『終りし道の標べに』"At the Guidepost at the End of the Road." by Abe Kōbō 安部公房 冬樹社版 読了

ウィキペディアによると、もとは『粘土塀』と題された作品。

1948年10月、真善美出版から改題刊行。

1965年12月、冬樹社から「さすがに表現のまどろっこしさは争えず、多少手を加え」(「あとがき」より)刊行。

新潮文庫の底本が冬樹社版。講談社文芸文庫版の底本が真善美出版版。どちらも品切れ再版未定。たぶん古書市場ではボッタ値がついてます。

終りし道の標べに (新潮文庫 あ 4-11) | ダ・ヴィンチWeb

終りし道の標べに (講談社文芸文庫) | ダ・ヴィンチWeb

読んだのは冬樹社版の1971年4月の11刷。「装幀 伴 信之 写真 伴 博之」とありますが、カバ欠でどこにも写真等ありません。

『けものたちは故郷をめざす』岩波文庫*1リービ英雄あとがきに、どちらも大陸時代を描いた作品ということで、本作品との比較が書いてあったので、それで読みました。しかし加藤弘一サンウェブサイト他によると、全集(作品集?)にはそれ以前の十代の習作も収められているそうで、それも大陸を舞台にしてるとかで、最近新潮文庫からそれが出たそうなので、それも読んでみます。

www.shinchosha.co.jp

(1)

もともとのタイトルが『粘土塀』だったので、残雪《黄泥街》は本作品のオマージュなのかと思いましたが、たんなるぐうぜんで、ぜんぜんちがうようです。

zh.wikipedia.org

(2)

加藤弘一サンウェブサイト他によると、真善美出版版と冬樹社版の大きなちがいは、冒頭の弔辞の宛名を金山時夫とハッキリ書いていたのをぼかした点、ほかもうひとりの人物もイニシャル「S」に変更した点などだそうです。金山時夫という人は、安部サンの親友で、いっしょに中国人の村などに遊びに行った人だったとか。その苗字からコリアンではないかなどともネットのコメント欄に出るのですが、安部サンのご息女ねりサンのトークによると、東工大に進んで許嫁とともに満州に戻り、結核で逝去したとか。加藤弘一サンのサイトなどによると、安部さんはコロ島からの引き揚げ時、自分の家族といっしょに、金山さんの許嫁と母親の帰国にも奔走、尽力したとか。

(3)

恐縮なのですが、読んでて、戦前満洲日報勤務から戦後TVドラマ「事件記者」脚本などを手掛けた島田一男サンの『中国大陸横断』の一篇、「満州桃源郷」みたいだなーと思ってしまいました。粘土塀の内側のお屋敷に、そういう世界がある(かもしれない)

中国大陸横断 : 満州日報時代の思い出 (徳間文庫) | NDLサーチ | 国立国会図書館

そして、ネタバレですが、『けものたちは故郷をめざす』では、主人公は母国日本と同胞に残酷に裏切られるのですが(のちに日共を除名される自身を未来予知プレ・コグニションか)本書では塀の外、自由への逃走に成功します。アーヨカッタ。

(4)

人名が、北京語読みと日本語読み、ルビなし混在です。

・房サンは「ふあん」(北京語読み)

・馮サンは「ひょう」(日本語読み)

・呂サンは「りゆい」(北京語読み)

・高サンはルビなし。

・李サンもルビなし。

・陳サンもルビなし。

ひとりクリスチャンなのですが、あまり関係ないです。小説を書こうとしたのではなく、世界を書こうとしたとは「あとがき」作者の弁で、そうした非小説の事象の一つに過ぎないのでしょう。

(5)

料理名は北京語。朝日新聞ルール(清音濁音は有気音無気音に非ずルール)

・湯(たん)汁物と注釈。

・大米(たあみい)固く炊いた米の飯と注釈。

・白糖(ぱいたん)砂糖なんですが、なぜ酒のアテに出すのか分かりません。

・まんとう 蒸しパンの類と説明。

(6)

