カバー 九里洋二 解説 尾崎秀樹
これも、ボーツ―先生と福田和也サンの対談で読んでみようと思った本。どういう文脈でこの本が出たのかは、忘れました。
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近隣の図書館には蔵書がなく、他館本リクエストをしてもいつ読めるか分からないので期限内返却厳守を考えると気が重く、ブッコフは在庫なし、日本の古本屋はボッタ価格でしたので、アマゾンで¥195の出品送料¥350を買いました。買ったのは角川文庫版。
簡易検索結果|「森村桂 香港へ行く」に一致する資料: 12件中1から2件目|国立国会図書館サーチ
1970年に講談社から単行本。1979年に角川文庫から単行本。読んだのは1983年の五刷。
私は著者を「もりむらけい」とずっと読んでいたのですが、「もりむらかつら」であることが分かりました。やまだふうたろう、うんのじゅうざ。
解説によると、著者の父親の豊田三郎という人は、1939年『北京の家』という北京を舞台にした小説を発表しており、それなりに中国に親しんだこともある人だったようです。ウィキペディアにはそう書いてありませんが、尾崎秀樹の解説によると、そんな感じ。
頁230
(略)「香港へ行く」の裏には、お父さんである豊田三郎への思い出がかさなるように感じられてならない。
だとするならば、「香港へ行く」などと遠慮することなく、「北京へ行く」「敦煌へ行く」とやってもらいたいものだが、そこを「香港へ行く」でガマンしているところが、いかにも彼女らしい。
尾崎秀樹サンはどうも英国植民地香港を、中国より下に見ているような気がしなくもなく、「ヤムチャの味も香港より広東の方が本場だと思っている」と、文革がなければそうだったでしょうが、でもね、みたく読んでて思ってしまう文章を平気で書いてます。1979年の解説なので、まだまだ文革の真相は知られてなくて、文革礼賛派はぜんぜんこたえてなくて元気だったんだなあ、という。罪ですね。
山口文憲サンがべ平連の秘密拠点づくりというわけでもないでしょうが(時期が違う)(阿奈井文彦サンがサイゴン郊外の邦人農園に住んだのも拠点づくりではないと思います)香港に住んだのが1976年で、『香港 旅の雑学ノート』を上梓したのが1979年。森村本のが先行すること数年、1ドル360円時代の、海外団体旅行のハシリもハシリに参加して、対する中国は大陸が文化大革命真っ只中、珠江を広州からバンバン死体が流れてきたとか来ないとかの時代で、その時代の対岸英領ホンコン。郑义《红色纪念碑》(邦訳は黄文雄『食人宴席』)の反対側の記録という感じで読んでしまうことも可能です。そう思うと、尾崎秀樹サンの解説はエグいことこの上ない。
頁232
(略)だとするならばどうしても一度は北京へ行き、「森村桂北京へ行く」を書いてもらう必要がある、とあらためて私は思うのだ。
森村さんが北京へ行ったらどうなるだろう。お父さんがいたあたりはどこか探してみるかもしれない。いや第一に北京動物園に行って、パンダや四不象しふぞうに御対面し、お客さんのほうを見てくれないパンダに向い、「ナマケモノ」と言い、北京烤鴨カオヤァ店で北京ダックを、東[竹來]順とうらいじゅんでしゃぶしゃぶを、お菓子ならば北海公園の中のどこそこ、といった具合に、森村さんらしいスケジュールでまわることだろう。
王毅はんの師匠、唐家旋はんの若き日の通訳姿も活写される有吉佐和子の中国レポート*1は本書より前なので、尾崎はん、それ読んだ上でこれかという。人間は見たいものしか見ず、知りたいものしか知りたがらない。この頃北海公園に行ったなら、江青の爪痕が、まだあちこちで見れたかもしれません。
話を戻すと、この本は森村桂サン初のパックツアー参戦記でもあり、1ドル360円時代の邦人海外旅行記でもあり、当然ご本人は(ライターでもあるので)団体行動の和を乱すことこの上もなく、朝食寝坊マカオツアー腹痛で不参加などのレベルではもちろんなく、全員の荷物チェックを終えてからバス移動なのに勝手にタクシーに乗ってカモられたり、行先のホテル名を覚えてなくて何度もタクシー乗り直してさんざん迷走したり、どんどん貧民窟(大陸からの難民が住むバラック)に入って子どもなどにカメラを向けて、謝礼を要求されたりなんだりばっかりしたり、土産物屋勤務の、現地で結婚した邦人と親しくなって家に遊びに行ったり、かと思うと香港の富豪の住環境も見なくては、と、高級マンションや香港島の富裕層の邸宅をコネで紹介してもらってのぞいたりします。けっきょく、土地がないので、どんな金持ちも面積的には大豪邸に住めないんだとか。後年はそれを、白人主導で、小島に住むなどのブームが起こり、打開するのですが、この頃はまだのようで。
