『日本株式会社の顧問弁護士 村瀬二郎の「二つの祖国」』' "Two Homelands" by Jiro Murase, Corporate Lawyer of Japan Co., Ltd. '(文春新書)読了

著者の『テヘランからきた男 西田厚聰東芝壊滅』を読んで、何かほかに著者の本を読もうと思って読んだ本。孫正義 / 三木谷浩史 / 堤清二の伝記を読んでもあれなので、これを読んでみました。USENの二代目?社長の伝記もありましたが、こっちは新書なので、ぱっぱっと読めそうな気がして。英題は下記、ニューヨーク日本歴史評議会公式から。題名のカッコのなかにまたカッコが入る場合の英語のルールはてきとうです。

"Two Homelands" by Jiro Murase, Corporate Lawyer of Japan Co., Ltd. | DIGITAL MUSEUM OF THE HISTORY OF JAPANESE IN NY

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児玉博 - Wikipedia

新書だと、ちょっと物足りないのも事実でした。著者もあとがきで、村瀬二郎という人は実に「総量の多い」人生を生きたので、この本でその人物像の数十分の一も書けたか不安だ、としてます。ただ、いろんな方がまだご存命なので、さしさわりがある部分をいろいろ削って圧縮したらこのくらい、なのかもしれません。2014年に86歳で逝去された、英語版含めウィキペディアのない人ですが、二年後に東京で偲ぶ会がもたれた時は、安倍晋三首相(当時)が代表発起人をつとめています。

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村瀬二郎さんのお子さんは日本の成蹊学園で教育を受けたのですが、ご長男の一学年上に安倍晋三さんがいたそうです。村瀬二郎さんはまず、安倍晋太郎さんと親交が深かったそうで、その縁もあって、昭恵夫人ともども家族ぐるみの交際だったとか。考えてみると、晋太郎さんと晋三さんは、危険な香りとか、もろもろでずいぶん違うです。男の子は母親似だからか。女系天皇ふじこ う~ん、メモリアルイベントのほかの発起人は緒方貞子さんほか「錚々たるメンバー」で、芦屋中学時代の旧友含め、五百人からが参列したとか。

村瀬二郎さんの功績というか、絡んだ事件で、日米通商摩擦がいちばんバンバン出てきますが、ほかに、東芝ココム事件、それから、タカタが、90年代にもエアバッグでなくシートベルトで訴訟を抱えていたことなどが語られます。頭角を現したのは、まず日産とダイハツの自動車訴訟で、そのあとが、カネミ油(自身が弁護したわけでなく)や、鐘淵の人工頭髪移殖なんかからなのかな、60年代後半から70年代にかけて。日本企業の弁護を日系人が行なうと、同民族がかばいあう分かりやすい図式になってマイナスなので、影で動く方に徹したとか。

東京通信工業(現SONY)の盛田さんが、村瀬さんが弁護士の資格をとるため学校に通いながら働いていたVOA(漢語でいうと〈美國之音〉)に自作のテープレコーダーを売り込みに来る場面と、後半、ソニーがエンタメ事業の切り分けをファンドに迫られた際に、ソニーは昔の自由なソニーならず、封建的な企業なので米国ファンドの投資対象としていかがなものかと、二郎さんの息子さんが考えていた個所の対比など、面白かったのですが、もっと書くことがあったのに削った感が、ざわりと撫でてきている気もしました。もっとそう思ったのは、90年代のタカタシートベルト訴訟について書いた後、21世紀のエアバッグは何故その教訓を活かして躱せなかったのかの分析を省いたところ。書いてない部分は書けない部分なのか、もどかしかったです。

日米通商摩擦で、日本企業はバカみたいにロビイストに金を注ぎ込んだが、村瀬さんは、「正義を金で買う」ことはいちばんアメリカ人が嫌う行為であると指摘し、けっきょく、各企業の現地工場の雇用者被雇用者たちが、地元の政治家に、日系企業を叩くイコール自分たちの生存おびやかしである、と訴え続けたことが、事態をソフトランディングさせ、大金投じたロビイストたちはくその役にも立たなかったとしています。(日本企業がつぎつぎ米国や欧州に現地工場を建設する際、邦人雇用を奪い技術流出にもつながると、左右どっちか忘れましたが、国内に強硬な反対論があったのを覚えています。在米工場建設が当該企業を救ったという観点は、こんにちではわりとよく読めますが、隔世の感がある)今の中国が札束で西側資本主義者たちの横っ面はたくやり方でうまくやってたら、アメリカも変わった、というところか。うまくやれてないからホワウェイのように司法取引というか、報復で相手国人を逮捕拘留し、相手国は、拘束された自国人(このばやいカナダじん)を取り戻すために泣く泣くホワウェイ副CEO釈放、みたいなことになるんでしょうけれど。