地名はよく分かりません。

www.google.com

沙河街道 (沈阳市) - 维基百科,自由的百科全书

沙河屯は上かなあ、それとも下かなあ。

maps.app.goo.gl

巴河屯、罗林、龙湖、巴宁,すべて分かりません。

日本育ちで日本語を解する中国人など、けものたちに共通するモチーフはほかにもありますが、まあ、俺は満人街の家並みの粘土塀の向こう側も知ってるぞ、ってとこかもしれません。たんじゅんに、あの厚い泥塀の向こうに入ると出られないのではないか、という本能的な恐怖が日本人側にあったと考えるのも一興でした。以上

ぼっち・じ・عید ②

刺绣土族服装。

自(中国简况)《走出民族村寨》新星出版社出版 1992年(36开)第一版(汉)

モンゴル系なのに、農耕化して纏足もしてたから、という理由でモンゴルとは別民族になっている土族。

今朝は、五時半くらいに起きて、お湯を沸かして、お茶をあげて、ストレッチして、それからラジオ体操に行って、朝食を摂って、あれこれして、出掛けました。

昼間飲み食い出来る幸せよ。しかしなぜかラジコの地域設定が北海道になっていて、北海道のラジオしか聞けません。なんでだろう。地磁気が狂ってるのか。

スリランカカレープレート。日替わり。

この日はビーフカレー。හරක් මස්හොඩීとでも書くのか。

ビーツのモージュ。බීට් මොජූとでも書くのか。

ソイミート。ときどきこのお店のワンプレートに入ってるんですが、肉カレーにソイミートつける意味が謎。もらいもんなのかな。සෝයා මස්

ポルサンボル。පොල් සම්බෝල  関係ありませんが、シニサンボルは砂糖をどう使うのか聞いたら、砂糖と玉ねぎを炒めるとのこと。やっと分かった。と思ったら、下記にもそう書いてあった。

シンハラ語3-8 カレーの種類と名前、炒め物・揚げ物・和え物の名前 | スリランカ観光情報サイト Spice Up(スパイスアップ)

si.wikipedia.org

サツマイモ。කිරිඅල

水菜のマッルン。මැල්ලුම්

バジルのプチプチがくせになる ファルーダ falooda

シンハラ人のお店にもファルーダがあったので、頼んでみました。

si.wikipedia.org

「ファルーダってムスリムのものじゃないの?」「そう、彼らはラマダンの断食のあとの食事にまず飲むね」人が必死に調べたことを先取り、というかとっくに知ってたという。さすが隣人。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/stantsiya_iriya/20240405/20240405195042.jpg

参考写真。スリランカムスリムの店のファルーダ。チョコレート味でした。バジルシードは入ってない。

そういえば、タミル語でおかいさんを意味する「カンジ」はシンハラ語にも外来語として入っているのか、「知らないけどカンジって言うね」と言ってました、シンハラ人が。

寝ます。

今日も、明日も、穏やかに、静かに、落ち着いて、平和に。そして、出来ることなら、自分も周りもみな、しあわせにすごせますように。

『同時代ゲーム』"The Game of Contemporaneity" by Ōe Kenzaburō 大江健三郎 読了

1964年刊『個人的な体験』の巻末広告を読んでいて、『空の怪物アグイー』初出1964年と1979年刊の本書の煽り文句に惹かれ、こっちは1967年刊『万延元年のフチボル』*1と絡む作品なのかと思って読んだのですが、そうであったとしても、おそろしく婉曲、迂遠な作品でした。

