手こずるかと思いましたが、そんなことはなく、サクッと読めました。ずっと読もうと思ってましたが、読ま「ねばならぬ」と思い込んでる本が次から次へと現れるので、そのままになってた本。図書館が休館になって大規模書店も休業したので、アマゾンでユリイカ別冊ボーツー先生追悼号といっしょに買いました。買ってから、ホニャコムで近所の書店受け取りにすればよかったなと軽く後悔。小包じたいは、配送員と対面することなく、玄関に置いておいてもらえました。
装幀:天野昌樹 カバー作品:淺井裕介〈くつぎのひと呼吸のために3〉
巻末に訳者藤井省三北東による解説。もともとは帝京大学でこの人らの講演聴いた時に、この本が出るよと告知があったので、それで読もうと思った本です。その時の情報より刊行は遅れてるはず。
解説によると、李昂は広辞苑の項目になるほどの作家だそうですが、ウィキペディアの日本語版はありませんでした。私もむかし『夫殺し』を読んでイカレたクチで、しかし藤井省三北東が『夫殺し』の翻訳者だったことも記憶から欠如してますし、国書刊行会の新しい台湾の文学シリーズの『迷いの園』『自伝の小説』はともにタイトルだけはよく知ってるのですが、リー・アンの作品だという認識がないです。
本名じゃないからどうでもいいのでしょうが、「昂」はホーロー語でも「アンg」なのか検索したら、「ゴン」でした。李は福佬語でも「リー」だそうです(FORVOだと一声に聴こえる)リーゴンダーシュエ。中文版ウイキペディアによると、「昂」という名前は男性っぽいんだそうで、女性作家はこの程度という台湾社会の当時の認識に対し、ピーンとボッキして挑戦という(超訳)意味が込められてるんだそうです。
こんなバーブシュカ。インタビュアーが「リー・アンシャオジエ」と呼びかけているので、おんなはいくつになっても小姐なのかと驚きました。婚姻関係を知らないので、「小姐」がそのへんリンクした呼び名なのか分かりません。実は私は義経ジンギスカン伝説じゃないですが、この人が筆を捨ててメガホンを取って、「グリーン・ディスティニー」やら「ウェディング・バンケット」やら「ブローバック・マウンテン」やら虎とインド人が漂流するパイの話やら、ウィル・スミスが若いウィル・スミスと戦う映画やらを撮るようになったと、半ば真剣に信じてました。だってアン・リーだったから。
あと、かつての同僚の、卒論が李昂でした。それもあるのか。
本書は、本邦初訳と、中文文学のアンソロジーなどに収められていた作品の改訳を一冊にまとめています。藤井省三サンがリー・アンを初めて読んだのは、神保町で買った大陸の簡体字版だったそうで、そこからこの人の彷徨も始まったのだなと思います。
藤井省三北東と台湾文学というと、どうしてもこの本を思い出してしまいます。お言葉ですが高島俊男との有名な呂明賜論争も完全収録されていたと記憶してます。読売ジャイアンツの登録名「ろめいし」に対し、三国志の呂布の「りょ」なんだから、「りょめいし」のほうがコレクトと言った藤井省三北東に対し、お言葉ですが…が、台湾では風呂の「ろ」でニッチ時代から日台の交流が長く続いてたんだから、そこの心情を無視してインテレが上から目線でヤイヤイ言うなや、と嚙みついた件。
この本だかこの本の続編だかは、女性研究者が、邱永漢の『おんなの一生』ついてQさん本人に、何故Qさんの母親が日本人であることをQさんは積極的に情報発信してこなかったのですか、と問いかける一幕も収められていて、色褪せない一冊であると思います。
以下収録作品。
『色陽』(原題同じ)岩波書店の、四方田犬彦ら編の世界文学のフロンティアというアンソロジーの二巻1996年刊に収録されてたとか。原著の刊行は1983年。冒頭に李商隠の漢詩があります。陶淵明の精衛は微木をくわえて滄海を埋めようとしますが、この詩の人物は仙人の所に行って滄海を買おうとします。お日様を繋ぎとめることは出来ない。夫殺しのテイストに近い時代描写で、プラスチックなど軽工業による台湾経済の躍進が背景として語られます。蒋経国時代。