ご本人の奇抜な行動もさることながら、ほぼほぼ女性ばかり約百二十名のパックツアー参加者たちがハンパでない情報共有力を持っていて、その集積が本書に厚みをもたらしています。これはすごいと思いました。自分ひとりのひとりよがりな旅日記にさせてくれない。必ずほかの参加者など、他者目線からの矯正が入る。三人寄れば文殊の知恵と言いますが、百二十名の五日間の団体旅行なので、人間がひとりひとりちがうことを踏まえると、六百日分の体験が凝縮され、そこからセレクトチョイスされたいちばん面白い経験だけを読者はつまみ食い出来るわけです。「そとこもり」が一年やそこら毎日昼まで寝てそれから食事と日常のこまものを買ってるだけの生活続けるのとでは、濃密さがまるでちがう。勝負賭けて外貨持ち出し制限何するものぞで持ってきた数十万円をプラスチックのインチキ宝石で溶かしてしまう人など、本人がブログに書くような時代ではないので、プロの物書きが救い上げなければ、消失するだけ。『香港 旅の雑学ノート』はあれはあれで面白いのですが、こういう旅行記も大変面白かったです。
ツアーは五万五千円で四泊五日。ただしこれは女性週刊誌の懸賞ヒモつきで、それがない一般参加は八万八千円。頁9。とある料理学校の生徒さん二十名の団体参加込み。
零日目:夜間着。
初日:午前中クーロンから新界。昼食ヤムチャ。午後は香港島。夕食はサンパンで行く水上レストラン、海鮮料理。
二日目:自由行動(という名目で契約した買い物店に連れて行かれる。旅行社のマージン20~25%。頁162)昼は日本料理、夜はナイトクラブでショーを見ながら食事。
四日目:午前中ショッピング。昼上海料理。午後フライト。
※中国料理はすべてフルコース
森村桂サンはこれまでの個人旅行もすべてガイドを雇ったりしていたそうで、個人でそんなことやってたら、おぜぜはとんでもないことになっていて、団体だけ安くてずるいとずっと思っていたそうです。一度にたくさんお金が入るわけだから、多少割り引いても儲けが出るのが団体、と、この旅で開眼したとか。
頁26
オレンジジュースに、紅茶にトースト、これに小さくパックしたバターとマーマレードとアンズジャム、団体だからこれだけかと思っていたら、スクランブルエッグにベーコン添えまで現れて、私は感嘆して、ため息をつく。団体で来なきゃだめだ。この食堂だって、団体客はいばって席につき、キャッキャいいながらごはん食べてるけど、もしここに一般の私が坐って注文したって、いつになったって来やしないだろう。それは私が充分経験ずみだ。
合衆国やヨーロッパで経験済みだ、という話だったら、ぜんぜんニュアンスがちがう気瓦斯。国内旅行ではどうだったんでしょうか。
初日に国境を見るわけで、そこで、香港でどんなに貧しくても、大陸はそれ以下で、自由もないので、絶対に帰らないみたいな難民の声を聞くわけです。尾崎秀樹サンはここを読んであんな解説、よう書くわという。プロパガンダと思ったんでしょうかね。鉄条網の向こうは、文革。シンセンのシの字もない時代です。
お金持ちの話は、ほかでも聞いた覚えはあるのですが、日本では高給取りの女性でも結婚すると家事をせねばならず、それが労働時間のマイナスなど負担になってくるが、香港では旧来より阿媽の制度が確立されているので、家事なんぞに煩わされずに、女性は夫と同等に家業の商売の切り盛りに邁進出来る。という話が出ます。阿媽は家事と家計のイニシアチブを任されていて、日本の「お手伝いさん」が、ほんとにお手伝いだけで、何一つ決定権を持たず、何をするにも「主婦」のおうかがいを立てねばならないのと対照的なんだとか(ちむどんどんの鈴木保奈美邸は、お手伝いさんが阿媽っぽいと思います)で、財布を握っているということは、なんぼでも中抜き可能なので、食材仕入れやら何やらで、スレてなくてもいろいろ仕掛けてくるので、そっちには絶えず目を光らせなくてはいけないそうです。そりゃフィリピン人ばっか雇う方向にパラダイムシフトするわけだと。同じ漢族だと何してくるか分からん。子どもは小さい方が阿媽から喜ばれるんだそうで、手がかかるのにと思う著者に、小さい子は食材ケチって三食肉抜きでも文句言わないというか、何が当たり前か知らないのでチョロいから、だそうです。なるほど。そういうのがあると、絶対邦人は「だからやっぱり母親が愛情注いで手料理でポテサラ以下略」と言うかどうか知りません。頁163。
