『軍旗はためく下に』"Gunki hatameku moto ni" "Under the Flag of the Rising Sun" by Yuki Shoji 増補新版(中公文庫)読了

 読んだのは2020年中公文庫増補新版。2006年の中公文庫BIBLIO版に、1973年11月の作品集に書いた「著者ノート」と、1990年同新聞に書いた「自作再見」を収めたとの由。

 軍旗はためくしたに、だと思ってました。もとに、だったとは。

英題は、深作欣二の映画を第45回アカデミー賞外国語部門に出品したり、海外上映したりした時のもの。原題を「旭日旗」とせず「軍旗」としたのは、戦争という特殊状況下での人間心理を旧軍特有のものとせず、ある程度全人類的な極限行動として普遍化したかったんじゃいかなと推測しますので、英題もフラッグオブライジングサンにせず、ウォーフラッグとかミリタリーフラッグとかにすれば穏当なのになーと思いますが、それだとセンセーショナルにならないか(ならなくていいと作者は思ってる気瓦斯)

Under the Flag of the Rising Sun - Wikipedia

War flag - Wikipedia

カバーデザイン 山影麻奈 初出は中央公論1969年11月号~1970年4月号 単行本1970年7月刊 1973年9月文庫化 ほか作品集などに収められる。著者あとがきと、上記エッセー二点、五味川純平の解説と川村湊の『「軍旗」が燃やされるとき』という小文が収められています。私は、本書に出てくる五つの軍規違反のうち、敵前逃亡・奔敵と司令官逃避、敵前党与逃亡の違いが分からず、解説を読んで分かった気になって五分経つとまた分からなくなる、を繰り返してます。

敵前逃亡・奔敵、従軍免脱、司令官逃避、敵前党与逃亡、上官殺害。陸軍刑法上、死刑と定められた罪で戦地で裁かれ処刑された兵士たち。敗戦後二十余年を経て悲情の真相が語られる。戦争の理不尽を描いた直木賞受賞作に著者の自作再読エッセイを収録した増補版。

 著者の小説はけっこうニヒルなので、本書にもそういう要素を期待していたのですが、案外そうでもないかったです。あとがきで、「素材となった事件は存在するが、あくまでフィクションとして書いたので、誤解を避けるため架空の地名を随所に用いている」とありますが、ノンフィクション・ノベルとも言い難く、かといって完全な創作として起承転結の盛り上がりを作るでなく、フィクションなのに聞き語り、伝聞という形式を通してるので、取材者誰やねん、という感じでした。私の祖先も中国で掃討作戦に従事してたひとがいますが、飯盒を盗まれると生死に直結したと、死ぬまでその飯盒を持ってました。戦後は日中友好で何度か訪中してます。内蒙だったかな。かと思うと、ふつうの応召年齢には招集されなかった(その頃は谷間で平和だった?)世代の、所帯持ちの農家やらなんやらの長男ばかりを集めてみたが八王子で終戦解散、という部隊の、さらに病気除隊の人もいて、そんな人のとこにも名簿や同期会で暑い中ご足労される人がいて、でもこっぱずかしいのか、もうそういうのはいいと断ってました。

で、本書が盛り上がりに欠けると私が感じたのには、ひとつには、昭和二十七年の講和恩赦の折、結城サンが東京地検保護課というところで働いていた時に、明治二年軍法会議開設後終戦までの判決書約四万数件(支那事変以降が二万数千件)のうち、東京地検に集約されていた外地の判決書を通読しており、それを何かの折に中央公論塙嘉彦という編集者が本にしないかと訪ねてきて、当初は実戦経験のない自分には過ぎたタスクだと断っていたのが(末期に海軍に少年兵として志願して病気除隊)上位下達社会における冤罪、濡れ衣のケースなども、記しておかないといけないとの社会的義務感に駆られて書き進め乍ら、まあネタ元は機密ですから、どう書いたもんかと悩むところがあったと思います。軍法会議ものだったから遺族年金支給が出ないケースをひっくり返したい人は思惑があるし、人のせいにして死人に口なしで「戦争ではみんなが被害者だった」で口をぬぐっている生存者の成功者もいる。

