五島美術館 館蔵 秋の優品展 白・黒・モノクローム(Black, White and Monocrome.)"MASTERPIECES OF ASIAN ART FROM THE GOTOH MUSEUM COLLECTION: PAINTINGS, CALIGRAPHY AND CERAMICS." 鑑賞

証明写真を撮りにニコタマに行ったついでに見ました。午後から雨の予定が、着いたら異様に蒸していて、今年の東京はこんなんなのか、多摩川沿いなのに異常や、と思ったら雨がぱらぱら降り出して、しかし強くはならず、でも遠雷が聞こえ出したので退散しました。

10月7日から紫式部日記絵巻(国宝)の一部展示があるそうで、見れなくて残念閔子騫でしたが、吉高由里子には来年ブラウン管越しに逢うことにすればよいと思い直しました。でも大河見る時間はないんだろうな。鎌倉殿も見てないし。

ブラックアンドホワイトということなのですが、焼き物はハッキリ白が残るし、朝鮮の白磁も展示されてるので、白でよいのですが、紙はやっぱり黄ばんで茶色くなってしまうので、余白のシロを楽しむ感じにはならなかったです。なんぼなんでも室町時代鎌倉時代の書画の余白にブランカやビアンコを求めるのもなんかおかしいやろと。

そういうわけで黒織部沓形茶碗銘「わらや」とか、大阪の造幣局のほうの東洋陶磁美術館でもイヤというほど見た白磁なんかはまじまじと白い部分を鑑賞し、書画はそうでない鑑賞の仕方をしました。

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やっぱり日本は仮名文字に対して真名(=漢字)の時代が長かったんだなと思える、漢字名の展示ばかりでした。上の「のんかう」含む陶芸と昭和以降の書に、ひらがな、否、真名(=漢字)以外の字がやっと入ってくる感じ。

副島種臣筆の謝霊運詩軸がふと目に止まり、それはなぜかというと、

「韓亡子房奮秦争 

 魯連本自江海入

 及義感君子」

という書の字のほとんどが隷書みたいだったり崩してあったりで書いてあるのに、ほぼ真ん中にある「」だけがキレイな楷書で書かれていたからです。私がこんな文章を掛け軸でそのままスラスラ読めるはずもなく、館内は撮影禁止ですが、よしんば撮影出来たとしても、グーグルレンズがこんな書を写せるはずもなく、学芸員さんの起こしてくれた説明文でやっとコレクトな漢字を知ることが出来るわけで、学芸員さんには感謝感謝大感謝です。むかしはここまでやってないかった気もしますが、時代の要請なのでしょうか。

一山一寧の説明に「当初スパイと疑われ」とあるのもよかった。

一山一寧墨跡 「園林消暑」偈 | 公益財団法人 五島美術館

一山一寧 (1247~1317) は、 正安元年 (1299) 外交使節として来朝した禅僧。 当初は間 諜(かんちょう スパイ)として疑われ、 伊豆等に幽閉されるも、後に許され、鎌倉・建長寺に入り、 さらに京都・南禅寺第三世となった。 儒学や詩文に秀で、 日本の五山文学に多大な影響を与えた。 特に草書体を得意とした。 

尹大納言絵巻断簡は、絵より、尹という漢字がなぜ日本の人名から消えたかなあと想像する方が楽しかったです。その代わり、にんべんのついた、「伊藤」の「伊」が幅広く使われるようになった。逆に中国や韓国ではそれほど「伊」を見ないです。イーキン・チェン(郑(鄭)伊健)か、カザフのイリ(伊犁)とかイーニン(伊寧)で見るくらい。

イーキン・チェン - Wikipedia

書と云うのはなべてそうなのか、蘭亭序にまつわる展示が多かったと思いました。

室町時代の禅僧だからなのか、四文字の漢字の名前が結構多くて、契丹人の影響でもあるのかと思いました。明が興って北方に駆逐された転戦した北元の中にいた契丹人が、日本に与えた影響があった、なんて適当に考えてみるのは楽しかったです。清拙正澄*1、鉄舟徳済*2はまだ和風の名前ですが、愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)*3見心来復(けんしんらいふく)*4になるとなんか説教講話臭が強くなり、玉畹梵芳(ぎょくえんぼんぽう)になると、勝手な言い草ですが契丹の風を感じてしまいます。

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愚中周及と見心来復の師は漢人で即休契了という人だそうですが、この人は「そくきゅうけいりょう」とは読まず、「しっきゅうかいりょう」と読むんだとか。

布袋図 愚中周及筆 見心来復賛 | 公益財団法人 五島美術館

愚中周及 (1323~1409) は、美濃 (岐阜県)出身の臨済宗の僧で愚中派の祖。 元時代の中国に渡り、即休契了(しっきゅうかいりょう 1269~1351) に師事した。本図は中国での修業時代に描き、持ち帰ったものであろうか。 見心来復 (1319~91) は、周及の中国の留学先での同門の禅僧。 儒学や詩文に優れていたという。 

ほかのサイトを見ますと、「しっきゅういりょう」と読むところのほうが多いのですが、あえて「契」を「カイ」と読む五島流を覚えておきたいです。

五島一族のファウンダーは、清巌宗渭墨跡「萬里一條鐡」が好きだったそうで、もちろんそれは一帯一路とは関係なく、鉄道のレールを連想させるからだとか。ワンリーイーティアオティエ。

今回は庭園は通らない予定でしたが、やっぱり通って、ニコタマに出て帰りました。

以上