『斎藤真一放浪記』"The Wanderer, Shinichi Saito's Notebook"読了

この人が神沢利子さんとタッグを組んだ絵本『いないいないの国へ』を読んで衝撃を受け、欧州自転車旅行から何がどうしてこうした芸風、瞽女を描くようになったのか知りたいと思い、この本は自叙伝風のタイトルだったので読みました。

でも図書館のカウンターでこの本を受け取る時、すでに内心「しもた…」と思ったです。こんなに大きい本とは思わなかった。

1978年にこの本を出した後、映画「吉原炎上」の原作者としてもう一段有名になり、1987年に吉原関連まで網羅した増補改訂版を出しています。でも私が読んだのは1978年版。

表紙デザイン◉斎藤真一

写真◉坂井啓之+小林広〈作品〉

構成・デザイン・レイアウト◉竹内宏一

協力◉羽黒洞+不忍画廊

ギャラリーヤマキ+山木美術

河出書房新社+大西書店

田中穣という人が書いた『望郷の歌―小説・斎藤真一』という伝記を収めています。小説という副題ですが、小説ではないです。敬意を払いつつも、斎藤真一という人間や家族について、人聞きの悪い点にも触れている。

また、『武蔵野ー烏山に住まう』という近況写真のページは、稲越功一という人が写真を担当しています。

斎藤真一放浪記 (美術出版社): 1978|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

吉原炎上 - Wikipedia

斎藤真一 - Wikipedia

瞽女 - Wikipedia

田中穣 - Wikipedia

stantsiya-iriya.hatenablog.com

本書の英語タイトルは、林芙美子『放浪記』英題に作者名をくっつけた、つもりです。"Diary of a Vagabond"みたいな言い方も出てきて、よく分かりません。

まず、自転車旅行が、原動機付自転車での旅行で、38歳にまでなってからのものであることが分かります。

f:id:stantsiya_iriya:20210925204011j:plain

こんなやつ。私は、森田信吾『駅前の歩き方』大阪編に登場する原動機付自転車のようなものを想像してました。

f:id:stantsiya_iriya:20210925205200j:plain

駅前の歩き方 - Wikipedia

ぜんぜん関係ありませんが、駅前グルメの歩き方は、この後、モーニングのグルメ増刊に伊勢志摩の手ごね寿司編が掲載されています。私がウィキペディアラーだったら追記してるんですが、そうではないので、ニヨニヨしながらスルー。この増刊号に森田信吾が描いていること自体、ウェブ等にまったく情報が残っていないのであった…(ハグキのセクシ―読切はチマタの人のブログなどに記録が残されている)

natalie.mu

話を戻すと、欧州旅行でレオナルド・フジタに会った際、日本を題材にしなはれ、冬の東北なんかどやさと言われ、それで青森を旅行した際、瞽女の存在を知って、のめりこんだんだとか。瞽女は「ごぜ」と読むのですが、何故か私はときどき「ぜこ」と誤読します。〈泽库县〉という中国の地名が、チベットのアムド方言ふうに読むと「ゼコ」なので、それとごっちゃになるようです。脳内で。

www.google.com

この時の欧州旅行は、伊豆で美術教師をやっていた作者が写生していると、これも伊豆に住んでいたフジタの姪っ子さんが後ろから覗きこんで、それが縁で、フランスイタリアまで行ったそうです。

ごぜについての前ふりとして、戦中海軍にとられた作者は、紙一重で激戦地への出征をまぬかれ、内地で少尉くらいにまでなるのですが、終戦までの末期は松根油の取り方指南で岩手などをめぐっていて、岡山出身の作者がそこで東北の第一次体験をしたであろうことは想像に難くないです。その時に体験した風景が、後年の絵の下地になったのではないかという。奥さんともその旅先だか拠点だかで知り合ったそうです。高行健の小説のようだ。

