厚木の最終日に、医者と用事の間ギリギリに見て、それで皆既月食見逃しましたが、皆既月食はすぐ曇ったそうなので、ほぼノーダメージです。パンフ売り切れ。観客は最終日でも安定の一桁台後半。英題は、ドキュメンタリー部門最優秀作品賞を受賞した2021年度門真国際映画祭公式から。
ポスターも撮ってたはずなんですが、ぱっと出ないので、左はチラシ。
国際映画祭出品作品であることを忘却しており、チラシや公式に英題が併記してないので、題名を英訳するとどうなるか少し妄想しました。〈華〉はマンダリン"mandarin"に置き換え一択でいいとして、スミカって、どうするか。租界ならセトゥルメント"settlement"ですし、レジデンシャルテリトリー"residential territory"というか、コロニー"colony"となるのか、はたまたインディアン居留地からそのままリザベーション"reservation"を引っ張ってくるとしたらどうか、いやいやそれはになるのか、とか、なんかごにょごにょ考えました。馬場スミカ。DJスミカス。二階堂スミカ。嗯,我个人认为,这题目与日本摇滚乐队“sumika”丝毫无关透顶的不得了。┗|`O′|┛ 嗷~~ ←簡体字IMEで"ao"と打つと出る絵文字。
まず私の事実誤認認識について。私は1986年の関帝廟放火事件から横浜山手中華学院*1が出来たと思い込んでいて、それがこの映画で、1953年に源流が遡れることを知り、知識を修正する必要に迫られ、そうしました。この映画は監督一族のライフストーリーでもあるのですが、同時に、費龍禄と王慶仁というふたりの教師を巡るストーリーでもあります。前者は晩年お亡くなりになる前のご本人が出てきて、後者は関係者の証言として登場。
1952年の「学校事件」については、2019年7月の下記論文がまずぱっと出ました。映画スタッフもこの論文に目を通してる、あるいは論文の書き手の人とスタッフに何らかの交流があったと思います。論文に登場する山手中華学校中国語教科書の「農民を刺殺する国民党員の絵」は、映画に実物が出ます。
http://civilization.tkcivil.u-tokai.ac.jp/img/tkc3605.pdf#page=19
1972年に王慶仁サンが学院に乱入した和製ホンウェイビンにボコられた事件については、上記やそのソースにも記述がありますが、読売新聞社横浜支局が、なぜか自社でなくアドア出版というところから1998年に出した『落地生根-横浜中華街物語』に、ひかりものでなくバットでやられたと記述があり、さらには近年出版された山崎洋子『女たちのアンダーグラウンド 戦後横浜の光と影』にもチャンと刀で斬りつけられたと書いてあり、私も読んだのですが忘れてました。
2005年と2006年ですが、下記のような論文も出ました。
費龍禄サンは一貫して「フェイ・ロンルー」と北京語で呼ばれており、李天禄なら台湾ポテヒで有名なホウシャオシェン映画の常連俳優で、戯夢人生のひとですが、費龍禄サンは「ひりゅうろく」ではいかんのかなあと思いました。中国人の名前を日本で北京語読みする風潮は来日新華僑と国内左翼知識人のケミストリーから始まったと思っていたので、新中国支持派が建国直後から日本で行っていたんだなあと認識を改めました。日韓のばあい、相互呼称になったのは、そもそも、韓国は邦人名を日本語読みしてるのに、日本が「きんだいちゅう」「ぼくせいき」「ぜんとかん」ではブーゴンピン(不公平)ということで、「キムテジュン」「パクチョンヒ」「チョンドゥファン」と呼びましょうと二国間の放送関係者で取り決めたわけですが、日中はぜんぜんそういう取り決めがないので、日本だけ一方的にシーチンピン(朝日)もしくはシージンピン(読売)と呼んでも、中国の趙リッケンバッカーサンが麻生太郎さんに処理水飲んでからぬかしやがれ、を、マーションタイランチンターheラザイシュオから「あそうたろう」に言い換えはしないわけで、ちゃんと相互に取り決めをしないまま日方だけ朝日と読売で異なるルールでカタカナにする必要はまったくないと思います。
また、本来漢字文化圏の漢字名の読み方は、各地域でそこの読み方を重んじるのが主旨ですので、その意味でも、日本では「ひりゅうろく」さんでいかんのかなあと思いました。ここで、「もうたくとう」は「もうたくとう」じゃナイカ、と書いてもいいのですが、そう書くと一気にネトウヨ臭が漂ってしまいます。「けざわあずま」と読んで笑って、それでおしまいの話でもなく。井沢元彦。見澤知廉。