村瀬さんは、戦争が終わって、それまで敵だった米国人が、あけっぴろげに、おおらかに、かつての敵国人に接する態度を見て、それを公正に評価しています。これは昨日讀んだアメリカ世の沖縄の本でも特に書いてあったこと。また、米国人のよさは、なによりも公正であろうとするところだと。それで逆に、日本企業が、日系人なのだから、村瀬さんはクライアントの肩を持って、黒でも白といいくるめてくれえ、と甘えを見せてくると、勘違いすなや、それがどう米国社会で見られるかよく考えや、逆効果やで、アンタ、と啖呵切ったそうですが、これ、日本の、これを読む読者の心にどれだけ響いたか。英訳があれば日系人には響いたかしらんですけど、本書の英訳はないと思います。

頁80、ミッキー安川の米国南部留学の本でもそうだったのですが、村瀬さんが徴兵されたジョージア州フォート・ベニングの歩兵師団のトイレも、衝立のない、便器がただ並ぶトイレで一緒に大便をする形式だったそうで、中国のニイハオトイレは、巷間よく言われる密告防止目的でなく、アメリカにもルーツがあったということはないだろうかと思いました。次のページに、日系人の強制収用への謝罪と賠償ロナルド・レーガン大統領によって、1988年に行なわれたことへの言及があります。

村瀬二郎さんは、アメリ東海岸生まれなのですが、医者である父親の教育方針で、日本人として育つため、日本で教育を受けます。それが出来る家だったという。一度目は六歳の時に牛込矢来町で、二度目はその二年後に尼崎の塚口というところ。小学校から芦屋中学に入り、そこの同級生たちが戦後民間でえらくなり、米国に進出して、米国で弁護士としてバリバリやる村瀬さんと再会したり、村瀬さんが日本滞在時に定宿のホテルオータニやらなんやらで旧交を温めたりになります。人の縁。終戦後二年くらいで米国に引き揚げて米軍に徴兵されるそうで(間一髪で朝鮮戦争行きをまぬかれ、部隊はインチョン上陸後、南下する中国軍と激突して全滅。頁84)芦屋中学時代にわがくにの士官学校を受験するのですが、二重国籍を理由に不合格になったそうです。頁62。二重国籍兵学校に入れないことは本人も承知の助だったとか。然しその直後の頁70、吉田満戦艦大和の最後』からの引用で日系二世の中谷邦夫少尉の戦死(おとうとふたりは米軍側から欧州戦線に送られる)が語られ、二重国籍でも士官になれるんじゃんと思い、よく読んだら、中谷少尉は慶應大学から学徒動員でした。たぶん学徒なので即尉官なのかな。士官学校に進んだわけでないでしょうという。

頁171、東芝がココム事件の際、あいだに入った商社の伊藤忠が悪い、メーカの自分は悪くないと問題の本質をすりかえようとした時、村瀬さんは異議を唱え、そうしたやり方は卑怯者の烙印を押されると懸念を表明してます。で、ここで、伊藤忠のライバル商社も伊藤忠叩きに回り、伊藤忠なので瀬島龍三ソ連のスパイ説が再燃し、そうした怪文書が米国の議員事務所に届けられたりしたそうです。伊藤忠は自分とこのロビイストが有能だったので、そうした動きをすべて火消ししたとか。今、瀬島龍三ウィキペディアを見ると、東芝ココムに関する件の記載はなく、ソ連スパイ説がねっちりと書かれています。このくだりは瀬島さんがおなくなりになられてるので書けて、他に似たような話で、ボツがいっぱいあったのかもなと思いました。

瀬島龍三 - Wikipedia

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そんな本です。村瀬さんや、作者の思いがどれだけこれを読む読者層に伝わるんだろうと思いました。新書で世に出ざるを得なかった事情って、やっぱあるんだろうなあとも。もやもやしながら読了し、時の首相の挨拶動画まで見つかったので、なんとなく上げるのを二日遅らせて、今日にしました。以上

【後報】

村瀬さんの一族は愛知県の知多半島の出(半田)で、村瀬九郎さんという二郎さんのお父さんが日露戦争で旅順攻防戦に軍医として従軍し、そののち、渡米したとのこと。

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半田市観光ガイド|半田市観光協会公式サイト

作者はその経緯について、母方が小栗上野介の血統であり、小栗上野介といえば戊辰戦争で徹底抗戦を唱えた人物であったことから、このまま薩長が牛耳る日本にいても頭打ちだと考えたのではないかとしています。薩長実力者と奥羽越列藩同盟残軍との関係性について、作者は、柴五郎(ハリウッド映画「北京の55日」で伊丹十三が演じた)が大将に昇進した際、山縣有朋が「会津の賊藩者を誰が大将にした」と激怒したエピソードを引いています。頁23。

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こういう出だしで始まるわけですが、この路線で押し切る感じでもなく、窮屈な印象を受けました。書きにくい本だったのかとも思います。「総量の多い」人物を、多角的な視座で描くなら、三百か四百ページは要るでしょうが、21世紀人はそんな量の本をよう読まなくなっている。なやましいとも思います。

(2021/10/1)