『女へんの話』読了

http://ecx.images-amazon.com/images/I/61P0IegOeTL._SL500_SX355_BO1,204,203,200_.jpg金子光晴晩年の金花黒薔薇*1
エロばっかでたいがいですが、
これもたいがいです。
例えば、帯の「池塘春草」

頁259 大阪ストリップ地帯を行く
中国の艶笑作家は、その一点を形容して池塘春草などといったものだが、こうして照明のただなかに眺めてみると、うそにも春草などといえたものではない。それは鼠毫のごとく、また荊棘のごとく、叢林のごとく、また牛膝やぶじらみのごとくである。剛直なるあり、柔捲なるあり、黒漆々なるあり、薄疎々たるあり、そしてそのうちに蔵する陰溝をさらして嫌うことなく、あるいは罅のごとく、あるいは裂のごとく、あるいは傷しょうのごとく、またあるいは腫のごとく、千差万別あい変ることさながら人相のようである。

これが慶應大学教授の文章ですから、
戦後日本人の品格は地に落ちた、などとフンガイする國士樣も当時いたことかと思いますが、
坂口安吾がダラク論を書いてから廿年経った昭和四十年のルポで、
作者はこの三年後に逝去されてますから、最晩年、覚悟の筆なので、別にいいのだ。
この後ホイチョイの見栄講座を経たバブル崩壊後のモラルハザードのほうがひどかったしね。
それで21世紀日本大丈夫パナマ文書はさておき今回も頑張りたいので、
明るくなれるか別にして、たまたま今この本を読み終えたのも天の配剤と任じます。

頁243 キャバレー商法の楽屋裏
 洋服の子は申しあわせたように乳房の谷にハンカチをつっこんでいる。まさかそこに汗がたまるわけでもなかろう。それとも、酔にまかせた客が、ぐっと手をつっこんだときに、いくぶんの防衛の役にたたせようというのならば、これまた色気ない話だ。そんなときには大いに嬌声を発しながら、つっこまれた手の甲を上から抑えつけて、さもそれを拒むがごとく装いつつ、実は客の指頭にだけ自由を与えるようにしたとしても、そこは何百という客席のことであるから、そういう客の狂態も脇からそれほど目立つものでもあるまいにと、そんなことをぼんやりと考えるのであった。

どんだけヒヒじじいやねん、と思いますが、享年六十九歳か八歳の三年前ですから、
六十五歳定年制なら定年くらいの年で、じゃあまだ盛んか、いちばんおえんくらいか、
と思いました。キャバレーは福富太郎の手引きの店とフリの店のルポですが、
キャバレー王タロウ・フクトミのはからいで、熱海慰安旅行なども同行しており、
作者は、旧制中学には「解剖」というものがあったが、それが、頁281、酔った女たちによって、
しかも前世紀の末年に生れた衰残みるかげもないわが身に試みられようとは、
だれしも想像だにしないことであろう。一幅の戯画と称すべきであろうか、
妖異の画というべきであろうか、そもそもまた地獄変相図と呼ぶべきであろうか。

これを膂力の衰えを感じつつ、ナントカ必死に払いのけます。で、
頁239で、作者はキャバレーを江戸時代の水茶屋に比しています。

頁239 キャバレー商法の楽屋裏
 バー、ナイトクラブ、キャバレーという近代水茶屋のうち、最近にわかにキャバレーが激増した。というとさもキャバレーの新設がふえたためかというと、けっしてそんなものではなくて、法規がかわったために、従来バーとしてあつかわれていたものが、かなりキャバレーにくり入れられた結果そうなったというだけのことである。いままでのとり扱いだと、五十坪以上の営業面積を持ったものがキャバレーということになっていたところ、今度の改正規則では二十坪以上ということになったため、従来はバーであったものが、法規の上では自動的にキャバレーということになったにすぎない。だから“ぼくはキャバレーの雰囲気が嫌いで、もっぱらバーばかしゆくよ”なんて脂やに下っている少し頭のいかれた中老紳士が、銀座あたりのちょっと大きいバー、あるいはサロンなるところで、女相手に酒を飲んでいれば、本人はバー通いのつもりで得意になっているかもしれないが、この莫迦者め、知らないまに一番嫌なキャバレー通いをやっていることにもなるので、この法規の改変は、そんな意味ではちょっと痛快でもある。

オマエが痛快だ、みたいな。この昭和四十年小説宝石連載ルポは、
往年の永井荷風踊り子座談会を意識してるのでしょうけれど、それを遥かに逸脱し、
トルコ風呂や街娼…浜松のステッキガールまで取材しています。
緒形拳の『復讐するは我にあり』で、自らが絞殺した学者に成りすました拳が、
旅館の女将にステッキガールを頼み、
「おかしいですかな、学者がステッキガールを買っては」と言う場面があり、
奥野信太郎を意識したのかと思いましたが、幸運にもこのルポの掲載時期は、
映画の元になった事件よりやや後だったと検索で理解しました。

西口彰事件 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8F%A3%E5%BD%B0%E4%BA%8B%E4%BB%B6

頁237 浜松のステッキ芸者
 そのなかの一人は、和服で細い金の鎖を首にかけていた。これは往年の本牧、大丸谷あたりのチャブ屋の女の風俗である。

私も前世紀末少し浜松にいたことがありますが、その時は人妻キャバクラばっかでした。

頁256 大阪ストリップ地帯を行く
 昔、両国広小路に、「ソレつけヤレつけ」という見世物があったという。若い女が前を出して、三味線にあわせ尻をふると、見物人は先きにタンポのついた棒で、それを突こうとするのだが、尻のふりかたが巧みで、どうしても突きおおせるものがなかったということだ。

