دوكلات «بارىن ۋەقە» شەرقىي تۈركىستان『新疆「バレン郷事件」考』"The Report on Xinjiang〈Baren Xiang〉Incident" by NAOKO MIZUTANI

「中国現代研究」第40号 研究ノート 2018年2月10日発行

"Chinese Contemporary Studies" vol.40 Feb.2018

中国現代史研究会 『中国現代史研究』 バックナンバー Modern and Contemporary China Studies index

全号pdf化が完了してないようで、しかしこの号はpdf化されていて、ウェブで読めました。ラッキー❤ 紙版は、もし在庫があれば、神保町の専門書店で買えるそうですが、さて。

www.rfa.org

ウイグル語は、グーグル翻訳のウイグル語と上記RFAサイト(よく知りませんが、この論文でも参考であげられてるとこで、櫻井よしこウイグルジェノサイド抗議講演のウイグル語報道も載ってますので、全方位的に安心だと思いました)から。でも、「考」と「東トルキスタン」の順番がどうしても逆になります。これで分かってくれるのかなあ。

安井三吉さんの主催する会で、いいのかな。早稲田大学現代中国研究所とは関係ないというか、なぜ大ワセダともあろうものが同名のインスティテュートをつくるかな。そこの紀要雑誌に載った論文です。バレン郷で1990年4月に起こった暴動に関するレポート。読めば読むほど、自分がこの年の夏、開いたばかりのカシュガルに滞在していたことがうそのように思えてくる。

www.google.com

地名はちゃんと聞けてないのですが、この事件でカシュガルは外国人立入禁止になったのですが、天安門事件の翌年で、外貨がほしかったのか、たった二ヶ月で開けているということになります。中国銀行が職員の学習活動で反日、否半日しか開いてないので、両替もその時間に行かねばいけず不便だったとか、どれだけの暴動か、かいもく情報が入ってなかったから言えたことだったなあと。

三月後半から偶発的に暴動が発生。当時から相互監視システムがあったので、周到に準備した蜂起は㍉。

4/6:組織メンバー6人、一般民衆42人死亡。100人以上市民重傷、93人軽傷。
4/10:蜂起グループ59人死亡、7人重傷拘束、市民200人以上拘束。

4/5:自治州から鎮圧に62人派遣。カシュガルから130人派遣。
4/6:特別武装部隊4000人以上派遣。南疆軍区解放軍や兵団精鋭、自治州警察部隊等、計15000人以上派遣。空軍と砲兵隊計3000人以上派遣。

ウイグル側資料は世界ウイグル会議が2005年に私家版で出版した『Barin Inqilawining 15 yili〔 バ レ ン 革 命 の 15 周 年 〕』

上記の内容は新疆ウイグル自治区地方誌編纂委員会編纂『新疆通誌 (20) 公安誌』新疆人民出版社2004年収録の、宋漢良新疆ウイグル自治区党書記(当時)が1990年4月21日に自治区共産党員幹部大会の席上で述べた講話と合致しているとのこと。ただし、ウイグル側でのみ知りうる当事者情報があって、さらに、鎮圧側の員数は、漢族側資料には記載がないそうです。

漢族側の資料はもうひとつ。中国共産党新疆ウイグル自治区委員会党史研究室編纂『新疆反対民族分裂主義闘争史話』新疆人民出版社1999年。

(その後の裁判による死刑等の数は、また別資料から拾ってます)

起义,否起義のウイグル人の多くがマドラサで学んだ青年たちであったことが、暗示的です。弾圧する側から見ると、マドラサって、温床に映るんでしょうね。それは欧米のアフガン援助のNPOでも変わりませんし、私もそういうものを読むとそう思う。(ペシャワール会などの見解はちがうはず)蜂起の理由は漢族の大量移住と、計画生育政策によるウイグル人の出産抑制。こういう当時の理由を読むと、現在はさらに根っこの、信仰そのものを根こそぎに潰してる(このレポートでも決起学生の、自分たちは教義の理解は浅いが、真の信仰を持っているというせりふがあるように、ウイグル人は酒も飲みますし、まあ、ネットのない時代の辺境なので、中東のイスラム爆心地のようにシャリーアがどうのヒジャブがどうのとやっていたわけではないです)わけなので、なぜ回教国がダンマリなのかとは、やっぱり思いますよね。ふしぎ。中央アジアイスラム化をまず進めて、ゆるやかに中国を包囲する気の長い計画でも持っているのかな。

わずか二ヶ月で外国人に開放してるのは、地方ではまだ胡耀邦時代のムードが多少なりとも残ってたということなのかなあと、思わないでもないです。その後、ラサが開いたり閉まったり(暴動が起こるたびに閉まる)を見ていて、なんで開かないかなあと思ったですが、この時にこんなにサッサと開いたほうがレアだった。

作者がこのレポートをいつか書いてこまそうと思ったきっかけは、楠木賢道というのちに学者さんになる人が、ウルムチ留学してて、二年後の1992年に山川の紀要雑誌にその時聞いた話を書いてたからだそうです。楠木賢道という人は、岡田英弘のお弟子さんみたいな感じの専門になるのかな。だから新疆では満洲関連の、シボ族とかやったのかなあ。知りませんけど。で、この人がカシュガルにいたというふうにはこのレポートでは読めませんが、ウルムチだけだったのでしょうか。どうでしょう。天安門の翌年ですが、そこそこバックパッカーはいて、白人以外だと、韓国人はまだ中国と国交がないかったころですし、ようするに邦人ばっかだったですよ、白人以外のバックパッカーは。いたいた、けっこういた。

七月だか八月だか忘れましたが、その時、ひとり邦人のカメラマンのひとがいて、なにやらさめやらぬ現地に、近づけるだけ近づいて、パシャパシャやってました。今では考えられないですね。当時でもまあ、ホントに撮っちゃいけないものを撮ったら、フィルム抜かれたりはするでしょうけど。その人が、現地に通ずる橋がひとつ落ちた、落とされたと言っていて、このレポートでもそのくだりがあるかと思ったのですが、ありませんでした。三年後くらいに、残党が、橋に爆弾仕掛けて要人暗殺のテロを狙って、失敗したという記述があるだけ。その犯人は、もしホントに橋が落とされたなら、そのことも脳裏にあったと思います。フリーデンでない水谷サンがこのレポートを書いてから2022年のいままで、四年くらいですか。そのカメラマンの人が気づいて、連絡とって画像資料とかバンバンキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!みたいなことが起きればいいですねと思いました。

私がこの時撮ったカシュガルのサンデーバザールとかロバ車とかの写真は、すべて失われています。精神的になんかおかしくなって、捨てた。かえすがえすももったいないと、復調して?思っています。以上