全集第九巻の前半部分、『ロッテルダムの灯』感想は三月十六日。
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芦屋と並び、日本屈指のゲーテッドシティーとして知られる帝塚山に育ち、父親が帝塚山学院校長で、しかし特に富裕階層でもない著者(頁247、よその家には女中や下男がいて、下男はオトコシと呼ばれていたとか。読んでいて漢字が分からず、「音越」かと思ったら、「男衆」だった)による、ありし日々の帝塚山紹介です。新興住宅地ですので、床屋が一軒しかなく、常連客はものすごいのだが、店は特に衛生的でもなく、おやじの話がおもしろいとか、往時の帝塚山学院や作者の家には見事なプラタナスの樹があったが、たぶん虫に食われていつの間にか消えたとか、そういうエッセー。当初の出版社(垂水書房・1965年 / 昭和四十年刊)からのを絶版にしてるのは、あまりに実在の人物や団体をべらべら書いてさしさわりがあったのかと思いましたが、初刊当時はたとえそうだったとしても、全集時にはもうだいじょうぶだあになってたんじゃいか。
頁203
(前略)娘が小学校の五年か六年のときであった。 ある日だれかが娘の顔をつくづくながめてこういった。
「―――まあお嬢さん、お父さんそっくりですわね。」
娘はその日家へ帰るなりくやし泣きに泣きだしてしまった。
庄野英二サンは昔の英語使いですので、頁204「ライト方面の長飛か右のハールフライ」頁213「ジョニーオーカーのポスター」など、イカス英語を知っています。日本語では、頁259、阪堺線を「はんかいせん」と呼ぶとは知りませんでした。「はんさかいせん」と読んでいた。そこの駅「勝間」を「こつま」と呼ぶのも知りませんでした。頁293、「樋」を「とゆ」と読んでいます。
頁213、浅井満洲堂という和菓子店があり、店主は愛国者だったが、一人息子が朝鮮師団から鯉登部隊で北支に出征し、まもなく戦死を遂げられたとあり、「鯉登」という名前はゴールデンカムイでしか知りませんで、マンガの鯉登中尉がのちにそうなるのかと思いました。
太平洋戦争、所属部隊の詳細を探っています。 - 陸軍軍人で「コイト部隊」と... - Yahoo!知恵袋
検索結果のなかの「労苦体験手記」はそのページ消えてます。ので、こういうふうにあげておきます。
頁298
当時大阪府には教護連盟というのができていて、男の中学生も女学生も映画館の出入りは禁止されていた。各学校には教護連盟担当の先生が一人ずつ任命されていて、その教護連盟係の先生にあ、映画の無料パスが公布されているのであった。教護連盟係は映画館を巡察し、違法学生を摘発教護(?)するのであった。
私の父などは女学校の校長であるにもかかわらず、ふらちであった。私たち中学生の兄弟をよく映画につれていってくれた。父が映画好きであったためでもある。映画館へはいるときには、
「教護連盟に見つかるといけないから、帽子をかくしておれ」
といった。私たち兄弟は学生帽をポケットにねじこんで、(以下略)
ガキ帝国か。こんなようなエッセー集です。帝塚山はゲーテッドシティーといいながら、勃興時はやはりカオスで、関西精神病院(作者の注記時点では現藤森病院)もあれば、難波病院という、赤線地帯の女性がメイン外来で、かつ入院する病院もあったとか。地元の言い方で、そういう女性を「オヤマ」というそうで、知りませんでした。その建物が、大領池という池のはたにあって、万代池という池のほとりには、同時期に建てられた、ほとんど同じかたちの府立女専(同。現府立女子大学)があって、外見がほとんど同じなので、よく間違えられたそうです。バカではないか。施工主はどちらも大阪府。で、その病院へ患者を搬送する車は、黒塗りの天井の高い大型の乗用車で、ある日、天皇陛下の行幸通行があり、大阪高等学校の生徒が配属将校の指揮で堵列して目迎目送することになったとき、予定時間に近いころ、ふつうのくるまと異なった、黒塗りの(略)走り去る車内から「げびた」黄色い歓声が沸き起こったということです。
『子供のころ』は文体が異なり、子どもっぽいです。まず文体から入ったのか。
以上です。