松根油 - Wikipedia

また、作者の生まれ育った大都会岡山の味野というところは、花街といえば花街でしたので、そういうものに対する幼少期の刷りこみも、あったものと思われます。

www.google.com

f:id:stantsiya_iriya:20210925204016j:plain

頁45「勘吉の家」1975年 部分

f:id:stantsiya_iriya:20210925204039j:plain

頁44「火事」1962年 部分 

神沢利子との絵本の印象では、火の絵を多く描いてそうな感じですが、本書に収められてるのは、この絵と、欧州の野焼きの計二枚のみ。赤い絵が多いので、そういう印象になるのでしょうか。

f:id:stantsiya_iriya:20210925204028j:plain
f:id:stantsiya_iriya:20210925204022j:plain

頁68「上河原の陽」1973年 部分    頁45「赤い灯の下」1976年 部分

性交してるのかキスして乳繰り合ってるのか、の絵もそれなりに収められているのですが、身づくろいをする女性の絵だけぐうぜん撮ってます。作者は初期には岸田劉生の影響が強かったそうで、しかし、裸体の立像の後ろ姿の女性が多いのは、キシダサンとは別の由来な気がします。

あと、作者の絵は、上空に守護神だかなんだかがいることが多く、ドローンのあるロケ番組の多い現代なら特に奇異の目で見ることもないわけですが、当時は、うしろの百太郎のように、背後霊の時代でしたので、上にいるって発想は、かなり通俗概念から自由だったんじゃいかと思いました。

f:id:stantsiya_iriya:20210925204034j:plain
f:id:stantsiya_iriya:20210925204044j:plain

頁86の素描と、年譜の受賞歴。後者は、誰かが蛍光ペンでチェックしたあとがあります。ダメデスヨ~(棒

田中穣センセイによると、作者の父親は讃岐から流れて岡山に来た人間らしく(ということは香川県人なのでケチだと思います)岡山の具だくさん雑煮でなく、白みその讃岐の雑煮を好んだが、子どもらには讃岐風は不評だったとか。で、尺八の先生で、お弟子さんもたくさんいるのに、職業軍人で、いくさばを好んだとか。尺八の師匠というと遊び人ふうなのに、帝国軍人というアンビバレントな面も併せ持っている人の息子って… と思いました。中学一年で校内マラソン一位になった作者は将来軍人になることを嘱望されていたそうですが、本人は画家になる意思が固かったとか。

f:id:stantsiya_iriya:20210925205209j:plain
f:id:stantsiya_iriya:20210925205215j:plain
私のもとめているものは 写真でも映画でも見ることの出来ない霊気だ。
血の通った女の膚肉のような、古根来の透明な漆のような、そんな民衆糞リアリズムが 私の絵に対する気持の本音かもしれない

頁47と頁60 随所にこういう、作者直筆の文が入っています。たぶん万年筆。さいごの烏山のところに、やせたモテ中年ふうの作者の写真が入っています。職場にも居酒屋経営をやめた遊び人風のこういう人がいて、ふだんはひょうひょうとしてるのですが、鉄火場になれていないこともないので、啖呵切る時は切ります。

f:id:stantsiya_iriya:20210925204001j:plain
f:id:stantsiya_iriya:20210925204006j:plain
例えば、雨とか雪とか風とかつめたさとか、あたたかさとかそんな表現しか言葉は自然に対して持ちあわせがない。
比喩にしても言葉は実にあいまいで例えば「しっとりした寂の雨…」「海の底のような暗い心の私……」「私の描くものは肉そのものだ…」と言ったところで言葉は思いを広げるだけでそのものずばりのものの核心を見ることは出来ない。絵画はそのものずばりの人間の心の真髄のみ描くのだ… そこに表現されたものには、いつわりや比喩や言葉の遊びが許されない。

頁8 このページの手書き文章は、水色に抜いてあるのですが、うまく寫せませんでした。別にクセのある字ではないですし、略字や旧字というわけでもないのですが、最初、食わず嫌いでよく読まずに、こんなおっきな本困るや、とその辺に置いてたので、読むのが遅れたです。仕事に持ってくわけにも行かなかったし。以上