当時京都でどう思いながら読んだか多少思い出して、脳がぼうっと痺れました。
頁155「万畝の畑には必ず一本の苗木」ということわざが登場します。主人公は一人っ子政策前なので五人も男兄弟がいるのですが、主人公以外息子を持てない定めと占いで出ている時に長男が言うせりふです。主人公は趙勝天、長男は趙勝才、姉が趙勝珠で、みな〈胜〉の字を共有しており、またコレが月に生むというつくりの簡体字という… ファンファン大佐の同時代小説でも、きょうだいが名前に同じ字をつけていて、そんな韓国の族譜みたいなことは、中国では絶滅したと思っていたので、武漢ではけっこうあることなんだなあと思いました。老人からはそういうしきたりを聞いたことがあったのですが、まさかほんとにあるとは。
中絶をすんでのところで取りやめる場面に、こう書かれています。
頁141
彼らは人生の最も重要なレッスンを学んだのだ。死ぬまでそれを学ばぬ人もたくさんいる。
私は中絶は自分の知る限りないのですが、学べなかったです。北京地壇医院。
頁133。主人公のきょうだいを生んだ母親は口の悪い人で、息子たちを「小雑種シャオザージョン」と呼んでいます。日本語でも同じ意味なのですがわざわざルビを振って中国語デスヨと強調したのは、差別用語のある日本とない中国の違いを忖度したからでしょう。映画「山の郵便配達」で、香川照之演じる「ヤーバ」という役が、〈哑巴〉つまり「おし」なのに、字幕等では「ヤーバ」という人名であるかのように押し通したことを思い出します。ここ、娘は「ドラ娘」と呼ばれていると訳されているのですが、原文が知りたいところです。「売女ばいた」はほかの場所に出るので、その単語でないことは確か。
この小説には、タチウオの料理がよく出て来ます。冷凍物が出回ってたからかな。頁209、〈酸辣菜〉に「ソアンラーツァイ」とルビを振っていて、サンラーでもスアンラーでもないので、新鮮でした。
池莉子の小説は、ほかに、『ションヤンの酒家』という邦題の小説が、映画化されて日本でも封切られたので(監督は「山の郵便配達」と同じひと)文庫本で読めました。原作は武漢で、映画は重慶に舞台を移してます。これ、刑務所のシャブ中の弟に、覚せい剤を充填したストローを突き刺したバナナを差し入れする場面があり、原文が知りたくて、わりと名の知れた出版社の選集と、そのへんの地方出版社のと二冊買ったら、後者ではぜんぶ削除されていて、中国の出版事情も、読んでみないと分からないところがあるなあと思ったです。この映画と小説に出てくるカモの首のコリコリした部分のアテは〈鴨脖子〉という名前で、事実上のチャイナタウン西川口や、横浜橋商店街で見かけましたが、武漢じたいが中国的にアレな時期もあったので、今でも売ってるか分かりません。ザギンの武漢料理店にはなかったと思います。
本書解説によると、池莉の初期の代表作は1982年《月兒好》『故郷の月』で、なんとなく中文をかじった人間なら名前だけは知っている1987年《烦恼人生》(何故か邦題が書いてないです。なやましい人生、かな)や、本書のような作品群から、《你是一条河》『あなたは河』《白云苍狗谣》『世の変転は常ならず』《预谋杀人》(計画殺人、かな?)《冷也好热也好活着就好》『寒くても暑くても生きてりゃいいさ』などを経て、下記のようになったそう。
頁230
「故郷の月」がいかに好ましくても、もう池莉はその世界には戻らない。彼女はもっと深く、きびしく現実を見つめる文学をまっすぐに目指しているようだ。
この本は1994年に出てるので、昨年緊急事態宣言前?に日本の漢語水平考試事務局が湖北省に送ったマスクの段ボールに貼った鑑真和尚の漢詩「山川異域 風月同天」を予知したわけではないと思いますが、ファンファン大佐はそのニュースに 感动、以上。で、ちりこはもう戻らない世界。ファンファン大佐は『落日』、ちりこは『太陽来了』。北島マヤと姫川亜弓。武漢の仮面。以上
【後報】
頁167など、赤ちゃんの体重を八斤と書いていて、四千グラムとはまた大きな赤ちゃんだな、そりゃ初産の妊婦が「誰かあたしを殺して—」と絶叫し続けるわけだと思いました。日本ではグラム以前、尺貫法で赤ちゃんの体重を計って、重い軽いと言ってたのでしょうか。どうも調べると、日本では体重を計り始めたのが明治時代かららしいのですが、最初からグラムであったわけもないので、どうなんだろうなあと、謎です。
あと、夜泣き防止に「天皇皇」という札を貼るといいそうで、手書きを手当たり次第百枚貼りまくる描写があります。
夜泣き治しの呪文 | アジアの街並-東南アジア旧市街・中国古鎮・日本昔町─川野明正の研究室
(2021/4/3)