『波止場日記 ー労働と思索ー』"Working and Thinking on the Waterfront. A Journal: June 1958 - May 1959" by Eric Hoffer(みすず叢書)"Msz Series" 読了

津野海太郎『歩くひとりもの』に出て来たので読みました。読んだのは1971年8月30日付の第二刷。現在出てるのは、2002年の新装版に森達也の解説日記を加えた2014年版。

www.msz.co.jp

原書は1969年刊。

なにぶんにも古い訳ですし、原文は輪をかけて古いので、その後の版で、「ニグロ」を「黒人」に直したりしてるのではないかと思われます。日記の書かれた1958年から1959年の西海岸の沖仲仕業界では、ちょうど黒人が新参者として、それまで白人(といっても旧ユーゴなどのスラブ人が多く、あとはイタリア人や北欧人など)寡占の世界に割って入った時期だそうで、本書でもそれに関する考察が随所に見られます。沖仲仕ということば自体もう一発変換出来ない21世紀で、Ryu's Bar 気ままに嫌な夜の処女作『限りなく透明に近いブルー』の登場人物が沖仲仕という仕事を憧れで語っていたその頃にはもう絶滅危惧の職業になっていたとかいないとか。

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コンテナの登場が、それまでの非効率的な人力による船からの貨物の上げ下ろしを一掃し、沖仲仕という仕事は、水木サンいうところの紙芝居、貸本マンガ同様絶滅したとかしないとか、とのこと。

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上は、滅びゆく旧来様式の貨物船船員を描いたんだか描いてないんだか小説。下は、寿のドヤにプチ蒸発して沖仲仕の日雇いとなり、初日さっそくアゴを出す痴漢リーマンを描いた短編。

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沖仲仕 - Wikipedia

日本語版ウィキペディアの「沖仲仕」項目では、英語では沖仲仕を"Stevedore"と呼ぶとしてますが、エリック・ホッファーサンは"Longshoreman"です。ロングショアマン・フィロソフィー。男性形「マン」なのでポリティカル・コレクトネスにひっかかって、それで中性的なステベ、ステベドアと呼ぶようになったのかもしれません(ちがいます)

コンテナリフト操作による積み上げ積み下ろしというと、スピルバーグ映画「宇宙戦争」冒頭でトム・クルーズがやってた仕事で、これが伏線で、ラストはトム・クルーズネバダ砂漠の合衆国秘密基地からメイドインU.S.A版トライポッドを操縦して出撃、侵略者たちのトライポッド軍団と壮絶な肉弾戦を繰り広げる(従来の火器はすべて無効化されてるので、こうするしかない)とネットで嘘を書いたら信じてくれた人がいたようで、その節は申し訳ないことをしました。

そんな本なので、例えばマリのトゥンブクトゥーは「チンブクツ」と書かれ、注で、「サヴァンナ開発のためのダムがつくられ、ダムの町として生れ変っている」と書かれ(高野秀行アフリカ納豆の本では、マリはテロ頻発のため行くに行けないアフリカ納豆の爆心國となってます)「タピオカ」は「カサバの根から採った食用でんぷん」と書かれてます。カサバはキャッサバのことだと瞬時に分からない読者もそんないないだろうと思いますが、それでもまあ、書いておきます。頁88、「チリー胡椒」という表現も面白かったです。トウガラシと訳さない理由はなさそうですが。頁29に「冷凍のボイスンベリータート」と書いてあるのは、タルトのことだと判断しました。

ボイセンベリー - Wikipedia

私の借りた本は頁200にこのような書き込みがあるのですが、ここはやはり、「枢軸」でなく「車軸」であろうと思われます。インカのように、車輪の発明がなかった文明と比較しての、車輪のある文明の意味合いがある文章だと思うので。英語はたぶんアクソーとかピボットとかでしょうから、ちがいはないにしても。

ja.wikipedia.org

ホッファーサンの大衆運動分析の中心概念もまた、氷室京介の歌やニコニコ大百科(仮)の超常現象の項同様、「トゥルー・ビリーバー」だそうで、ホッファーサンによると、「神聖な大義のためにみずからの生命を犠牲にする覚悟をしている狂信者のこと」だそうです。しかしこの呼称を、ホッファーサンはリリーサンのハズバンドに対しても使ってるんですよね。

dic.nicovideo.jp

(略)知識人であるためには、良い教育をうけているとか特に知的であるとかの必要はない。教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである。