鹿城と書いてロッシアとルビ、ヒロイン色陽にはシェッイォンとルビ、夫の王本にはオンブンとルビ、住む屋敷は日茂ジッポッ。ここまではすべて閩南語読みと思われます。原作は漢語にわざわざ閩南語発音のルビなんか振らないだろうし、英訳は、たまたまグーグルブックで出た2002年刊の米国"Cheng&Tsui Company"版ブッチャーズワイフでは、鹿城は、北京語のピンイン表記、"Lucheng"になってました。
台湾本省人を除くと、日本人だけが、この翻訳によって、漢字と(疑似的にせよ)閩南語読みの両方で李昂のこの小説の地名人名を愉しめるわけですが、なぜ藤井省三北東がそういう趣向を凝らしたかは謎です。解説では「鹿港」に例の有気音無気音は清音濁音にあらずルールで「ルーカン」と國語のルビを振っていた。から来た男。
最後のほう、発表された当時の現代に話が進んで、そこでの往時の回想で、旗袍チーパオと、北京語でルビを振られたチャイナドレスがでてきます。ホントの往時なら、福建語でキーパウとでも読まねばいけないと思うですが、KMT時代の回想なので、もう國語になってるという、訳者のちょこざいな仕事のように思われます。
回想する現代の女の子の名前は李素リーソウとなってますが、國語とも閩南語とも取れてしまうので、そこはエッジが効いてないと思います。いかんともしがたし。
『西蓮』(原題も同じ)訳者編の平凡社ライブラリー現代中国短編集1998が初訳。原著は1983年の本。人名は福佬語ですが、「指腹為婚チーフーウェイフン」という成語には、有気音無気音は清音濁音にあらずルールの國語ルビが振られてました。
『水麗』(原題も同じ)訳者編の平凡社ライブラリー現代中国短編集1998が初訳。原著は1983年の本。地名の望洋路バンイウローや、人名の牡丹ボウタンや林水麗リムソイレイは閩南語だと思いますが、臺鐵の列車、莒光チュイクアン號のルビは北京語です。
戦国時代の斉が燕の名将楽毅率いる連合軍に領土の大部分を占領されたものの、僅かに残った莒県を足場に名将田単の用兵によって結果として領土を回復した故事を指し、田単が莒から斉全土を奪回したように中華民国政府が台湾を足掛かりに大陸奪回を目指すことを意味している。
『セクシードール』(原題:有曲線的娃娃)早川書房の「エソルド座の怪人 アンソロジー/世界篇」(異色短編集20)に収められていた話だとか。原著の発表は1970年。原題は、女性のまるみをおびた体形をあらわしてるので、邦題を「セクシー」にしなくてもよかったのではと思います。地母神みたいなもののような気もするので。
残雪みたいな話だなと思いましたが、1970年当時の残雪は、右派分子の娘として文革で辛酸なめ子でしたので、みたいもクソもないなと思いました。
う~ん、これも以下後報です。
【後報】
『花嫁の死化粧』(原題:彩妝血祭)本邦初訳。原書は1997年。そういうことって、あるんだろうなあという… 最初、息子さんのトラウマが、開業医としての成功とうまく並立出来ないように思いましたが、並立しないと作品として成立しない。「王媽媽」にワンマーマと國語のルビを振っていて、マーマはマーマ以外呼びようないよなあ、と思いながら読みましたが、白色テロの犠牲者で、民主化運動の最前線に立ち続けた闘士の渾名が國語読みというのも、いっそうこの話の複雑さに花を添えたと思います。
山田洋二監督吉永小百合主演映画みたいな閩南語のルビ「カアベエブン」のついた、台湾の死者に供えるゴハンが出ます。藤井省三北東の訳注では鷄腳と蔬菜と豆腐干も載ってるそうで、このタマゴはアヒルのタマゴだそうです。私も子供の頃、ご飯茶碗にご飯をよそって箸を突き立てると、それは死んだ人へのお供えのご飯の作法で、お箸がお墓やお線香を表すので縁起が悪いと怒られたものでした。長じて松本零士の銀河鉄道999で、鉄郎がターミナル駅で風呂上がりの石鹸のよい匂いをさせていたばかりにハイミスに誘拐され、彼女の故郷に連れていかれ、婚約者として彼女の老いた父母に紹介される話で、父母がムコ殿に出す飯が、ドンブリにご飯山盛りメザシ載せはいいのですが、お箸を突き立ててあって、それを読んで、松本零士の九州だとこれは無作法に当たらないんだろうかと真剣に悩んだものです。実はこれは今でも解を得ていない。
