『剃刀の刃』Ⅰ,Ⅱ "The Razor's Edge" by W. Somerset Maugham(サマセット・モーム全集 11, 12)読了

サマセット・モーム全集 (新潮社): 1954|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

サマセット・モーム全集 (新潮社): 1955|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

チベットの薔薇』"THE ROSE OF TIBET" by LIONEL DAVIDSON(扶桑社ミステリー)を読んだ時、解説でモームの実録スパイ小説『アシェンデン』に触れられており、『アシェンデン』を読むと、モームの実人生の半生は『剃刀の刃』に詳しいとのことでしたので、読みました。

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The Razor's Edge - Wikipedia

二度映画化されているそうで、日本モーム協会の映画紹介が検索上位に来ます。下記ユーチューブはそこから。

www.youtube.com

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まったく関係ありませんが、チベット語(アムド語?)で、サマソと言うと、ゴハン、食事の意味になり、サマサガジョチ、と言うと、漢語の"吃饭去"、「シーメ行かはりますねや」の意味になります。

1953【ここまで書いて前夜は寝てしまい、ここから翌日書いています】年に三笠書房というところからモーム選集5,6巻として出版され、それが1954~1955年に新潮社の全集から出て、さらに1965年新潮文庫になって、それで、その後は日本で出てないようです。齋藤三夫さんという方が訳されたのがそのままずっと。訳者の方はバートン版千一夜物語など訳された方のようですが、ウィキペディアはないようです。

日本の古本屋でしぞーかの古書店から、二冊セット千円、送料百八十五円で買いました。Ⅰ巻が1957年の二刷で、一巻の蔵書印が二巻にないので、べつべつの古書を組み合わせた気がしますが、両方ともパラフィン紙に包まれており、神秘主義や東洋思想に関する記述に傍線がつけられているので、同じ人の本だったかもしれません。

Ⅱ巻に龍口直太朗という人の解説がついてます。この人はウィキペディアあり。

ja.wikipedia.org

ご自身でもモームを訳されていて、1944年、七十歳で発表した本作について、「作者の勇氣と誠實さに、先ず私は敬意を表するものである」としながらも、内容について、「まとまりが悪く」代表作に比べると「見劣りがすることは否めない」とクサしています。私は『月と六ペンス』も『人間の絆』も読んでないので、それに対し、なんも言えまへん。けしてこの解説者は唯物史観の論者ではないと思うのですが、登場人物の神霊探究の道行きについて、懐疑的です。

解説 頁174

(略:登場人物がW.W.ⅠのPTSDに悩み、実生活を送ろうとしない箇所について)少し感傷的であり、われわれを納得させる力が足りないようである。(略:東洋思想には西洋にないものがあるという考え方の紹介について)新しさ以外には、あまり感心した行き方ではないと思われる。(略)いかにもモームらしくないくだりである。もっとも、(略)モーム先生はいつも批判的立場に立つことは忘れていないのであるが、たとえ「他山の石」としてでも(略)やはりこの作者が老境に入つたせいなのであろうか? (後略)

Ⅰ巻の蔵書印

EX ЩBRIS 平沼

そこまでクサさなくてもと思うのですが、どうでしょうか。P.K.ディックの晩年の『ヴァリス』や『聖なる侵入』に比べれば、全然。

読むのにだいぶかかってしまい、その間、持ち歩く際に雨に濡れてしまい、中身は無事なのですが、表紙が、上の写真のようにいちぶ濡れてしまい、貴重な古書がまた一冊再販売しづらいものになってしまったと、後悔しています。濡れた跡のある本を買いたい / 開いて読みたい人はまずいない。よっぽどの稀覯本以外。

Ⅱ巻に挟まっていたチケット。

 歌舞伎座入場整理券 都民劇場 35.9.19 開演5時00 1階 る側 39番

旧字体で書かれた本なので、ミサを「彌撒」、ヨガを「瑜伽」と書いてます(解説ではヨガを「ヨギ」と書いてます)旧仮名遣いはありません。促音「っ」を大きく「つ」と書いてるくらい。口紅は「棒紅」で、Ⅱ巻頁44、禁酒法時代とカブっているので、バスタブで密造したジンが比喩で出ますが、バスタブを「湯殿」と書いています。Ⅰ巻頁39、「お華客」と書いて「おとくい」と読むのが面白いと思いました。