www.shinchosha.co.jp

読んだのは単行本。昭和54年11月初版。読んだのは同年クリスマスの3刷。英題は英文ウィキペディアからとりましたが、英訳未だそうです。

The Game of Contemporaneity - Wikipedia

同時代ゲーム - Wikipedia

右が新潮文庫巻末の煽り文句。

四国の山奥に創建された〈村=国家=小宇宙〉が、大日本帝國と全面戦争に突入した!?特異な想像力が産んだ現代文学の収穫。

オーエサンの故郷の四国の山奥で独立運動ってえと、『万延元年のフチボル』に描かれた在日コリアン経営スーパーマーケットに金銭的物質的に従属させられた村人青年団の反乱物語がかたちを変えたのかなと思いますし(ウヨサヨ反転)伊予ではなく土佐ですが、吉田類サンの故郷回想によく出てくる、山家の村の焼酎密造と税務署抜き打ち検査との戦いも想起しますので、まあそういう話かなと思って読みました。したっけ、第四の手紙「武勲赫赫た五十日戦争」などは多少具体的ですが、ほかは神話的ナントカ、ポストモダニズムのナントカで、寓意が森のトポロジーでミクロコスモスカールセーガンな展開でした。小林秀雄が二ページで読むのをやめ、オーエサンがのちにそれを「彼は二ページでなくニ十ページですた」と修正し続けたのもむべなるかな。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/a/a2/D%C5%8Djidai_Gemu_%28%C5%8Ce_Kenzabur%C5%8D%29.png左は単行本表紙。装幀・装画 司修 頁7によると、このカバーは原画の左右反転で、原画は本書主要舞台である《村=国家=小宇宙》の空想図だとか。本文各手紙扉にも部分部分のキリトリがカットとしてあしらわれています。

私が思うに、本作の対抗馬はヨコジュン『ポエムくんとミラクルタウン』シリーズ*2かなと。そんで、堀井雄二サンがハミコンゲームにしたらいいと思う。そんな小説です。

イタロ・カルヴィーノも『レ・コスミコミケ』や『柔らかい月』のように意味のないSFもどきの小説を書きましたが、ここまで大ボリュームには膨らまさなかった。オーエサンは執筆時、ドイツの東独出身作家グラスやペルーのマリオ=バルガス・ジョササンらが矢継ぎ早に大作を発表しているので、焦っていたんだとか。しかし『同時代ゲーム』が『ひらめ』や『密林の語り部』とタメをはれるかというと、ふつうにはれないじゃん。シンハラ語で「エパー」朝鮮語で「シロヨ」と言われる出来です。関川夏央サンが韓国の太白山脈などの巨匠作家を評して、編集と切磋琢磨して、削りまくって小説を書いてない、自分の書きたいことばっか書いて、編集が読者の代弁者としてその誇大妄想にブレーキをかけてない、だから冗長で自己満で、読んでて読者はちっともおもしろくないんだ、と言ったのに近いと思う。関川翁によると、韓国のそれに近い日本の作風だと、やはり編集がペコペコ頭をさげるだけの小田実小説が同類項だそうです。

オーエサンは編集に対しコワモテではないと思うんですが、新潮社のこの「純文学書下ろし特別作品」シリーズそのものが、採算度外視で読者を想定しない、作家のひとりごと駄々洩れしりーずを想定していた気もします。自己満ばっか書かせて才能を腐らせる目的。実録褒め殺し序曲。

左に本書巻末の純文学書下ろし特別作品ラインナップを置いておきます。有名な作品もいっぱいあるのですが、ある時期から編集者がハンドリングしなくなったとしたら。

オーエサンは本書をとても気に入っていて、なんとか読者に受け入れてもらおうと腐心していたそうですが、「ダメなものはダメ」©土井たか子なのかも。ウィキペディアによると、筒井康隆もこの作品の大ファンだったそうです。『東海道戦争』発表時、それがもとで社会的に抹殺されるかもと本気でおそれた経験のあるツツイサンは、『政治少年死す』『セブンティーン』を書きながらなお再起してこのような作品を書くオーエサンにエールを送りたかったのかもしれません。『風流夢譚』の深沢七郎サンはその後沈黙してこのような作品を書かなかったわけですが、オーエサンと違って、無関係な女性(出版社社長宅のお手伝いさん)を殺害されてますので、現実とのかかわりの重みも違うかと。『虚構船団』は本作のオマージュだそうですが、文房具とイタチが星間戦争を繰り広げ、混血児が地に満ちるあの小説のどこが本書のオマージュなのか、サッパリ分かりません。ツツイサンはオーエサンの失地回復の爲わざわざ日本SF大賞を創設して、第一回受賞作を本書にしようとしたが、さすがにそれは反対多数で挫折し、第二回に井上ひさし『キリキリ人』(ハスキル星から来たハスキル人とは無関係。東北を舞台にした、小村vs日本の独立戦争もの)が受賞したことで溜飲(「るいん」では変換されないのですが、私はいつも"ruin"と読みます)を下げたとか。こみあげてきたものをまた飲み下すなんて、バッチイデスネ。カーッ、ペッ、と吐けばいいのに。《禁止随地吐痰》

