上記ドイツ語はてきとうなグーグル翻訳。装幀・カット 北村紀子
元祖女子大生作家とウィキペディアに書いてある作者が、大学を出て就職して辞めた後、印税がなくなる前にまるっと旅行に行って書いた手記。今から読む分には、この中の誰と後に結婚するのか分かってるので、ネタばれ後の小説的な安心感とともにして読めます。
ぞうさんダンスで、さよならモスクワ : シベリア鉄道で行ってきたよ (講談社): 1983|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
頁88
隣の車両の、西ドイツからのツアーのおじさん、おばさんが八人ぐらい歌って、踊って、おばさんが食堂長に抱きついたりして、にぎやかにやってる。トレパンをはいたおばさんが、「ぞうさんダンス」をはじめた。片手をブラブラと左右にふり、前かがみになってもう片方の手を股のあいだから後に出し、両足そろえて、前に一歩、後に一歩、そして、トントントンと三歩前にでる。うたいながらそのダンスを踊り、食堂の通路をこっちにやってくる。ディアックが、
「わあ、ティピカル(典型的)なドイツのおばさんだあ」
と恥ずかしがる。
こんな旅。ユーレイルパスを持ってるので、使わにゃソン的に一気にギリシャまで降りたりしてます。青春18きっぷもそうですが、ついつい延々乗ってしまうんですよね。乗ってる分にはラクだし。それで、どうしても鉄道沿いの点と線の旅になるというか。バイクツーリングやってる人なんかから、それはちょいちょい指摘されること。私は国内で周遊券旅行一回だけやりましたが、暑いのでクーラーの効いたその区間の特急乗って何回も往復とか、そういう意味のない移動した気瓦斯。
前川健一が喜びそうな、バンコクは散歩、みたいなタイトルですが、バンコクはストップオーバーで三泊しただけで、最初カオサンみたいなゲストハウスに行くのですが、野郎ばっかりのドミトリーに馴染めず、最後はドンムアン近くの中級ホテルに移ります。黒人の兄ちゃんが宿から出ずにえんえん『アジアにおける共産主義』なんて本を読んでたんだとか。黒人バックパッカーめずらしいと思いました。でも宿から出ないのはなんとなく分かる気がする。バンコクでなんとなく見切った感が出て、当初はマニラでもストップオーバーするつもりが、やめて一路帰国してます。
この本のラストは、成田から当時の国鉄で東京駅に出て、山手線に乗り換えるところで終わっていて、確かにそこまで書くべきと思いました。私は京成で上野に出て、上野から早稲田行きの都バスに乗ってました。あと、なんか、鑑真号から南港着いて新幹線で新横浜まで乗って、浜松のあたりで、ホント日本ってハゲ山ないよな、植林か、いやいや、高温多湿だからだろうか、と思ってみたりとか、そういうの思い出しました。
1982年10月出発、1983年3月帰国。使ったお金は百万円くらいとのこと。一ドル210円くらいの時かなあ。大学時代に欧州バックパック旅行の経験あり。メモをとってなくて、記憶だけで書いてるのですが、会話とかよく覚えてるな~と。下はドイツでセスナ機に乗った時の話。
頁156
フランクの家へむかう車のなかでもキャサリンは興奮がさめやらず、助手席で、アメリカ人らしくオーバーに、
「ねえ、ディアック、なんて、なんてステキなながめだったの、美しい家々、森、そして青空と白い雲、あたし自分が空を飛んで、あの美しい景色を自分の目で空から見てきたってこと、とても信じられないわ、ほんとうにすばらしかったわ」
(略)わたしはバックシートで横になり、日本語で、
「あー、気持ち悪れえ」
ディアックは心配して、
「リエ、だいじょうふ? オエーしたいの」
(略)
「そう、もうすぐお昼だから元気だして」
わたしはまた日本語で、
「今、メシなんて食えないよ」
スイスのサン・モリッツでスキー教室に通うくだりなど、書くことがなかったのか、ほとんど飛ばしています。下記はボリショイバレエを見るくだり。
頁107
「おい、アンナ・カレーニナはどれだ」
彼は、アンナ・カレーニナのストーリーも知らなかった。説明してあげたら、
「リエはその本を読んだのか」
「じつは半分までしか読まなかった」
「それでどうして結末を知ってるの」
「とても有名なはなしなので、本を読む前から知っていた」
「じゃ、半分も読めば充分だな」
こんなわたしたちがバレエを見る機会なんて、もうないだろう。
でもコミさんのむすめなので、ニューヨークでは金はなくともミュージカルを二本、キャッツとエピータ見てます。それと安い映画館で旧作ざんまい、チャイナタウンの映画館では日活ロマンポルノも見たとか。思うに、ボリショイバレエは、バレエ観劇經驗のない人が見る回数世界いちのバレエ団ではないでしょうか。モスクワ観光の誰もが、幕間にクワスや紅茶キノコを買って飲みもって見る。正規のきっぷがなくてもダフ屋が来る。私が見たのは、白鳥の湖のブラックスワンがどうののやつ、アラベスクでノンナがコルパコーワ先生と踊るやつだったと思います。あと、チケット屋で、ボリショイと書いてあるので買ったら、ボリショイ混成合唱団だった。
油のういた料理を彼女は「ドギドギ」と形容しており(頁113)ギトギトはよく聞くが、ドギドギは初耳でしたので、検索しました。
コミさんの人が旧制福岡高校なので、その時代に覚えて娘に伝えたことばだったのでしょうか。
日本人の海外旅行ってそんなもんだったですが、日本人にばっか会う時もあり、日本人だと思ったら香港人台湾人だった時ばっかの時もあったりします。その後、時は流れて、韓国人がその世界に加わり、中国人も加わるわけですが、その辺になると私は知らないです。本書では、イタリア南部からギリシャまで、ルートが同じなのでところどころでいっしょになる、香港人の青年が出ます。頁174で、彼が箸を使ってパスタを食べる場面と、漢字を書いた時、"終於到達希臘"と書いたそうで、それがいっぱつで分かったので、近い国の人だと彼女は思ったそうです。でも、借りた金を即相手にも金額確認させながら返す場面や、悪くなったと思った食材を捨てる場面など、違いを感じた場面として書いてる感じ。
この人のホームページがこの世から消えてしまってるのは、残念です。虎は死して皮を残す。この人は本も書いてるけれど、それは若い時で、あとはホームページが公的な対外発信だったので、それが消えるというのは、いくぶん寂しいです。
以上