かかく 【華客】 商家などで、お得意の客。買いつけの人。

Ⅰ巻 頁155 モンパルナスについて

ほかにこれといつてすることがないと、私はタクシーに乘つて行つて、おなじみのカフェ・デュ・ドームに腰を下ろす。そこは、もう當時のような奔放な藝術家たちだけの集まる場所ではなくなつていて、近所の小商人こあきんどがやつて來るようになり、またセイヌの向岸から、外國人がわずかに殘るむかしの街の面影をみようと思つてやつても來る。學生たちは未だに來るし、勿論、繪描きや作家たちも來るが、その大部分は外國人で、そこに腰を下ろしていると、身のまわりには、ロシア語、スペイン語、ドイツ語、英語などが、フランス語とおなじくらい聞える。しかしながら、その連中も、四十年前にわれわれが口にしていたこととほとんどおなじ類のことを喋つているのだと、私は想像している。ただ、かれらはマネの代りにピカソについて、ギョーム・アポリネール(佛の詩人、劇作家、短篇作家、その奔放な生涯により奇警な流行を生んだ。一八八〇ー一九一六年)の代りにアンドレ・ブルトンについて喋つているにすぎない。私はいつもかれらの話に心を惹かれるのだ。

左、Ⅱ巻頁126、インドの家屋の描写の箇所に、蔵書者が「牛糞を」と付け加えてますが、これは日乾し煉瓦で住居をこさえる部分なので。牛糞関係ないはずです。燃料用の牛糞を乾かすため壁にぺたっとはっつけるのとも関係ないと思われ。

これを読めばモームの半生が分かるというのは、ちょっと違う話で、でした。

本書ではモームサンは比較的素直に、どの時期に自分がどの国のどの町にいたか書いてるので、それと時事年表をつきつめあわせれば、スパイ作家モームがいつどこにいてその時何がそこで起こっていたかが分かるかもね、くらいの意味のようでした。読む人が汗をかかねば何も分からない。

<登場人物(モーム以外)>

エリオット:なんだかよく分からないアメリカ人で、なんだかよく分からないうちに英仏社交界であれこれあれこれ立ち回り、無から有を産むように財産をいつのまにかこさえてしまった人。自身は生涯独身だったが、妹の娘、姪っ子とその宿六の面倒はよく見た。語学堪能。大恐慌に際しては、直前にヴァチカン関係者から、米国証券をすべて売り払って金、ゴールドを買えとひそかに忠告があり、そのとおりにしたため、かえって財を増やす(Ⅰ巻頁140)

イザベル:エリオットの姪っ子。シカゴ近辺出身。ラリーと婚約していたが、働かないラリーに失望して、グレイと結婚する。グレイが世界恐慌で文無しになった後渡仏するなど、それなりに波乱にみちた人生を送る。

ラリーアメリカの田舎の素直な白人青年。第一次世界大戦に従軍してから、ヘミングウェイの小説キャラのようにモラトリアムにハマり、いつかは社会復帰するものと周囲は信じていたが、「働いたら負けだと思っている」レベルに達したまま「世界の真相」を知りたいと読書ばかりするようになり、ある程度遺産の投資信託などから定収を得ることが出来るため、そのまま、欧州を横断して鉱山仕事や農作業の手伝いをしながら旅したり、修道院に入ったり、はてはインドに行って瞑想やらなんやらする。そのあいまに、身体とこころの調子を崩して、経済的にも困窮するスザンヌ母娘を助けたりもする。

グレイアメリカ地方都市金融業実業家の息子。ガタイのいい好男子。イザベルを射止める。世界恐慌ですべてを失った時の債権者や損失を蒙った知人友人たちとのかかわりの中で、抑うつ状態となり、エリオットの援助で妻子ともにフランスに渡り、気力のないなか、かろうじてゴルフやトランプをやったりして日々を過ごす。その状態でもイザベルに対してDVに及ぶこともなく、新婚そのままに毎晩彼女を求めて満足させるので、家庭生活はそれなりに波風の立たない穏当なものであった。インド帰りのラリーの施術(催眠術?)で、劇的に回復する。

スザンヌモームが、女性同伴でシーメが食べたいときなど連絡してつきあってもらう、自称「淫売」フランス人女性。田舎から都会に奉公に出てきて、自称ゲージツ家にひっかかってコマされて、貢ぐようになり、それからとっかえひっかえ、次々にゲージツ家希望の青年と同棲を繰り返す。肺を病んだか何かで絶不調で文無しの時にラリーに助けられ、彼にお礼を迫って、EDでないことを確認する。のち、地方の小金持ちの再婚相手になり、悠々自適の後半生を送る。

