『「正史」はいかに書かれてきたか 中国の歴史書を読み解く』(あじあブックス042)再読

 苦し紛れ。装丁者―本永惠子

 大友克洋の『童夢』を探していたら出てきた本。

 アジアの文化を見つめ直す 
あじあブックス]
「歴史書の歴史」を読み解いていくと、まぎれもない「人間の歴史」が見えてくる!

 大修館のあじあブックスは好きなシリーズで、ちょこちょこ買っているのですが、これは、自分で手に取ったのでなく、ラインナップを見た以前の職場の人が、読むならこれだと云ったのが記憶に残っていて、別の仕事についてから買いました。

歴史というのは、記録に残っていないから「ない」のではなく、「こう書いてあるからこうなんだ」という考え方があり(それに反して野史や実際の資料や文物に基づいた実証史学の反駁やフォローがあるわけですが)そういう考え方に基づいた史書を読む際は注意して読みなさいよ、しかしそこにも書いた時代の史観やなんかが反映されておもしろい、といったような本だったと思います。

昨日も半沢直樹で、メール等の履歴をぜんぶサーバから削除して「ない」から立証出来ない、みたいな話をしていて、まあ権限があれば復元出来るのか、あっても復元出来ないのか知りませんが、資料をぜんぶ焼き捨てるというのは下策で、残してもいいような資料をちゃんと置いておく、捨てたり消去したり焼いたのはやったからだ、と、最後っ屁のようにえんえん言われなくてもいいようにする、無視してても、言い続けられるとそれが真実のように独り歩きする未来の可能性がある(真実かもしれませんが)というような現実のはなしがあり、それは、こうした数千年のアジアの歴史に裏打ちされているということが言えそうです、というような本で。たぶん。

三月くらいでしたか、休業も休校も、後世に残る資料としては、「要請」しかなかった、「要請」の名のもとに、全国民一丸となってそれに邁進した、という美しい歴史だけが残り、それが記憶になるんだろうなあ、みたいなエッセーがウェブで人気でしたが、そういうことです。ちゃんと記録に残しておかれたものがそういうものであると。あとはまた別に時系列でちゃんと整理された「野史」や資料がどれだけあるかだと思いますが、重箱の隅をつつかれて撃沈するようなものしかないと、つらいと思います。

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帯の、当時のラインナップ。野人とか死ぬほどなつかしい。こういうの、本に残してくれて本当によかったと思います。「くだらない」で捨て置かれたままでしたら、残らない。それはまた別の話か。

以上

【後報】

岡田英弘の持論じゃないですが、司馬遷経由の歴史観だけじゃなく、ヘロドトス経由の歴史観で、アメリカ公文書館みたいに、公史はあるけど、公開しまへん、みたいなやりかたもあると思います。あるけど見せないということですと、憶測でもの言った後公開されて全く違っていて赤っ恥かくの嫌だから、常識人による憶測が減少する効果がありそうな気もします。

(2020/7/22)