カバーフォト=島田達彦 カバーデザイン=熊沢正人 カバー印刷=真生印刷株式会社 解説 結城信孝
男たちのら・ら・ば・い (徳間書店): 1999|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
74年8月号発表。角川文庫『咆哮は消えた』所収。
ウィキペディアにもいろいろこの人のバイオレンスに関する傾向が書かれています。
ハードロマン
主人公が拷問や陵辱を受ける展開も多く、後年には暴力や拷問が復讐や尋問の手段という枠を超え、男性が多数の女性を飼育したり、また
個人的な印象では、「濡れてないのに挿入」する場面が多かった気瓦斯。そういう人間関係を好んで描いてたのかなあ。
『蘭菊の狐』で神秘的で気高い美少女として描かれ、陵辱と暴力の嵐が吹き荒れる中で一人超然と不可触の存在だった主人公阿紫は、続編『襤褸の詩』では一転して悲惨な虜囚、奴隷の境涯に陥る。
西村寿行は、ガオツァンジェン主演のジュイブゥの原作者ですので、本書執筆陣の中では例外的に漢語のウィキペディアがあります。
西村的许多作品中充斥着暴力和色情描写,因此也颇受争议。
〈充斥〉という動詞は、「満ち溢れる、横溢する」と言った意味だそうで、ついつい私なんか、「斥」が「排斥」「斥候兵」の「斥」だもんで、あんましそういう意味に直感的にとれなかったりします。「交代」といっしょだ。
この小説は、なんで群狼が人を襲うのさ、というそもそも論に関し、三體ならぬ三村のひとり森村誠一が『野生の証明』冒頭で「粘菌でがす」と自然科学から説明しようとしたように、ちゃんと理由を以てストーリーを組み立てています。時代の特徴なのか。
で、私はこの小説のエロを読むまで、この作家さんを誤解してたと知りました。最近のゴルゴ13で、珍しくゴルゴが笑うシーンがあった光学迷彩の話同様、こういう女性がタイプだったのか。
頁368
三度目の縁談話があった。よその集落はこりごりだと思った鹿女だったが、ろくに相手をしかめもせずに承諾した。男なしではすごせなくなっていることを、鹿女は知った。黙って風呂敷包みを背負って出た。その夫は、こんどは、三年ももたなかった。鹿女は男を喰い殺すと評判がたった。もう誰も鹿さとは呼ばず、女をつけた。最初の頃の鹿女には薙刀の意味があったのだが、いまはゼツリンの意味にかわっていた。
鹿女は甘受した。運がなかった。三人の男に寿命がなかったのだといえばそれまでだが、自分の体の奥には業火に似た炎があることを鹿女は否定できなかった。鎮めるには男が必要だった。いやがる夫を押さえつけて目的を遂げることがしょっちゅうあった。体があるから、暴力でおどして炎を鎮めるときなど、夫を組みしいた自分の裸のたくましさに、(略)
貪欲さにおそれてか、子種は宿らなかった。(略)
鹿女はそれから三回嫁いで行き、戻ってきた。まるでピストン運動だった。早朝の庭で気合いをかけて薙刀を振るとき、斬れるなら自分の炎を斬りたいと思った。よくよく男運に見放されたというか、自分でも悪霊のたたりではあるまいかと思うことがあった。四十を過ぎていた。六度後家とひとびとは陰でいった。むかし、七度後家というのがあったという。 鹿女はあと一人に迫っていた。(略)
もう嫁ぐまいと鹿女は決心した。ようやく体の奥の深いところにある業火に衰えを感じていた。それに嫁げば七人目の男は必ず死ぬ。それは予感などというなまやさしいものではなかった。(略)
タイの小説『妻喰い男』の好敵手ですね。これですよこれ、と思いました。内田裕也が豊田商事をモデルに作った映画『コミック雑誌なんていらない!』で、金の延べ棒のパンフに自分の手を重ねて老人男性の手を愛撫する勧誘員が、「軽いでしょう。紙だからです」と云うような方向に持って行かず、群狼との対決の方向でケリをつけるところが、シブいです。こういう女性を描ける人とは思わなかった。本書いちばんの拾い物です。以上