装画 富安健一郎 装幀:早川書房デザイン室
収録十三作品のうち、ふたつ目。1999年6月2日脱稿。クーホアンシージエkehuanshijieの2000年2月号掲載。
この話の感想は、みっつあります。ひとつは、避けて通れない邦題について。
目次で一目瞭然ですが、この作品だけ、聞き慣れない単語に日本語読みのルビを振っています。「地火」は中国語で、日本語では「地中火」になるのだそうです。
天雷勾动地火の意味 - 中国語辞書 - Weblio日中中日辞典
ナショナルジオグラフィックの本文を読むと、上の記事の「南西部の集落」は重慶直轄市の長寿区と分かり、重慶直轄市は、四川省があまりにデカいので、成都いっこの省都では手に余るので、、東の重慶を分けたわけなので、日本の政令指定都市よりさらにデカくて、町村合併の静岡市葵区が山梨と接するより広い郊外とお考え頂ければ幸いです、という。
上の動画は、AI翻訳のクルパー日本語字幕が邪魔して漢文字幕が読めず、いらいらしました。こんなにイカレた日本語になるなら、つけなくていい。
訳者陣も分かってのことで、本文中にちゃんと註をつけて、"dihuo"は漢語で、日本語では「ちちゅうか」になると明記しています。
固有名詞はほぼ出て来るたびに繰り返しルビが付けられるのですが、「ディフォ」という北京語カタカナ表記のルビが振られるのはここだけです。私はH音を「フ」で表記するのは心理的に受け入れられないのですが、日本語の「フ」が上下のくちびるを触れ合わせるF音でないのは客観的な事実ですので、まあしゃーないかなという感じ。それより、なぜタイトルに日本語の「地中火」でなく漢語の〈地火〉を使い、さらにそれに日本語読みのルビを振ったのか(ピンインルビを振るより日本語の漢音呉音で振るのがベターではありますが)が、知りたいです。
英題は上記から。上記頁32に登場する、清朝から燃え続ける新疆の地火が、地獄のような風景なので、そこから素直に採られた英題です。
思うに、これが漢字の持つ力で、知らず惹きつけられて、その漢字を使ってしまうのではないかと。私のように中途半端に漢語を齧った人間ですと、もう「じか」と読む世界には戻れず、かつての開拓団や租界の邦人のように、日本語の文脈に"dihuo"を混ぜてさべってしまうほうが自然な気がしてしまい、もう〈地火〉と書いて「じか」と読んでなんらかの感慨を得ることはできにくく、おそらくそうした半可通は漢語世界との接点が多くなればなるほど増えてゆき、それで中国と地続きに接した朝鮮半島では漢字廃止にまで踏み込んだり、それでなくても、日本語のように文章中に漢字を取り混ぜることが多くないのではないかと思います。漢字を見て、脳内でハングル読みと漢語読みがバッティングするレベルの人があまりに多かったんじゃいかと。素読みたいなことやってる世界だと、特に。日本語読みとで混乱するから廃止したが定説いやそれはry
日本の現代漢語文学邦訳の歴史は、現代漢語文学が始まったと同時にスタートしたと言っても過言ではなく、魯迅から郭沫若から今日に至る積み重ねの中で、それなりのノウハウが蓄積されたと考えていいと思います。それに対しエスエフは、中国の科幻文学が新しいジャンルなら、日本でそれを訳す人たちも中国文学研究畑とはべっこのSF畑の人間で、手垢がついてない、まっさらなニュートラル状態で訳すのはいいとして、このような漢字の持つ魔力の陥穽に関して、無防備なのかもしれないなと思います。中文邦訳の専門家の教唆、チェックなども実はされている、あるいは必要性を認めてコネクションをつくった、などの動きがあればいいのですが。これが第一の感想。
ふたつめは、さびれた不景気な炭鉱町の風景について。
頁27で「ベンツで来たのは場違いだったな」と言ってるベンツは、上海製のサンタナじゃいかと思いましたが、サンタナはフォルクスワーゲンなので、ちがった。しかし、この時代、田舎に幹部が乗りつける車というと、どうしてもサンタナを想起してしまいます。
Chairman Mao en route to Anyuan - Wikipedia
頁28、鉱山局に大きな複製画が掲げられているという、劉春華が1967年に描いた「毛主席、安源に行く」は検索ですぐ見つかりました。
主人公の、劉サンによく似た名前の劉欣サンの友人の李民生liminshengにミンシェンとルビを振るのはご愛敬ですが、彼のパートナーが、ハズと娘を残して、カナダに海外移住という記述(頁35)を読むと同時に、《杀死那个石家庄人》的歌词ジャナイデスカと思いました。
"妻子在熬粥" Qizi zai Ao Zhou.
この話が国営企業衰退期の地方(が起死回生の一発逆転を試みるがいんへるの)を描いて、次が《乡村教师》でしょう。けっこうグッときました。
民生minshengがミンシェンと書かれるのは、"eng"の音が日本語にないので仕方ないのですが、お話が百二十年後の未来に移って出て来る、斯亚siyaにスー・イアとルビが振られてるのは、当方シロウトながら、まったくげせないです。スーヤーでいいじゃん。亚洲病夫yazhoubingfuはヤージョウビンフでしょう?
みっつ目は、ウイグル人アグリについて。この小説の邦訳がウイグル人をウイグル族と書いてるのは、重慶出版集団がそこまでチェックしたかどうか知りませんが、してると仮定して、仕方ないですが、アグリという名前はあまりムスリムっぽくもトルコ系民族っぽくもないので、農業のアグリと火神のアグニをかけて、なんとなくのふいんきで作ったキャラだべと思いました。原文の漢字だと、なんと書いてあったんでしょう。(⇒《阿古力》"aguli"。2022/11/26追記)
彼の出身故郷を新疆にしたのは、火炎山があるからくらいの意味だと推察します。火炎山があるから新疆で、新疆の少数民族はウイグル人が多いからウイグル人にして、的な。頁48に「劉博士、今生では罪を償えない」という彼のせりふがありますが、イスラム教は死んだら天国地獄で、生まれ変わりはない認識なので、来世で償え的なこの科白は、輪廻転生を信じるチベット仏教信者のせりふだよと思いました。執筆中、彼の民族をどうするか固まってなくて、ブレたのかもしれないです。(⇒原文は "刘博士,你此生很难赎清自己的罪了。" で、「劉博士、アンタ今後一生かけても罪を償い切れないよ」と読んでもよく、それほど生まれ変わりを意識したような科白でもないかったです。2022/11/26追記)
やっと書けた。この短編は、「あの石家庄人をころせ」的停滞世界を、SFだけが持つコペルニクス的転回力でなんとかきこしめしてやろうという、意欲作だと思いました。私も昔の人なので、ほんとにバカで、ほんとに苦労しただ。以上
この人のピンインカタカナ名は、「ツ」と「シ」の書きわけが出来てない人には鬼門。