この映画もレビューには、見てきたようにまったく映画と異なる内容を書いて先入観を植え付けるレビューがあって、共匪の流言ばかり採用してるとのことなのですが、デマゴギーでなければ、「必勝不敗の我々の偉大な指導者毛沢東主席万岁!」とかそういうの見ただけでアレルギー起こしてそうなるんだろうなあと思いました。拉致られて軟禁でもされたらそうなるのはやんぬるからと思います。知りませんが。結婚式の對聯の、〈献身革命为人民〉と左側に書いてある右側がテカって読めませんでした。残念閔子騫。監督の叔父さんなんかは費龍禄サンを急進派の首魁、毛首席個人崇拝の大本とみなして学内大字報なんかで批判していたそうで、そういうの見てたら、とっても仙石左派映画とは言えないと思います。だいいち、映画には、中国で持ってたら公安にしょっぴかれる青天白日満地紅旗がバンバンバンバン出まくりますので、それだけでもうフリーダムフリーダム(ウッドストックのジミヘンの物真似で)
ただ私は、中華民國、国府のチンティエンバイリーマンディーホンチィを以て台湾の旗と言われると、歯に何か挟まったような違和感を覚えます。
「中国語が話せない華僑四世がルーツを巡る物語」(後述)とあり、中国嫌いの理由として、多感な思春期に冷凍毒ギョーザ事件などがあり、反中反日機運ゆえなしとしないのですが、それがいつから始まったのか、2004年の西安留学生寸劇から始まった反日暴動あたりまでさかのぼれるとしたら、それはそれで、別の映画の題材になる気もします。長崎国旗事件。映画に出てくる、チャイニーズタイペイのチャンカイセックメモリアルホールの麻生太郎サンのオジーサンの写真は、周鴻慶事件の後始末のため、オジーサンが太郎サンのママと二人でベイトウでなくどっかその辺の老鼠、否、别墅に行った時の写真のはずです。撮影可なのか。ケニチ先生は随行してません。ヨッパライだからか。
横浜中華街が十月一日の中华人民共和国国慶庆節节と十月十日の中華民國双十節をそれぞれ大いに祝っていることを、ニュースなどで風物詩として知っている人は知っているわけですが、その背景にある、国府と中共とで激しくつばぜり合いを繰り返してきた歴史を初めて?かどうかは知りませんが、フィルムとして提示したので、あーそうなんだと思うかもしれませんが、じゃあ実際に行ってみると、現実は常にその斜め上を行っていて、数年前石川町駅から(この映画に出てくる、"CHINA TOWN"と書かれた壁は、石川町駅もしくは関内駅ホーム)中華街まで、休日に初めて歩いたとき(いつもは関内あたりから適当に歩くので)道の片側にズラリと法輪功の人らが中国政府による宗教弾圧を糾弾する看板などを掲げて立っていて、法輪功総動員でインバウンドにアピールしてるんや、中国人も中国では絶対に見れない風景が見れてヨカッタデスネと思いました。
公式からコピればいいかと思ったら、チラシと公式でコメントの細部がちがったので、手打ちしたチラシコメント。チラシにコメントを寄せてる人のうち、温又柔は分かるのですが、安田菜津紀という人は、私は知らない人でしたが、こないだ南林間で講演があって、なんしかそれを聞いた後で著書を読んだ時検索して、在日コリアンの家庭と知り、う~んなんだろう、となりの山田くんなのかと思いました。ホーホケキョ。ダースレイダーという人は、加藤徹怪演で知られるNHKカンゴロンゴのテーマ曲を手掛けたというところだけウィキペディアで読みました。
制作団体名称"DMZ"は、デミリタライズド・ぞーん、非武装地帯の意味の"DMZ"だと思いますので、38度線トカトントン、全州国際映画祭のひとが即反応してるのも、そりゃそうかなと。ベンハイ河夜粛々南進。
非武装地帯 (コンピュータセキュリティ) - Wikipedia
非武装地帯とは、コンピュータネットワークにおいて、外部ネットワークと内部ネットワークの中間に設けられるネットワークのことである。
上の真ん中のひとが王慶仁。チラシより。この人は1986年の関帝廟炎上(映画では、隣の中華学院へのアレのとばっちりとは言ってませんが)後の再建のさい、熱心に奔走し、これで自分も國民黨特務という色眼鏡でなく、横浜華僑のひとりとして認めてもらえるかい、と言ったそうで、そのせりふがこうして残ることが出来たのは、よかったです。
1951年のサンフランシスコ講和条約以後の光景のはずなので、オキュパイドジャパン時代ではないはずなのに、国府兵突入を阻止する中共系バリケードやら、なぜ加賀町には警察著があるのかよく分かる警官隊がいたりとか、バーグオリエンジュィンやらゾウゴウやらを一掃したウェイダーダリンダオをたたえるパレードとかの写真。フェイ・ロンルーさんは、国交禍福後、横浜市の通訳になって中国に行ったそうで、その時、初めてリアル中国を見て、華国鋒時代なのかその後なのか分かりませんが、これは大変な国だ、大変だと思ったそうです。これも正直な感想だと思いました。ハマの通訳ということは、上海市との友好姉妹都市締結についてでしょうか。私はこの時、上海雑技団やら、京劇昆劇越劇ならぬ川劇、あの變面だか変臉だかが横浜に来たので、見に行った覚えがあります。
