- 作者: 信田さよ子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2000/06/01
- メディア: 新書
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初版が平成十二年ですから、結構版重ねてますね。
アマゾンのレビューでは、著者の世代的な特徴かもしれないがという前置きで、
マルクスやフェミとの対比は少し飛躍ではないかという指摘がありましたが、
それっぽい記述は見つけられず。ふしぎふしぎ。
ま、そんなに目くじら立てんでもええやん。
医療保険の効かないカウンセリングセンターをやられてるとのことで、
検索して料金確認したら、初診諭吉一枚であった。
患者本人でなく、患者に困らされてるひとが相談に来るのだから、そりゃ保険効かないか。
頁174
まだまだ余裕があると思っているうちは嗜癖行動をやめない。誰かが傍にくっついて面倒を見ているとその人はなかなか底をつかない。嗜癖行動の結果が本人に突きつけられることで本人はそれを続けて破滅にいたるか、嗜癖行動をやめるかのぎりぎりの局面に立たされる。アルコール依存症であれば妻からの別居宣言だったり、人間ドックの数値の悪化だったり、酔って保護されることであったりする。ギャンブルであれば借金が雪だるま式にふくらんで返済不能に陥ってしまうことであったり、しりぬぐいをしてくれた親がついに音をあげることである。嗜癖とは生存を危うくするような習慣であるから、続けていけば破滅に直面する。本人だけの問題にすることで事態は実にシンプルになる。本人が死にたくなければその行動をやめるであろうし、さもなければそれを続けて死にいたるだけの話である。底をつけばどちらかになる。これが「底つき」論の根拠である。
これはいってみれば乱暴な理論である。死に直面しなければ嗜癖行動は止まらないのだろうか。治療者の責任はどこまでなのだろう。破滅に瀕してそのまま死んでしまう人も当然いるだろうから。さらに治療者の役割は一体何だということにもなる。手をこまねいて放っておけばいいのであれば治療者など要らないではないかとも考えられる。よく家族に底つきの話をすると「要するに見捨てればいいのですね」と誤解される。
さきほど公式的にという表現をしたのはそれを否定する有効な意見が存在しないからである。私自身の経験からしても依存症の人が嗜癖行動をやめるのは何故かよく分からない。これが正直な意見である。
ほかに、「対象とすべきは、本人よりさきに困っている家族」(頁117)「アルコール依存症の治療はその病院の良心をはかるバロメーター」(頁68)久里浜は東京五輪契機で作られた(頁27)など、
いろいろ面白かったです。