『週末』"Das Wochenende" by BERNHARD SCHLINK 松永美穂訳(新潮クレストブックス)SHINCHOSHA CREST BOOKS 読了

Photograph by Thomas Wrede "Waldweg / Forest Path" 2003 ©BILD-KUNST, Bonn & APG-Japan / JAA, Tokyo, 2011 Design by Shinchosha Book Design Devision

『朗読者』『逃げてゆく愛』と読んで、もう少しこの著者の小説を読もうと思って読みました。この話にも稀代のモテというか、ヤリチンヤリマンが登場し、物語に花を添えます。

頁75

 それから、誰かが自分を見ているのに気づいて目を上げた。ヘナーがTシャツにジーンズ、尻ポケットに両手を突っ込んだ格好で、戸口に凭れていた。

 

13

 

「いつからわたしのことを見てたの?」

 クリスティアーネはそう言ってからまた、いっこうにきれいにならないフライパンの上にかがみ込んだ。

「鍋を二つ洗うあいだかな」

二十年前に性交渉を持ったことを後悔している五十代男女(ともにまだ独身)の会話。前ポケットでなく尻ポケットに両手を突っ込むという仕草が、ひどくヨーロッパ的に感じられました。尻ポケットに財布を入れず、自分の手や、隣を歩く人物の手を入れ、布越しに感触を確かめ合う文化。前にも日記に書きましたが、一度試してみて頂けたら幸いです。チャーミーグリーンで手と手をつなぐより、ぜんぜん直球です。

男性のほうは、二十年前にこの女性の弟から、「やりまくりの半ケツ野郎」と罵られ続けたのですが(頁152)なぜケツの前に「半」がつくのか最後まで分からなかったそうです。裸族だったのでしょうか。

この小説では、少なくとも二組の男女が、初めて出会って性交渉にまで進むのですが、それ以外にも、二十年前の学生時代には「大きな乳房に人の目が集まらないように、姿勢はいつも少し前屈みだった」(頁12)と形容されたイルゼという女性(そういう白人もいるんですね)や、下記のような若い女性(主人公世代のひとりの娘)も出ます。

頁124

「『あなた』なんて言わないで。わたしはドーレよ」彼女は柔らかく笑った。「ドロテーアーー神の贈り物ってわけ。わたしを受け取ってちょうだい。もし刑務所でずっと男性たちと一緒だったというのなら……わたし、そういうのも好きよ」彼女はまた柔らかく笑った。「お尻にされるのも好きなの」

かつてテロリストだった男が、20年前に出所した週末。正しいと信じた闘いが決定的に損なったものを、人はどのように償いうるのか? 『朗読者』の著者が描く「もう一つの戦争」

上は裏表紙のいちぶ。お話の最初のチャプターでは、そこに出る人物の名前さえ明かされず、「彼」「彼女」でストーリーが進行します。やがて、会話に人物名が現われ、それぞれの視点からこの週末が描かれ、徐々に登場人物の全体像や各関係が浮かび上がってくる仕掛けです。読者に鳥観図が見えるのに時間がかかるので、ファスト読書がしたい方は、ヒューマンチートに今北産業まとめサイトを作ってもらいながらAIに読み上げてもらったらよいと思います。

Fuminori Nakamura 中村文則 ベルンハルト・シュリンクの待望の新作である。「テロリストのその後」に着目したこの作家の視点は鋭い。より大きなことを達成するためなら、犠牲は許されるのか。償うことのできない行為をした人間は、その後、どうやって生きていけばいいのか。人は人生との折り合いを、どうつけていけばいいのか。言葉が繊細で美しく、ストーリーには静かな起伏があり、何より人生への深い洞察がある。いい小説を読む時に僕がいつもそうなってしまうように、気がつくと微笑んでいる。僕はこの作家の読者で本当によかった。

上も裏表紙のいちぶ。頁8にだいたいの人物名が、招待リストとして出ますので、そこに栞を入れて、何度も新キャラが出て来るたび、このページに戻って確認しました。それでも、かなり序盤から登場するヤンなどはこのリスト外です。週末に客たちが招かれる家は、古民家ならぬ、貴族かなんかのお屋敷をいかした邸宅で、電気は通ってません。ホストがぜんぶ裏方をやるのでなく、ごく自然に、招待客が料理の支度や、後片付け、皿洗いを手伝います。水道は通ってますがお湯で洗うわけでなく、油物が多いので、シンクに水を張って洗剤を混ぜてそこに浸すやりかたをします。

Westdeutsche Allgemeine 西ドイツ・アルゲマイネ紙 シュリンクは大胆な論に光を当てることも恐れない。たとえば9.11の事件は人間の善意を引き出す契機を与えたとか、あるいは赤軍派のテロリストはナチスと同じくらい現実を認識できず、人の死を悼む能力もない、といったことである。それを彼はこれ見よがしに書くわけではない――抑制した筆致が、この本をより強力なものにしているのだ。

上も裏表紙いちぶ。

左はカバー折。

訳者あとがきは実に的を射たもので、若松孝二監督映画など、東西で同時発生的に沸き上がった、団塊世代による赤軍回顧の風潮を的確に指摘しています。本書刊行時点では重信房子のその後がまったく未知数だったので、彼女の名前は出てきませんが、私は読んでいて、いちばんそこと、この小説との対比に想いを馳せました。テロリストの子どもが学校や地域でどういう目で見られるかについて、本書とメイサンとではそりゃ違うんだろうなと。本書でも、ムスリムと共闘、連帯すべきか、彼らとレフティは連帯出来ないと考えるべきかで議論する場面があります。訳者あとがき時点では日本では服役中の元赤軍が恩赦の対象になるような動きはまったくないと書いており、ほかの人は知りませんが、重信房子が刑期満了だったこと、この小説の主人公は恩赦だったこと(当時のドイツの実例(賛否両論だったとか)に基づく)も、現在から見て対比になっていると思います。

ベルンハルトさんはもともとミステリー畑の人(大学の法律講義と兼職)だったので、このはなしも、「誰が俺をポリに売ってクサい飯を食わせたのか?」の犯人探しというミステリーの味付けもあるのですが、アホらしかったのか、そこはそこそこそです。どっちかというと、SNSの売名目的で、出所した左翼の大物と寝ようとした若いチャンネーが、失敗したその理由のほうが、読者をあっといわせたと思います。伊達にMMKを冒頭に登場させてはいなかった。それから青年の血を吐くような告白。導入が如何にも時間のない現代人にそぐわない鈍重な、文学的ギミックを使用した入り方でしたので、ここの告白の盛り上がりもそれほど爆発的にならなかったのが残念です。

https://www.netflix.com/jp/title/60034580?source=35

ステップフォード・ワイフ - Wikipedia

登場人物の現実が、上の映画のように扱いやすくなる夢の場面があります。私はこの映画未見です。

訳者あとがきの謝辞は編集者の佐々木一彦さんと、校閲の猪俣和夫さんに。以上