 知識人は傾聴しもらいたいのである。彼は教えたいのであり、重視されたいのである。知識人にとっては、自由であるよりも、(略)無視されるくらいならむしろ迫害を望むのである。民主的な社会においては、人は干渉をうけず、好きなことができるのであるが、そこでは典型的な知識人は不安を感じるのである。彼らはこれを道化師の放埓と呼んでいる。そして、知識人重視の政府によって迫害されている共産主義国の知識人を羨むのである。

こういう人が逝去の三ヶ月前に時の合衆国大統領ロナルド・レーガンから大統領自由勲章を贈られたというのもむべなるかなで、ホッファーサンにいわせると、米国は歴史上世界で唯一、独裁者(少数の権力者)でなく大衆によって余暇活動や価値観が社会全体に浸透、刻み込んだ国だそうで、テレレッ、テレレッ、テレレッ、のフライドポテトにしても、マクドナルドのファウンダーが浸透させたというよりはオートメーションの成果なのですから、それもそうかなと思います。そのフライドポテトをさらに牛肉と炒めてロモ・サルタードという一品料理にしてしまうペルーにも私は驚いてますが、それはそれでまた別の話。

本書の随所で、仕事仲間である黒人について、第三世界について、ロシアについて、母国ドイツについて語っています。『影を慕いて』のファン・デル・ポストサンのカラハリ砂漠の本も出てきました。後半はかなりフルシチョフソ連に対して怒っていて、その内容は今のプーチンロシアとかなりかぶるようにも思い、その時は読んでてウンウンうなづいていても、読後、すぐ忘れて雲散霧消してしまいました。

頁193

 いつも感じているのだが、アメリカの後進国援助はもっぱら食料のみにかぎるべきだ――効率的に穀物を生産する方法を大衆に教え、彼ら自身の努力によってパンや人間の尊厳や力を得るための技術的・社会的熟練を与えるべきである。大衆はわれわれの同盟者である。もしも知識人が製鋼所や摩天楼やその他の二十世紀の玩具を欲するなら、ロシア人の許へ行かせればよい。アメリカはパンと同義であるべきだ。

じっさいには、その国の大衆でなく権力者たちが、権力維持拡大のための兵器を欲して、ロシア人や中国人のもとに行くわけで、それは「行かせればよい」というものではなく、過去とは比較にならない殺傷力ゆえに「止めなければならない」のが21世紀と思います。権力者への援助を米国がやると、開発独裁の腐敗した権力の持続可能に寄与するだけなのがよりガラス張りで、しかも誰がそこで中抜きしたり甘い汁を吸ったりしてるかが分かりやすいので、だいたい失敗してるわけで、農業支援というのはいいと思うのですが、「アメリカは大卒のインテリの俺に鍬を握れというのか」みたいな的外れな声ばかりを取り上げる人がいたりするので*1、まあ私は日本で、ペシャワール会みたいな、良い意味での農業支援の見本みたいのを見ることが出来ていて、よかったなと思います。

頁192

 確かなことが一つある――絶対的な権力はその所有者を、神のごときものにではなく神に反するものに変えてしまう。神は粘土を人間に作り変えたが、絶対的な暴君は人間を粘土に変えるからである。

こういうことを書いたり、「アジアは墓地であり、かつまたごみためである」(頁193)と書いたり、アングロサクソン礼賛、ドイツ礼賛、の個所でわざと「ニーチェは自分ではポーランド人と考えていた」(頁159)と書いたりしています。

こういうのはいいのですが、この日記にはとにかく沖仲仕組合の選挙に出て落選したセルデン・オズボーンの妻リリーと、その三男で三歳のリトル・エリックとしょっちゅう一緒にいる場面ばかりがあり、読んでて、最初、彼らの関係がよく呑み込めず、ずっと、ホッファーサンはチョンガーだが、リリーサンというエクストラ・ワイフがいて、息子の養育費を送ってるのかと思ってました。どうもそうではなく、人妻とずっといっしょにいたらしい。

en.wikipedia.org

日本語版ウィキペディアには彼の私生活は一切書いてなく、英語版にあるのですが、そこを私は誤読しまして、人妻のリリーを妊娠させて三男のリトル・エリックを生ませて、しかも後年には同棲生活に入ったが、夫のセルデンとは生涯良好な関係を保ったというふうに読んでしまいました。で、大混乱しました。この人もまた、言ってることとやってることがちがうたぐいの人間か、ほんとうに例外って、ないね、という。