カバー(部分)メキシコが冒頭の舞台で、だからか、オシリ。この上のほうに斉藤真一画『いないいないの国へ』*3みたいな燎原の炎があるのですが、「妹の赤い恥毛、ちぢれっ毛」のスライドがいたるところに花を添える小説ですので、それかもしれません。

本書に大日本帝國という単語は出るのですが(新字)大東亞戰爭という単語は出ません。頁44に日本書紀の一節が出て、「日本化されたシナ文」と形容されてます。津田左右吉がよろこびそう。でもカタカナじゃんと思う向きには、頁449「それは支那で、南方でまた太平洋海域で、大日本帝国軍隊の神ながらの戦いにはむかう朝敵のあさましさ」という一文があります。『支那はわるいことばだろうか』の高島敏男センセイもご満悦。太字は私。

カバー(部分)放屁、否、放尿。〈撒泡尿〉ですので、オシッコの中国語の量詞は泡です。

なんだか分かりませんが、主人公は歯が痛いので日系メキシコ人のヤブ医者にかかった後マルガリータを鎮痛剤がわりに飲んだり、現地のマオイスト女性とセックルした後、「あざやかな緑色の軍服に赤い徽章をつけて、少年のような目つきをこちらに向けた」「中国人民軍の兵士」に空港で監視される夢を見ます。「いまや日本は中国人民軍の占領下にある」そうで、「税関吏の、中国語による命令のまま」行動する主人公は、「中国人民軍兵士によって全面的に禁圧されるかもしれぬ日本語」によってこの小説を書こうと試み、「日本国が占領されても」土地の人間としての自立はなしうると夢想します。頁54。なんでそんな夢を見てるんだか。「羽田空港を膨大な人数で埋めているようだった中国人民軍兵士の、異様に重苦しい量感」「禁止された言葉についての暗澹たる予感」「中国人民軍兵士の軍服の緑と赤の鮮烈さ」(頁57)ずっとこんな夢を見てるのかと思いきや、第一の手紙だけです。伏線回収されず。

下記は中表紙(部分)

『万延元年のフチボル』に登場するプチブルコリアンに相当する存在は、頁377に出てくる「コーニーチャン」のように思われます。

頁377

(略)コーニーチャンは十七、八で朝鮮へ向けて出立し、新義州で軍隊に入って憲兵をつとめたという。敗戦後いち早く復員して來ると、魚と牛肉を専門的に扱う闇屋として、京阪神にまで勢力圏をひろげた。(以下略)

邦人のようにもみえ、しかし「高」兄ちゃんかもしれず、生鮮流通業という点で、重なるかと思います。あとは入替可能ということで。あるいは柯倪强"ke niqiang"先生。

中国と朝鮮に関する部分をあえてキリトリしてみましたが、大半は森やら神話やらの幻影というか賛歌ですので、キリトリ部分だけ読んで誤解する人が赤恥をかくか、そういうそそっかしい人が良識派を凌駕するか、このブログがインフルエンサーのそれだったら実験としておもしろいのですが、安心してください、過疎ブログですよ、ってなもんで。以上

ぼっち・じ・عید ①

维吾尔族少女们(ウイグル人の少女たち)

自(中国简况)《五十六个民族》新星出版社出版 1992年(36开)第一版(汉)

昨日は、ラジオ体操しました。保健所の更新審査がやたら厳しくなったそうです。アメリカの皆既日食は休校になったそうで、ヨカッタデスネ。北米時間の日食のときはラマダン明けのイードだったのか最終日だったのか。雨の日早朝に雨合羽着て自転車に乗る中高年の多さに驚く日々です。みんな頑張ってるんだなあ。エクアドルのメキシコ大使館警官隊突入の件でペルーがどう立ち回ってるか知りたかったのですが、さっぱり分かりません。とりあえずペルー人がメキシコに入国する際のビザ免除が限定的になくなることは分かりましたが、たぶん別件で、エクアドルの暴挙とは無関係。道に落ちた桜の花びらを一円玉と見間違える季節になりました。

