『1984年に生まれて』《生于一九八四》郝景芳 "Born in 1984" chapter 5. by Hao Jingfang 第五章読了

前半は父親が下放時代知り合った農村チンピラと、天津発北京経由広州行き、二泊三日ハードシート(硬座)の旅。ごった煮状態の車内で三々五々そばの人間と会話します。深圳では一日三十元も出稼ぎで稼げると興奮して話す農村少年、北京無線工場勤務というエリート職を、長期休暇でなくスパッと辞めて(私も読んでてめずらしいと思いました。籍を置いて別の仕事をする人ばかりだったのに。警官でありながら超神田寿司で寿司を握る両さんのように。)広州に向かう理系青年は、中関村でもう技術系ベンチャーが設立されていると語り、朦朧詩について語ります。ここで張大明という人名が出るのですが、誰だか分かりませんでした。主人公の時代に河南大学から《中国象徴主義百年史》を出した人でしょうか。

ふたつ、小説が出ます。

頁127

あぶ (講談社): 1981|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

ja.wikipedia.org

頁137

野生の棕櫚 - Wikipedia

文革時代リンチで健康を損なったのが原因で死亡した父親を富農の知り合いが自分で埋葬する場面、その時代は埋葬許可もクソもだったのだろうなと思いました。

下記は80年代深圳の風景。

頁132

(略)羅湖ルオフー駅ではまだ天秤を担いで線路を越えてくるものが大勢おり、駅前の広場は黄土がむきだしのままだった。通りの家屋は多くが民国期のままの低い二階屋で、白い壁は雨水が侵食して黒ずんでいた。行き来する人々は麦わら帽子をかぶり、裾をからげて自転車に乗っている。熱帯植物が青々と生い茂り、六メートルほどの高さの「祖国のために歌声を挙げよう」という宣伝画を彩っていた。棕櫚の木々の下には人々が寄り集まり、近郊の田畑は一面に水が張っている。けれども深圳はまた、他とは全く違っていた。通りでは鮮やかな服装に着飾った香港人や台湾人がおり、時には金髪碧眼も目にした。(略)そして最後に二人で新しくできた展示即売センターに行き、そしてそこで二人が必要としていた人物にうまく会うことができたのだった。

私はギリ中国で天秤棒担いだ旅行者に出会えたクチで、北京でほんとに荷役をするラクダを見たこともありますが、すべては黄砂の彼方。

中国にはアルゴリズムがあって、だいたいこういうのは締めつけと見て見ぬふりの泳がせ時期が交互にあるわけで、その情報を事前に知っていればインサイダー無双ですが、そんなコネもない父親らは、けっきょく虎の子の外貨為替をぜんぶパーにします。厳打で投資額の回収も出来ず、買い付けたモノも入手出来ず。

一方、主人公は、2006年の職場ですが、にもかかわらず、職場の飲み会で酔った際に、出来るだけオブラートに包んで云ったハズの職場と上司へのグチが、茶坊主あるあるで上司に密告され、呼び出しをくらって、”你有没有意见对我?“みたいなことを言われてしまって、顔が真っ赤に火照ります。中国語の〈意見〉"yijian"は、日本語の「意見」より、なんというか、「意見があるのデスカ」ではなく「文句あんのかキサン」みたいな感じと聞いたような聞かないような。

”我受不了这样生活。八点骑自行车上班,看报纸,和同班聊天儿,中午回去吃饭午睡,再上班喝茶,四点下班,去幼儿园接孩子,买菜回家。我真的受不了这样的生活。可是,可是,……我,只是想,日本有机会…………“ 私はこのようなことを、新宿の小便横丁の、当時は閔北人ばかり働いていた居酒屋で、前世紀末聞いたのですが、それもまた光芒の彼方。

以上