ソフィ:かつては詩を作るのが趣味だった、ラリーやイザベル、グレイのクラスメート。あてられた交通事故で同乗の夫と子どもを失ってから精神の状態を崩し、パリで酒とヤク(阿片)に溺れ、誰にでもひっかけられて寝る破滅的な生活に入る。ラリーが彼女を救うため結婚を申し出、受けるが、しあわせになるのがこわかったのか、式の前夜、仮縫いのチェックに行く前に遁走。さいごは、南仏の漁港で他殺体で発見される(喉をざっくり切り裂かれる)

ズブロッカポーランドウォッカ。香りがいい。

Ⅰ巻頁36

「君はとてもいい就職口の申出を受けているようだな」

「素敵な口ですよ」

「承諾するつもりなの?」

「しないと思います」

「どうして?」

「したくないんです」

(略)

「じや、一體なにをしたいの?」

 彼はその輝かしい魅力のある微笑みを見せた。

「のらくらしていることです」と彼はいつた。

 私は笑うほかなかつた。

「そうするには、シカゴが世界中で一番いい場所とは、どうも思えないな」と 私はいつた。「とにかく、僕は行くから本を讀み給え。『イェール四季報』をちよつと見たいんだ」

頁75からの、ラリーを訪ねて渡仏したイザベルとの丁々発止のやりとりは、とても面白かったです。文学者のひとはおもしろくないかもしれませんが。知識を得ることだけが目的で、生活はカツカツでよいラリーと、イザベルの主張はまったく食い違います。

Ⅰ巻 頁75

「とても間違つているわ、ラリー。あなたはアメリカ人よ。あなたの住むべき所は、ここじやないわ。アメリカよ」

「心構えができたら歸る」

「すばらしい冒険の時代」で「ヨーロッパはもうお終い」で「全世界で一番偉大な、一番有力な國民」が自国の発展に参加するのは義務で「血を沸かせて」「立ち向かう勇気」をもつべきだ。

Ⅰ巻 頁76

「(略)かりに、誰も彼もあなたがずるけているように、ずるを決めてしまつたら、アメリカはどんなになるでしようね?」

すぐにでも結婚したいというラリーに、イザベルは抗弁します。何をして食べていくのか、ラリーの投資信託の報酬では、イザベルの望む生活レベルは維持しえない。二等列車や三流ホテルの新婚旅行もゴメンだし、赤ちゃんを育てるのにかかる費用も、乳母を雇う費用も、どうすればいいのか。赤ちゃんもほしいが、パーティーに出たりダンスに行ったりゴルフをやったり馬に乗ったりしたいのだ。服だって新しくあつらえたい。ラリーの言う結婚生活となったら、美容院に行く餘裕すらなく、ラリーが図書館に通う間、ウィンドーショッピングと、公園で子どもを遊ばせてそれを監視するだけの生活になる。誰かに古着をプレゼントされる生活を、ほんとうに理解しているのか?

のちの世界恐慌のあと、文無しになってもグレイと結婚したことを後悔しないと言うイザベルに、モームがラリーという青年を理解させようとして語った、彼の哲学への希求について、イザベルの回答。

Ⅱ巻 頁59

イリノイの、マーヴィン出身の田舎者がそんな考えを持とうなんて、とても變てこだとお思いになりません?」

マサチューセッツの農家に生まれたルーサー・バーバンクが種無しオレンジを作り出したり、ミシガンの農家に生まれたヘンリー・フォードが、廉やすいフォード製自動車を發明したのにくらべて、少しも變なことなんかありませんよ」

「でも、そうしたものは實用的な品物です。それはアメリカの傳統の中にありますわ」

こう言ってラリーを捨てたはずの彼女が、再会してグレイが救われた後、ソフィに急接近するラリーに対し、どう感じたかは解説にも説明されていることですが、この小説にまさかそんなエンタメな仕掛けがほどこされていようとは夢にも思っていませんでした。

ラリーの人生のその後について、彼が望むカーブ(働かなくても得られる収入をすべて捨てる)を実行した結果、生活レベルが下がったので、モームサンとすれ違うことがなくなりました(例えば、お芝居の幕間にロビーで肩を叩かれて、振り返ると懐かしい旧い友人のラリーが笑顔で立っていた、など)ので、70歳のモームサンは彼がその後どうしてるか、もう知りえない、想像するだけということになります。そういうオチもまたありなんだなと思いました。彼に幸あれ。

Ⅰ巻は1957年の二刷。Ⅱ巻は初刷で、奥付ページに読了の一文があります。以上

(翌日)