『鷄の聲』読了


作者 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8C%E6%81%92%E5%AD%90
兄がイギリス人と、夫の兄がフランス人と、共に国際結婚して子をなしていて、
自身の娘もアメリカに留学してアメリカ人と結婚して子をなす、
という経験について書かれた箇所がこの本にあるというので読みました。
「新潮」昭和三十七年二月号初出の『會ふは わかれ』がそれでした。
竹を割ったように、カラッと明快に割り切って、娘の人生は自分とは違う、
会わなければ無理に会わないでいいや、という思い切りが書かれていました。

アンナ・カレーニナが好きな小説ということと、これは関係なさそう。

留の𦾔字が「畱」だと初めて知りました。面白い字です。

頁18「春日遲遲」、日光室の中にさらに温室を作って電球で温めていて、
鉢を夕方になると移しかえるのを三月のある日ころっと忘れて、
ベゴニヤが全滅する話。何も鉢を移動させたり電気焚いたりしなくても、
夜は蓆などの寒冷紗をかけてやればそれでいいんじゃん、と思いました。
出入りの庭師さんなどいるそうなので、諫言あったと思うのですが。

頁81「眞珠」
一體に、三重縣人といへば、たとへにもある通り、儉約で貯蓄にはげむ血筋があるらしいが、海女とて例外ではない。みんな夫婦ともかせぎをして、ためられるだけはためたいといふのが念願であるから、働けるうちは働くのである。私たちが想像するやうな、純情で情熱家で、夢のやうな戀に火を燃やすことは、まづまづ現實にはなささうな顏つき、口ぶり……經濟觀念の發達したしつかり者揃ひのやうに見うけた。
 美しい入江の嶋へいつて、美しい海女と夏の戀をしてみたいなどといふ不心得者があるとしたら、さぞ甘い夢を粉砕されることであらう。

プロスティテュートとしてのワンナイラヴ島が存在した時代と、
クロスしなくて作者は幸いだったのか、はたまた知らなかっただけなのか。

頁88 旅ごころ「弱いものいぢめ」
車内禁煙といふことが、やつと此の頃定着したが、ついでに、禁酒車はいかが。ひと度、グループが汽車電車に乘れば、當然のやうに、酒宴めいたやりとり客の多いこと。一時間や二時間の汽車でも、すぐ飲み出す。
 私は、お酒を飲んでいけないとは言はない。飲みたい人は、他人に迷惑をかけない飲み方をして慾しいと思ふ。車中は、言はば、往来で、私的な道ではない。公的な道路と同じである。十月二十五日の夜、私は、旅行地から名古屋で、こだまに乘り換へた。
 私の席には、酒を飲んでゐる男が二人、椅子の向きをかへて、足を乘せ、飲んだり食べたりしてゐた。
「あら、ここは私の席ですが、」
 と言つたが、醉眼を向けられて、氣味がわるいので、グリン車はがらがらだし、別の空席に移つた。檢札に來た車掌に、
「醉つぱらひが占領してるから、ここにいますが……」といふと、「いいですよ、」と言ふことで、安心して、うとうとしてゐる。

(中略)
すると、別の車掌が、また檢札に來た。切符をみせて、ここでいいと言つてゐる外人の前で、その車掌は、私に、規則を守つて下さい、自分の席に戻りなさいと言つた。でも、小田原で下りますし、私の席は、ああいふ人が占領してゐるし、がらがらだし、この外人は、いいと言つてるのですから……
 車掌はまるで、犯罪人に對するやうに、大聲で、規則を守れ、席は滿席です、そのために番號がきまつてるのですと、威たけだかに言ふ。「それなら、醉つぱらひをどうかしてよ、がらがらだからいいと、もう一人の車掌さんが言つたので、ここに移つたのよ、番號のきまつてゐることくらゐわかつています、」
「わかつてゐたら、規則通りにして下さい、」
 私は、醉つぱらひの足でよごれた席へ移つた。しかし、當の二人の男は、その輭、一言も辨明せず、あやまりもしなかつた。さつと、熱海で下りていつた。
 私は、下りぎはに、車掌室へ行つた。あんまり規則規則と言いたてる、忠實な車掌の名前をききたいと思つたのである。
 すると、名前なんか言ふ必要はない、それより、あんたの名を言ひなさいと來た。假にも乘客である。私は蟲を殺して笑顏で、
「あんた、規則一點ばりの模範車掌なのね、がらがらのグリン車が、なんで滿席なのよ、」

ながなが引用してますが、まだ続きます。


 こはもての人輭には黙つてゐて、外人が乘つて來たといふことで、國鐵の威信? にかけて私を犯罪者扱ひにした。外人客でなく、日本人客であつたら、あんなに、威たけだかにならなかつたかもしれない。弱いものいぢめ。
(中略)
 ひとの席まで占領してゐる醉客を見のがし、忠告せずにゐて、あとの客に文句を言ふのは、不親切、無責任である。
 時は十月二十五日名古屋十時乘車、こだま二八八號、小田原到着二十一時十二分である。

初出を見ると朝日新聞昭和51年12月28日で、1976年の出来事と分かります。
今ならネットで叫べばおk、もしくは返り討ちで炎上でしょうけれど、
天下の大新聞、木鐸公器まで使って攻撃して、どうにかなったのか、知りたいです。
国鉄については、頁273、何代目海老蔵の結婚披露に円覚寺管長朝比奈老師と同行の折、
僧衣和服だと車内が寒くて堪らないので車掌室に行くと、
「適温です」と言われた話が載っています。グリーン車でそれは、大変ですね。
なんかの階級闘争でもしてたんでしょうか。

お酒のエッセーは頁158一箇所のみ。
「酒のさかな」栄養と料理昭和三十二年十月号初出。
たばこはのまない。酒は食後酒として、洋酒(蒸留酒)をたしなむ。
つまみが、クロワッサンとか、ポテチとか、クラッカーなどの炭水化物のみで、
しかし、他人の家などで、談笑しながら飲むので、話がさかなとのことでした。

表紙中表紙装幀の海老のしは、作者の古い麻の着物を、
着物のまま写真に撮って使ったとの由です。
婦人画報」「ミセス」の大倉舜二というカメラマンの方も記載されてますが、
カラー口絵もあるので、表紙までその人の写真なのかは不明。
この時点では、本に、まだ版権所有者の明記なしです。

和菓子の写真について、2点ほど、そのまま載せるとアレだろうなので、
紗をかけて載せますが、竹のほうは、直接くちをつけて、
ちゅうちゅうすするのが恥ずかしくてためらわれたとかの文章がよかったです。

白の笑顏饅頭のほうも、粉を払うと写真写りがいいと、
書いてあった気がするのですが、見つからないです。今読み返して。以上