頁114、香港の中華料理は甘くないんだそうで、だからいくらでも食べられてもたれないとか。日本料理が中華料理に比べて砂糖を使うので、在日中国人は砂糖のせいで早く老けたり白髪が増えたりすると、中国人から聞いたことがありますが、広東料理や上海料理は砂糖を使うと思っていたので、ここは意外でした。街中華は邦人の舌にあわせて、砂糖使ってるってことでしょうか。
もっとも、四日目の北京料理は、著者は金持ちの家にお呼ばれしていたのでパスでしたが、衛生的にも味的にもさいあくだったそうで、尾崎秀樹サンが、ほれ見たことか、やっぱりペキンに行かないと、と言い出したくてウズウズしたかもしれません。あと、マカオのポルトガル料理もだめだったのかな。著者はお金持ちの家や、宝石職人さんとこでリーオゴのゴチになってるので、伝聞なのですが。
日本のお嫁さん(神戸出身)が嫌だと思う現地の習慣は、直箸。直箸で取り分けてくれるやつ。これは私もおおいにイヤです。頁194。で、七章目の、「カチ中国」ということばだけ、まったく意味が分かりません。今でいう「ガチ中国」の意味ととるとすんなり理解出来るのですが、むかし「ガチ」の意味で「カチ」という言い方があったなんて、聞いたこともない。「カチカチ山」のカチでもないでしょうし、徒歩(とほ)の意味の「徒士(かち)」でもないでしょうし、なんだろう。観光用のリキシャに乗る場面があるので(それも土産物屋で買った黄色い人民服を着て)それで徒歩の徒士なのかなあとも思ったですが、強引な解釈というもの。
ハングルの「カチ」でもないだろうし、ほんとうに分かりませんでした。このような、ガチ死語とでもいうべき口語に、時々出会います。むかしの本を読んでると。
そういえば、カチ栗という言葉もあったので、追記しておきます。20230309
以下、現地人(中年男性の紳士)との筆談。
頁135
我是広東人
「陳永富」
九竜新界藍地田柱園富麓場
我很願意和称(你と思われ)做朋友、是否イ禾(你と思われ)願意鳴(嗎と思われ)?
如称(你と思われ)有空、請我敝場小座
下記が森村桂サンの返事。
頁136
私日本人、名前森村桂 貴方好意有難。
後書手紙
「有難う(ありがとう)」の意味でヨウナン、younan, 難が有ると書いてるので、もう大爆笑でした。相手がこの文章の意味が分からないので、同じ漢字じゃないかと強弁したが通じないので、「サンキュー、グッバイ」と、おごってくれた相手と別れるのですが、相手は意味が分からないのでなく、グイファンハオイーヨウナン、あなたの好意は難が有る、迷惑です、困るっ、と言われて、えっ、なんで、となっただけではないかと。日本人筆談迷文シリーズでしょっちゅう聞くのが、公安に謝罪文を書かされて、「我あやまる」"我謝"、と書き、なんだそりゃと突っ込まれ、もう一度「あやまる」と書いて"我謝謝”ウォーシェーシェー(わたしありがとう)とやって公安激怒劇場、ですが、ちょっと出来すぎた感があるので、これくらいの相互誤解がリアルだと思います。
森村サン自身も相手の文章は、住所が書いてあって、「朋友」ってとこしか分からず、帰ってから、ナンパだよ、自宅に誘われたんだよ、と周りから言われます。危ない危ない、ここはホンコンでっせ、と。
カバー折。森村桂~に行くシリーズは、アメリカ日本沖縄パリ香港と続き、以降ありません。初の団体旅行ということなので、それ以前はすべて、1$360円時代の個人旅行(バックパッカーでも留学でもない)だったのかな。この後、山口文憲サンがあって、島尾伸三や星野博美が豊富な写真つきの香港本を書くようになって、という流れと理解します。戦前の金子光晴なんかは、日英同盟破棄後、邦人勢力の膨張を英国に警戒されたのか、香港にはロクに上陸さしてもらってなくて、ので、邦人の香港滞在記の本格化は、戦後を待たねばならなかったと思っています。
森村桂という人はあまり存じてなくて、メンタルの話や、自裁の話など、その後の人生の話をウィキペディアで読んで、感ずるところは多いです。河出は山口文憲サンの雑学ノートのほうも出した(電子版なし)わけなので、これも出してみてはどうでしょうか。売れないかな。だめかな。以上