宏生という父親だか叔父だかの同級生の調理師の人が出てきて、いわゆる新華僑のレンチン中華でない、街中華なのですが、この人がまたカメラ目線を外さない人で、かつて周富徳が、カメラ目線をぜったい外さないので、広東料理でなく視線料理だと言われたことを思い出しました。奥さんの教師のひとが、日本語の音読みの名前だったか北京語読みだったかは注意して見てませんでした。
ファミリーヒストリーに話を戻すと、横浜中華街は邱永漢が中華街でなく広東街と言ったほうがいいのではないかと言ったくらい、広東の人が多い街だったそうですが、この映画は、監督が福建系なので、ほぼほぼ福建出身者まわりで進行します。それも台湾と共通する閔南でなく、福州のほう、閔北。費孝通、いや費龍禄はどこの人だったんだろう。
私が勝手にそう思ってるのですが、京都の老華僑は福建の人ばっかで、呉服の行商とか、山陰の人と結婚とか、聞いたイメージを補強するものばかりでした。この映画の横浜福建同郷会の偉い人は、引退後横浜に住み続けますが、私が大昔見た京都華僑総会のえらい人は、引退したら福建に渡って余生を過ごすだろうと言われてました。たぶん王貞治の父親が浙江省にお墓を建てて(息子には民国籍をとおさせつつ、自分はこっそり人民共和国籍に変えてた)たのと、同じくらいの世代、同じくらいの風潮だと思います。監督のひいばあさんの福建省高山鎮のお墓は、私が見ると衝撃ですが、やっぱ最近の墓地整備の前だと、あんなんなのかなあ。
バーモントカレーとか、今の日本は給料が安いから、もう誰も日本には出稼ぎに行かないなどの話もよかったです。個人的に思うのは、閔北は方言が違うので、台湾に〈偷渡〉で行きづらいので、それで日本を選択してたのかなあ、なのですが、そこはこの映画では突っ込めてませんでした。失礼だからかな。
監督のオバーサンは施設で「ハヤシさん」と呼ばれていて、「リンさん」と呼べばいいわけでもないと思いますが(広東語の「ラムさん」ではないと思いますが)この人の名前が確か林愛玉で、さっき入浴中、やべえ、台湾スイーツオーギョーチー、ディンタイフォンでは何故か北京語でアイユィズと呼ばれてる(鼎泰豐のディンタイフォン自体北京語読みですが)あの単語ジャナイデスカと思いました。閔北話だと、愛玉はなんて読むんだろう。
児童たちも出るとこは出ますが、伊勢佐木町とかで見るような、漢語ぺらぺらの新華僑子弟でなく、日本語でおしゃべりする子どもたちです。むかしながらの華裔子弟でしょうか。この子たちもつべを開くと、目的の動画の前に、漢語学習広告がべらべらボボボ、ポポポ、とか話しかけてくるのかなあ。安田菜津紀サンという人は、コメント出すのみならず、いろいろ上映活動のバックアップもされてるらしいですが、日本語より漢語が得意な子のなかでおうちによゆうの少ない子は、民族学校は各種学校の扱いで学費があれなので通いにくい、学費無料の日本の公立校に行ってしまう、もっとみんなが通えるよう各種学校扱いでなく支援を、と言ってるわけではないと思います。それは別の話。
山手学校のチャイムが、予告でも流れますが、紀州のドンファンホン、タイヤンションなのは、へーでした。光棍节のダジャレで、太陽剰と言ったりもするのでしょうか。常剰必敗、斉天大剰のダジャレを百度で去年見て、おかしかったなあ。
この映画の最後のほうに、土地の話が出ましたが、私の知識不足で、何言ってるかよく分かりませんでした。
監督がこのテーマでさらにいろいろやるつもりなら、横浜華僑の暗闘以上になんにも書き残された資料がない、京都光華寮事件なんかもあると思います。ウィキペディアが漸次増筆されてたりしてますので、書き残されたものが歴史になることを実感してる漢民族が、何も残してないわけないと思ってます。あと、私がこういうブログに書くことで承認欲求を満たしてしまい、その後なんにもしない、天城山心中の愛新覚羅慧生サンが、死の数日前、日記だか手紙だかで書き残した、東京中華学校の民国派遣の舎監が、女子風呂を覗き見してた件を告発しようとしてた件。天城山心中はこの件を動機とするミステリーだった、というフィクション誰か書かないかなと思いつつ幾星霜。今ウィキペディア見たら、心中相手の大久保サンが仮名のイニシャルになってて驚きました。
あと、せっかく安田菜津紀サンが絡むのであれば、映画「パッチギ!」に出てくる京都朝高の場面が、すべて銀閣寺の近くの韓国学校で撮影されている、まさにその朝高と韓国学校の関係について映画にしてもいいのかもしれないと思いました。しなくてもいいですけど。以上