頁211

——当時は大きな問題になったはずです。

——きみはいったい何を言いにきたのかね。

——何を言いにきたのでもありません。ご返事を伺いたかっただけです。

——帰りたまえ。二度と来てもらわんことにしよう。

 もうひとつは、けっきょくこれは加害者の手記であるということです。

頁9

(略)原稿は予期した以上に集りましたが、将校や下士官だった方たちの寄稿が多く、それも手柄話のようなものばかりで、部隊の大多数を占めていた兵隊の話が殆どといってもいいくらい欠けています。(略)

こういう出だしで始めていて、だから逆に蛮行や非道を集めてるのだろうなと、或る意味げんなりというか気を引き締めて読むのですが、慰安婦や略奪の際に女性を見つけた時の行動の記述もありますが、今、日本が被害者国からの告発文献で悩まされているレベルではありません。中帰聯やカッパブックス三光作戦と比較するようなレベルでもない。もっととても軽い。ということは、そういうことはなかったのかもしれません(棒 というか、「けっきょく戦争がいけなかった、戦争は人間を人間でなくしてしまう、戦争はいやだ」で終わる、反省してる加害者を調子に乗ってえんえん責めると、絶対どこかで逆切れというかネガポジ反転して、「そんなに俺だけが悪いのか、戦争だぞ!」になると思う。戦争の時は、国と国の関係が対等でないですけど、平和な時世の個人と個人の力量比べということになると、所属してる国の力はあんま関係ないですから、被害国のサディスト暴君パワハラ大好き人間が、加害国のいじめられっこをねちねちやれたりするわけです。本書は民間人への悪行の本ではなく、軍規違反の本で、日本の軍隊がホモソーシャルだった時代のものですから、おのずと21世紀的には限界が早く来ます。これからはやっぱり『戦争は女の顔をしていない』を読むべきかもしれません。

 ただ、私が読んでてニヒルだと思う結城サン節は本書でもそれなりに炸裂しています。第二話の従軍免脱は、徴兵忌避のため醤油を飲んだり右手の人差し指を切り落としたりする自傷行為の現地バージョンが罪になるわけですが、それを理由に即日銃殺される下士官は、血書で上官の不正腐敗を告発する兵士です。指切ってその血で告発文を書いたら、指切ってそのケガを理由に戦闘に参加しないつもりだらう、許さんみたくメチャクチャないいがかりつけられて、自傷による従軍忌避、戦闘拒否の軍罰を適用されてぬっころされてしまう。

第四話の敵前党与逃亡は、なんというか、命令拒否で部下ごと戦闘をサボタージュしたり、勝手に持ち場を離れて総員退却とか、そういう行動みたいで、これが実際に適用されるのは、難しかろうという刑です。隊内の実力者の言うことのほうをみんな聞きますし、そのほうが生き残る確率が高くなる。そうした軍曹レベルの古参を無視して戦争も作戦も出来ないことは後方の参謀連中もよく分かっている。なので適用はナカナカレアのはずです。この話で処刑される士官は、馬淵という、瀬戸大也の奥さんと同じ苗字の人ですが、伝聞でしか登場せず、容姿も性格も、語る人によってコロコロ変わります。ゴドーを待ちながらというか、黒石島殺人事件というか… そういう、一種不条理劇のような味わいを持つ話です。このふたつが、ニヒルと思いました。

第一話の敵前逃亡・奔敵は、北支の話ですが、ニューギニアの水木サンみたく現地に入り浸って逃げた兵隊の話。部隊内でうだつのあがらない、鉄拳制裁くらう常連みたいな人が、村の女性と手に手をとって手鍋さげてスチャラカホイ。そこにがきデカのこまわりくんみたいな憲兵が来て「死刑!」ズビシ。

第三話の司令官逃避はフィリピンの話。野火そのまんま。

第五話の上官殺害は、これはもう説明の余地なしというか。第四話と同じような南洋が舞台ですが、語るのは新潟のリゾート温泉で按摩を営む男。へりくだった問わず語りの音波と、ふてぶてしい内心の声が、交互に繰り返されます。ひとりではやれないので、部隊ぐるみ、みなで密談を重ねた上での行動です。だから軍法会議で裁かれるのも複数。だいたい死刑。マッカーサーが飛び石作戦で放棄した南洋のスキマ地帯、ニッチな空間で、豪州部隊が現地人ゲリラ部隊を組織して日本兵をおびやかすというおおまかな図式。