ホッファーの本をいちばん多く訳している中本義彦さんという人は、ホッファーの私生活については、自伝の邦訳に解説つけてるので、それ嫁としか書いておらず、で、何故かホッファー自伝は、近隣の図書館すべて貸出中で、ほかのホッファーの邦訳はというと、紀伊国屋書店高根正昭という人も、晶文社柄谷行人(!)も解説では彼の思想についてのみ言及し、人となりや出来事については一切書いてません。オミットしてます。この『波止場日記』の邦訳者田中淳さんは、ホッファー小史をつけてくれていて、それだと、リリーの三男エリックについては、ホッファーサンは名付け親という位置づけだそうで、まあそれならそれでいいやと思いました。

英語版ウィキペディアのホッファーサンの私生活の部分については、トム・ベゼルという人の"Eric Hoffer: The Longshoreman Philosopher"という本に依ってるそうで、その本では、リリーのハズのセルデン・オズボーンは「カッコー」されたそうで、そのことばのウィキペディアの日本語版を見ると、「ねとられ」「NTR」でした。カッコーというと、托卵みたいで、こわいです。

Cuckold - Wikipedia

寝取られ - Wikipedia

ほかにも、彼が両親をアルザス人と言ってるのに、彼のドイツ語の訛りはババリア訛りだったとか、目が見えなかった時代については、医学的にクエスチョンがつくとか、ブロンクスから西海岸に流れたということだが、英語にはブロンクス訛りがないとか経歴はまたしても疑惑がテンコもりのようでした。

www.hoover.org

ただ、この評伝じたいが、リリーが所持していた膨大なホッファーサンの未発表メモにもとづくもので、リリーサン自身は、ホッファーサンを、不法移民で、合衆国籍がない人ではないかと考えているということでした。でないとそんな空気のように自分の出自にウソをつき続ける必要がないだろうと。成長して、オズボーン姓を名乗らないかつてのリトル・エリック、エリック・ファビリは、ビー・トレイヴンという作家をホッファーサンが類すべき人物としてあげてますが、そのトレイヴンという人のウィキペディアは、日本語がないです。リップ・ヴァン・ウィンクルみたいなものかなあ。ちがう。

B. Traven - Wikipedia

頁20

アメリカ人のお世辞のうまさは、品性の高いしるしであり、人間の兄弟愛の真の先触れである。

リリーサンは、頁180で、生まれた時から知っている女性からひどい手紙を受け取って泣いたそうで、ホッファーサンは「敬神に名を借りた多言は悪意のカモフラージュとなりうる」と書いてますが、私はここを読んで、リリーサンとホッファーサンの不倫関係に対し、貞節とか不道徳、インモラルみたいな忠告を受けたんじゃいかなと思いました。だいたいそういう時、オブラートにくるんで自己正当化しつつ相手を非難しようとすると、人はこんなホッファーサンみたいなこと言うかなと。モテ。

頁70

外国でアメリカの労働者が落ちつけそうな場所は、イスラエルの集団農場だけだろう。赤い中国に寝返ったアメリカ兵士たちが帰国してきたのも、主としてそこではとうてい労働者として適応できないからであった。

中表紙の、ホッファーサンとリトル・エリック(たぶん)こんなオジーチャンです。枯れてる。今の版の表紙の、葉巻くわえた、津野海太郎みたいな人とはだいぶちがう。さて、真実や如何に。

以上

*1:

頁114

アラブ世界がラテン・アメリカのパターンをたどりつつあるのはまぎれもない事実である。宿命的傾向、つまり運命はない。るのは絶えることなき愚かな動乱。アラブの住民のうち、教育のある人々は権力を手にいれようとしている。学生は皆自分を将来の首相とか独裁者と考えている。際限のない演説がなされ、絶えず陰謀がたくらまれている。誰も骨折り仕事をしようとしない。