この歌が台湾民主化運動のテーマソングって感じで出てくるのですが、藤井省三北東が邦訳では詞を三橋美智也版にしていて、それはそれでいいんだけれども、福佬語でルビを振った漢語版もちょろっとつけておいてくれたらなと思いました。こんなにちがうだよ。これ、北京語で歌うことってあるのかなあ。
頁176、ワンマーマが女手ひとつで息子を育てるにあたって、シンガーミシンで縫製の内職にも精を出すのですが(そののち、日本の花嫁学校で学んだメイクアップ術でガンガン稼ぐようになる。当初は未亡人にメイクしてもらうのは縁起が悪いと遠ざけられていたが、経済起飛とともに、迷信より仕上がりの美しさが優先されるようになったので)シンガーに「勝家」という漢字があてられており、これでは閩南語でしかシンガーと讀めないではないかと思いました。閩南語知りませんが、國語でションジアと呼んだらシンガーにならないことくらいは私でも分かります。
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『谷の幽霊おに』(原題:頂番婆的鬼)本邦初訳。原作初出2004年。ヌードダンスの奉納は、いかにもありそうな話に思えました。葬式でヌードを出せるのは、百歳以上で死んだ人か、玄孫までいる人だったか。しかしそのダンサーが「幼歯イユウキイ」と称される、性に未成熟な女性という認識はなかったです。そんなプロのダンサーいねえだろと。また、大家楽というバクチは知りませんでした。全家福といえばファミマの中文名ですが。大家楽と書いて、「みんなハッピー」という意訳をルビに振っているのはどういうわけなのか。六合彩は、不夜城なんかでも登場するので、知っていて、福建省の人に話しかけたところ、おやりになるんで?みたいに返されたことがあります。冒頭、オランダと原住民の混血だから、今ならさぞ売れっ子になっていたろう、と書いてるのには同意というかなんというか。
『海峡を渡る幽霊』(原題:吹竹節的鬼)下の帯の抜粋文を読むと、原題の意味が分かり、何も題を変えなくてもという気になるのですが、でもまあ、台湾文学で「海峡」という単語があったら買いますよね。福建省から新参者が来た時、幽霊もついてきてしまったという話。土地の廟公神の名前はぜんぶ閩南語です。崙仔と書いて「ルナ」とルビを振るなど。あと、厄払いのまじないで、穢れを吐くためツバを吐く習慣というのは、今でもこじつけと思う。こじはる。
2004年の、小川洋子との対談シンポ用に書き下ろされ、新潮に同年訳出掲載。その後幻冬舎『小川洋子対話集』に収録とのこと。
『台湾 好吃フォーチャア大全』(とんぼの本)読了 - Stantsiya_Iriya
『国宴』(原題:國宴)初訳。原作は2005年。愛吃鬼の異名をとるBBAリーゴンダーシュエによる、翔んだ總統夫妻のバカップル寓話。洋食しか食べれないワイフと、浙江省の田舎者気質のオッサンの愛情故事。死者多数。メインくらいに現れる「年年高昇好彩頭」を、猿の脳みそだと台湾人はみな思い込んでいたというのが、ほんとっぽいと思いました。国宴の料理名は実態とかけ離れたオメデタイ空疎な美辞麗句の羅列なので、併記される英文を読まないとメニューの内容は分からないとのこと。萬世一系の支配を目論みながら、蒋総統の血統は三代で絶えたとありますが、四代目がデルモか俳優やってなかったっけ?と思いました。ニコラたちから受け継いだ、クオーターのかんばせを活かして。それで、毛沢東の娘の生んだ息子(ぶさいこ)と、よかにせvsブサイクで対決するネット記事が中華圏では出回ってたと記憶してます。まあなんていうか、観客の好みもあるけど、政治の変化に合わせて、伝統が変わってゆくのは京劇も同じ。ということを、大陸の京劇の変化を記しながら書いています。文革の白毛女はむろん、その後も絶えまなく変化するベイジン・オペラ。冷めた、よい筆致の佳品と思いました。
以上です。
(2020/5/26)