冒頭の女性陰毛の雅語もそうですが、頁191、温柔郷という言葉も、初耳でした。
花房とかは崔健の歌の歌詞にありますが、日本女人很温柔とかで使われる温柔に、
「郷」を付けただけで、そういう意味になるのかと。どんなランクを指すのだろう。
駱駝のシャンツなんかに出てくる、アンペラ掛けの土間の娼窟ではないだろうな〜、
いやいやそうかも、とか、思いました。

後半はこうしたエロ満開ですが、前半は世相漫談で、ごくふつうです。昭和三十年くらい執筆。
頁126、河井醉茗随筆集『南窓』は読んでみたいと思いました。Wikipediaには、
詩集しかないのですが、作者によると、散文の方にもなかなか味のある作品をのこしているんだとか。そのエッセーはどこに着地するかというと、
社会党批判なんですが。それにしても知恵者のいない政党である。
頁99、一掬いっきくの涙なき能わない気もちに誘われてしまう。
こういう文章がところどころにぽんぽん入ってくるから、読んでてよかったんだろうな。

頁51 臭いものにふた
 新中国にいった人たちが、蠅や蚊がいなくなったといって、みんながびっくりしている。ぼくも半信半疑だったが、いってみるとなるほど驚くほど減っている。そのくせ溝掃除をそれほど定期的にやっているともみえない。そこでよく聞いてみると、やはり問題は糞便の始末に意を注いだ結果だとわかった。
 中国ではもとから便所は毎日汲みとりにきていた。これだけでも日本より衛生的だったわけだが、それでいてその蠅のものすごさは汲みとってから後の始末が悪かったからである。楊柳で編んだ籠みたいなものに移しかえて、その籠をつんだ車が、長時間町角に放置されてある。これでは蠅のいない方が不思議である。今はこんな情景はまるでなくなってしまった。大きな木槽に移しかえられ、その木槽には厳重な木蓋がしてある。
 そしてできるだけ速やかに郊外にもち運んでしまう。もともと毎日汲みとりにくるのだから、これなら蠅の発生しようがない。条件としては日本よりも中国の方が好かったわけだ。籠が木槽に変っただけで、かなり決定的に解決されたことになったのである。

ハエ問題、こんな合理的な解説は初めて読みました。共産主義のモチベとか、
大衆運動とかと全然違う説明。見るとこ視る人は正鵠を射抜くのですね。

頁47 憂うべきことども
 “憂うべき教科書”というパンフレットが、民主党の手でばらまかれた。社会党はさっそくなにが憂うべきだといきりたった。
 この原理は至極簡単なことである。いってみれば教科書を種にして両党が喧嘩をしているだけの話で、教科書が政争の具に供されたというだけのことだ。
 ただ問題は、教科書が憂うべきか憂うべからざるものかと、ハムレットもどきに論議することは愚の骨頂であるとしても、こういうパンフレットを堂々と散布しているかどうかということである。この方がよっぽど心配の種である。ぼくは偶然の機会でこのパンフレットなるものを一読してびっくりしてしまった。このなかで声を大にして民主党が憂うべし憂うべしといっているのは、みんな片言隻句や、一二行の字句ばかりである。
 かれらは片言隻句や一二行にも執筆者の精神がよく表れるものだということであろう。
 とんでもないことである。
 いかに忘れっぽい現代人といえども、つい十数年前、蓑田胸喜の原理日本の一派が、この流儀で大旋風をまきおこし、ついに天皇機関説で故美濃部博士を屠った事実をおぼえていることであろう。後になってみて蓑田のやりかたはいつも片言隻句や一二行をとらえて云々する卑怯な手口だと、誰しもわかったような批評をしたが、“憂うべき教科書”は、まったくこれと同じやりかたではないか。終戦後十年にして、蓑田の手口が復活しようとは、いかになんでもびっくりせざるを得ない。

いつの世も変わらないんだなあ、と思います。21世紀もおなじおなじ。

頁28 日本人の頭と胃の腑
 近ごろ町に氾濫しているもののひとつに餃子屋がある。あれをギョーザというのは山東語をさらに訛った発音だと思うが、比較的簡単にできて、しかも安いときているから、これが流行するのはもっともなことである。ぼくの記憶するかぎり、以前にも神田辺の中国料理で餃子をつくっている店がないでもなかったが、今みたいに大流行しだしたのは戦後、ことに大陸からの引揚げが活発になってからの新現象である。

これもいい記録。ギョーザは中国では水餃子を指し、焼き餃子はクオティエだ、
くらいのことは書けたんでしょうが、書かなかった。餃子の北京語はヤムチャ
否、プーアル、否、チャオズ

装丁:林佳恵 作者十七回忌の一年前に編まれた本です。以上

女へんの話 (1983年)

女へんの話 (1983年)

【後報】
福富太郎制定のホステス戦陣訓の抄録があるので引用しておきます。

頁242
まず林芙美子の「花の命は短くて苦しき事のみ多かりき」にはじまって、「武士は武芸十八般に励み、つねに武具の手入れ怠ること勿れ」「己れ独りの功名心にあせり戦列を離れ、深追いして討死すべからず」「一将を得て満足せず、多くの首討取ることこそ第一の手柄功名と心得よ」「持久戦は味方にとって不利なれば、あらゆる攻撃の手を打つべし」「攻撃の最上の武器はサービスなり、この攻撃に会えば敵も振るいたたん、あざやかな合戦致すべし、大勝すること請合なり」等、およそ七個条の戦陣訓であるが、

一條抜いてあるようなので、全文知りたいです。
(2016/4/21)
ヤバメなので一條書けなかったのかなあ。

*1:

金子光晴 金花黒薔薇艸紙 (小学館文庫)

金子光晴 金花黒薔薇艸紙 (小学館文庫)