最初と次の話は、日中戦争が舞台ですので、読んでいて、フーンと思い、フィクションの体裁をとっているのが、惜しいとも思いました。北支と中支のちがいも実に鮮やかに書いてある。日本軍が点と線だけで支配していて、夜はベトコンならぬ八路(パーロ)の支配下になる黄土高原。対して、日本が進出する前に、戦わずして國府の「支那の弱卒」(本書にはその表現はありません。為念)が清野作戦で、村々を焦土にしてから退却する中支。でも架空の地名多用とあるとおり、保定が出てくるので河北省と思いきや戦後は重慶軍と一緒に八路と戦わされたという山西省の記述が出てきたり、語り部自身は撫順でなくシベリア抑留だったり。なんでここ架空なん、とガクッとなる箇所がやはり出ます。

頁17、高粱酎と書いてチャンチューと読む。チャンバなどと同じたぐいの造語。頁30、淫売と書いてマイビーと読むのは、賣屄。密淫売と書いてショートルビーと読むのは、最初めんくらいましたが、英語のショートとは関係なく、小偷儿屄。頁41、籠と書いてバイスケと読む。同、筕篖と書いてアンペラと読む。語源はポルトガル語もしくはマレー語だそうですが、筕を「あん」と読むのは、行灯(あんどん)と同じ、上海語経由かな、という。

アンペラの意味や使い方 Weblio辞書

Andon (manufacturing) - Wikipedia

行の呉語 (中国語)の発音

頁66、テッケツ(剔抉)「テッケツに出動する」など、使い方が、新鮮でした。が、徴発との違いが分かりませんでした。

剔抉とは - コトバンク

先生と書いてシーサンと至るところで読ませていて、これ、手塚治虫のマンガ(『きりひと讃歌』など)でもそう書いてるのですが、上海語なのだろうなという。

先生の呉語 (中国語)の発音

第二話、従軍免脱は、中支から後半インパール作戦になります。頁87に、内地から芸者を飛行機で呼びよせたという、ラングーンの翠紅園という料亭が出て来ます。シェダゴン・パゴダに近いところにあったそうで。検索しましたら、本書ではない文献が二つ見えました。

第三話の頁121に、酒の機嫌で河内山ということばが出て、講談の名調子のようなのですが、インターネット社会にまだ浸透していないようで、浪曲師のしとの、移転前のジュゲムブログに二回出るきりです。

天保六花撰 - Wikipedia

第四話にはカナカ族という原住民が出ます。この辺がフィクションの体裁をとった強みゆえか、兵隊が言うことがみんな違います。首を刈るのか刈らないのか、刈るとすればそれは何故か、人肉を食べるのか食べないのか。編集付記に、「不適切と思われる表現もあるが、著者が故人であること、刊行当時の時代背景と作品の文化的価値に鑑みて、底本のままとした」とあるのは、主にここが主戦場だろうなあという。

Kanak people - Wikipedia

頁159

(前略)全身に入青をしていますが、黒い肌に黒一色の入墨ですから、余計穢く見えるだけで模様などは分らない。(中略)女の乳房はヘチマみたいにだらんと垂れて、肩にまわして背中の赤ん坊に乳を飲ませられるほどでしたが、何しろ椰子油を塗るせいか猛烈に臭いので、いくら相手が女と分っていても、おかしな気を起した兵隊はいなかったようです。鼻をつまんでも、眼から沁みこんでくるような臭さです。(後略) 

 ぜんぜん関係ありませんが、『戦争は女の顔をしていない』はかなりコレクトな訳のようで、著者の英語版ウィキペディアを見ると、原題:У войны не женское лицо は、 (War Does Not Have a Woman's Face)の意味と明記したうえで、英訳タイトルは"The Unwomanly Face of War"もしくは"War’s Unwomanly Face"と書いてます。

Svetlana Alexievich - Wikipedia

あわてふためく下に。以上