私がなんちゃってラマダンをやってみようと思ったのは、

ラマダン中断食で平然としているドヤ顔のムスリム青年を見ているうちに、対抗心で、いっちょやってみようかなと思った。

ラマダンダイエット。一日一食は、かえってからだの吸収効率が高まるので太ってしまうのですが、その分動けばいいやという。二キロしか痩せませんでした。でもたぶんリバウンドします。

③読書の時間を増やしたかった。確かに食事の時間をほかに転用出来ましたが、空腹で複雑な思考が出来なくなり、たんじゅん作業やマンガ読むくらいしか出来てないです。それも、雑誌でなく単行本だけ。

なんちゃってラマダンをした感想は、

①一日一食、否二食はさほどでもないが、食事時間が限定されてしまうのは不便でした。というかそれより、水分補給が出来ないのはキツいです。夜が減る季節のラマダンは、睡眠時間が影響されるので、すごいキツいと思います。

②気温が26度になった日の畑仕事はきつかったです。真夏のラマダンは大変でしょうね。

総括として、最初の二日間は、ほんとの夜明け、日の出まで飲み食いしていいと思ってて、そうしちゃいました。その次の日に、あれもしやと調べて、ファジル、イムサックを知り、その時間(白い糸と黒い糸の見分けがつく時間)から断食断飲しました。また、サラダほうれん草を洗っていて、落ちた葉っぱを一枚ひょいぱくしてから、あっラマダンで飲食禁止だったと気づきました。ので、誤飲誤食は一回。サラダほうれん草の葉っぱ一枚です。まあ戒律によると、食べなくても、食べようという意思を持っただけで同罪だそうですので、その意味では罪深いままかもしれません。

冬至ラクな時期に、なんちゃってラマダンリターンズを一日二日、夏の炎天下のラマダンを一日二日やってもいいとは思いますが、もうフルは出来ないと思います。犠牲にするものが多過ぎる。今の仕事に感謝。一日六回の礼拝までキッチリこなすフルラマダンは、回教国企業勤務もしくは自営業でないと出来ないと思います。

とりあえず、あと一世紀か二世紀のうちに、回教でもカルヴァン派プロテスタントが勃興して、アッラーアラビア語で語ったのではない、アッラーは主のことばで話したのだ、とか言い出して、その改革運動の中に、ラマダン中の飲水容認などが含まれたらいいなと思います。食わないは十時間くらい別に、ですが、水分補給が出来ないのはつらい。

水とカンチータ。そこまでがっついてないので、カンチャはもってってもらいました。

13. Chicharrón de chancho
チチャロン・デ・チャンチョ
Panceta de cerdo cocido en un punto suave y delicioso, acompañado con Camote frito y salsa criolla.
Crispy grilled pork belly cooked to a tender and delicious perfection, served with fried sweet potatoes and criolla salsa (onion sauce).
カリカリに焼いた豚バラに、揚げたサツマイモとオニオンのサルサ添え。

川崎五反田は皮つき固まり肉ですが、ここは薄切り。ちょっと、八王子のアドボみたい。つけあわせは紫玉ねぎのマリネ、サルサ・クリオージャ。

アヒソース。

チッチャロンにかけたところ。

サツマイモにかけたところ。アンデスにはじゃがいも以外にさつまいも、オユコ芋、キャッサバ(ユカ)があるようで、寡聞にして聞かないのが里芋(タロイモ)です。あるとは思うんですが、レストランのメニューで見たことない。

7. Tallarines verdes con Bisteck apanado
タジャリネス・ベルデス・ コン・ピステ・アパナド
Spaghetti con cremosa salsa de Albahaca, parmesano y otras especias acompañado con Bisteck empanizado.
Spaghetti with creamy basil sauce, parmesan, and other spices, served with breaded steak.
バジル風味のクリーミーソース、パルメザンチーズ、 その他のスパイスがかかったスパゲッティに、 ペルー風牛カツ。

