苦し紛れ。 先祖がむかし、勿論本土復帰後ですが、農協観光で沖縄に行った時、土産に、こぶりの国産パインと、足が早いので真っ赤になってしまったサトウキビと一緒に持って帰って来た本。私は農協観光に行ったことはなく、筒井康隆『農協、月へ行く』のイメージしかないので、バスガイドが精力絶倫で体力じまんのエロ親父に犯される旅行の印象が強いです。
日本最後の戦い : 沖縄戦記録写真集 (月刊沖縄社): 1977|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
国会図書館サーチやcini、webcatを見ると編者が書いてあるのですが、本書を開いてもどこにも記載はありません。読んだのは1981年3月の20刷。レイアウトは記載があって、瞬報社の山田博文という人。21世紀直前まで版を重ねていたようなので、どこかで編集者名を追記したのか。
復帰後の出版物ですが、本土発売元が書いてあったりして、トヨタと沖縄トヨタのようです。
巻末に参考文献一覧あり。写真提供は米国防総省・在沖米陸軍・在沖米海兵隊・在沖米軍戦争博物館・那覇市史編集室・沖縄県立平和祈念資料館・沖縄県観光開発公社・潮書房・米国立公文書館
戦火に苦しむ民衆の写真はあんましなくて、200ページ強の180ページくらいから後が、沖縄降伏後の民衆の写真です。要するに米軍の宣伝班が入って記録を残したのがそれくらいからってことで。この写真集には続編と、続々編にあたる戦後写真集《アメリカゆーの10年》がありますので、銃火に逃げ惑う群衆はそっちに入ってるのかもと。
この本を読んだことのある人は多いと思いますが、頁98の、艦砲射撃だかなんだかで斃れた非戦闘員の死者たちの写真。みんな、うっ、と思ったと思います。キャプションが、米軍の説明はそうなんだけど、これ、集団自決じゃないのと書いてます。この辺から少し批判的な記述が出始めますが、この本を覆うのは、勇敢に戦った日本軍への賞揚と、両国の敢闘をたたえる記述。
エイプリルフールの無血上陸のキャプションには、これまで熱帯で戦闘を繰り返してきた兵士たちにとって、亜熱帯の沖縄はより彼らの故郷の風景に近く、望郷の念を呼び覚ましたと書いています。
日本の狙撃兵も死力を尽くしたが、火炎放射器、TNT爆薬による爆破攻勢にはいかんともしがたかったとか、墜落死したパイロットの体にコンクリブロックが紐づけられていて、万一着水すると泳げるので生きて戻ってしまえるから、沈むようブロックを紐で身体に結び付けていたのではとか、そんな感じ。米軍撮影の写真ですので、夜間の斬り込み攻撃が失敗して、翌日白昼、血まみれで横たわる日本兵の死体を撮ったものが多いです。義烈空挺隊とか。菊3号作戦の写真では、頁92、曳光弾が、アシがヤケクソで定規で引きまくった線のように飛行場上空を飛び交う写真がすごいです。
一発撃ったら千発のお返しが来たという、半沢直樹でもありえないような彼我の物量差の中で戦闘は進み、投降を呼びかける"Come on"を、米軍は「構わん」といっとる、と聞き間違えたり、沖縄の人名でよくいるナベカマのカマーだと思って、「カマーン」「カマーならおらんよ」と返答したという話(頁146)がええ感じでした。
以上