前の店だとステーキとのコンボでしたが、今のお店のデフォルトは牛かつコンボ。つけあわせはパパアラワンカイナ。

カツを切ってアヒソースをかけて拡大。

パスタ拡大。前の店の「タリン・ヴェルデ」のほうがアルデンテで、今のお店の「タジャリン」パスタは多少ユルいです。

前回来た時はデザートにユカモチを頼んだので、この日は"Crema volteada" 要するにカスタードプリンです。ペルー料理店では焼き目をつけた焼きプリン、レッチェ・ド・アサーダや、ライスプディングレッチェ・コン・アロスの方をよく見ますが、ただのプリンのある店もむろんあると。

拡大。でっかくて、しあわせ。

コーヒーを頼むのもあれなので、チチャモラーダを飲みながら食べました。チチャモラーダやインカコーラは主菜のさいにあわせて飲んでるペルー人が多いですが、どうも私は甘いジュースを飲みながらゴハンが食べられない。食後ならだいじょうぶなんですが。

完食。これが私の「ぼっち・じ・عید ①」

寝ます。

今日も、明日も、穏やかに、静かに、落ち着いて、平和に。そして、出来ることなら、自分も周りもみな、しあわせにすごせますように。

"Enka toca na terra do samba -História dos imigrantes japoneses no Brasil vista através da música."『サンバの国に演歌は流れる 音楽にみる日系ブラジル移民史』"Enka plays in the land of samba -History of Japanese immigrants to Brazil seen through music." por HOSOKAWA SHŪHEI 細川周平(中公新書)

日系ブラジル人日本語作家松井太郎『うつろ舟』*1を読み、その解説者のひとり、細川周平さんの著書のこれをちゃんと読んでいなかったので読みました。

サンバの国に演歌は流れる : 音楽にみる日系ブラジル移民史 (中公新書) | NDLサーチ | 国立国会図書館

思わぬところに的確な批評があって、下記サイトの評が素晴らしかったです。どういうサイトなのか知りませんが、本書の特質を短い文章で浮き彫りにした炯眼に敬服。

日系ブラジル人コミュニティーに <型> としての音楽の有り様を見出し、A・J・エリス以降面々と受け継がれてきた <民俗音楽学的手法> に引導を渡す名著。  なぜ日系移民がアルゼンチン・タンゴに代表されるようなハイブリットな音楽を彼の地で創り出さず、本国のそれと違わぬ音楽を求め執着し続けるのか。故郷への憧憬では計り知れない <型> としての音楽の有り様を、20世紀のブラジル移民史を綿密に辿ることにより浮き彫りにした名著。

細川サンがブラジル移民を意識したのは、1990年のお正月に来日出稼ぎ家族の知遇を得てからだそうです。日本の何処の街かは不明。浜松なのか大泉なのか塩尻なのか綾瀬なのか。ブラジルにカラオケがあることを知り、サンバと演歌が融合したフュージョン音楽の新鉱脈が掘り出せればと勇躍したのですが、そんなものはないと即座に否定され、ならばなぜないのか、日系人はなぜ日本のとおりにやろうとするのか(やろうとしたのか)を調べる方向に命題をシフトしたです。

これはミラー構成の命題で、同時に、なぜ日本人はサルサやブルーズを演ずる時、オリジナルと寸分たがわぬ本物以上に本物(ハイパーレアル)な演奏をこころみるのかという疑問に気づくことでもあります。かたや、地球の反対側に日本人以上に日本人的な演歌三世がいて、こなた、こちらには日本人離れしたリズム感で踊り歌うオルケスタ・デ・ラ・ルススカパラもそうなのかな)がいる。両者の共通点は「規律と型の修練に価値と喜びを見出す」こと。形と技を磨き、そこに心(魂)を込める。このような芸道思想は古典芸能の専売特許でなく、外国音楽の受容にも、計算式や方程式、Excel関数のように幅広く適用され、実践されている。私たちはそれが好きなんだ、そういうメソッドで芸事を学ぶのが大好きなんだ、とまで細川サンは言いませんが、そういうことです。東京ディズニーリゾート(TOKYO DISNEY RESORT)

細川 周平(ほそかわ しゅうへい) | シエロ・オンライン・ミュージックサロン

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1995年の本なので、本の中で細川サンはマルシアを「ブラジル生まれの演歌歌手」とし、デビューが同じ年の小野リサと比較します。マルシアはブラジル色を排した演歌を指向し、小野リサは自身が歌うボサノヴァから和臭を徹底的に取り除こうとする。ブラジルの音楽ボサノヴァを、あくまでブラジルのとおりにやらねば「気が済まない」のだ。本場のようにやりたい、本物志向だいすきで、さらにいえば本家に追いつけ追い越せとなる。本家の換骨奪胎、簒奪こそ日本人の代えがたい歓び、〈本銭〉なのだと。

この国のすごい本質指摘で、おそれいりました。正統性ゲット、カメレオン倫理の国だからこそ、たとえば在日コリアンの通称使用などに神経をささくれだたせられるのであるような気もします。細川サンは同時に、日本文化を模倣だと悪く言う西洋人に、模倣への純粋な希求、なりすましへの無垢なよろこびの爆発を理解させることはむずかしいと書いています。創造(と言いつつ再生産)の過程で出自を隠すことが高く評価されることをどうやって彼らに納得させたらいいのか、と。

1995年ですので、21世紀からこの箇所を読んで、イヤイヤこのあと「コスプレ」が世界席捲しましたやん、西洋人もコスプレでなりすましへの愛を十二分に理解しましたんちゃうやろか、赤い髪やら緑の髪やらピンクの髪やら、ありえへん色の髪のようさんはびこる人類にならはったんさかいなあ、と思います。それは同時に、日本発信の文化を日本が力強く認識し出したことの始まりでもあります。

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ここで細川サンは小野リサに比較して小林アキラの「アキラでボッサ・ノバ」を提示しています。こんなんマラカス振ってるだけでどこがサンバやねんと思うのですが、サンバでなくボサノバだそうで、こんなスキヤキサウダージはじめて、イカス、なのかなあ。細川さんによると、アントニオ・カーロス・ジョビンが小林アキラ聞いたらあきれんでホンマ、って感じだそうですが… 細川さんがその後、マツケンサンバをどう評したか、知りたくもあります。ツイッターとかで残してれば検索で出るかもしれませんが、さて。日本以外でウケたかどうかは知りませんが、ドメスティックな視点では、マツケンサンバこそ、扶桑の国のスキヤキサウダージ

本書は「日本」「日系」「ブラジル」の三つの定義が、色とりどりに姿を変え、さまざまな形で読者に提供されます。細川サンによれば、

頁10

 ここでは民族の定義については論じない。プルーストがバルベックのホテルに集まるユダヤ人の一団を指して使っている表現を借りれば、「それ自体は同質、その通行をながめる人々とは完全に異質」な集団、このように把握しておけば、本書では足りる。民族性は「通行をながめる人々」がいて初めて構成される。異質な存在と接触して初めて同質性が確認されるのだ。一人一人の個人差を無視する視点がそこに(以下略)

観察対象と観察者のふたつがいて、初めて民族も客体として実存しうると言うと、かなり頭の悪い言い方になりますが、それがプルーストや細川サンが言いたいことなのかと。ながめせしまに。瀬島龍三伊藤忠。私は民族の定義についてはスターリンのそれに頼ってますので、この視座はたいそう新鮮でした。このくらいかろやかでもいいのかという。

以下後報

【後報】

本書は「伯」の一字でブラジルの意味にしています。日伯修好通商条約、日伯毎日新聞、など。ぜんぶ漢字で書くと「伯刺西爾」で、中国では使われてなくて、漢語だとブラジルは《巴西》と書いてバーシーと読まれます。《巴西》もなんかへんな漢字表記で、ベルマーレの漢字表記、《比馬》(ビーマー)と同じルール、"r"音をワザと排除した表記に思えます。別に北京土話でアルホワしてブラッズィー儿と言ってるわけでもあるまいに。

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頁12によると、本書は1991年から1994年のあいだ、合計18ヶ月調査の結果だそうで、そのうち一年はトヨタ財団の「隣人を知ろう」?かなんかの助成を受けたとか。丸山昌彦サン、生田目善助サン、中央公論社早川幸彦サン、河野通和サンに謝辞あり。

本書は三部構成で、第一章が「演芸会の時代」1908年~1945年まで。第二章は「のど自慢の時代」1945年~1980年ごろ。第三章「カラオケの時代」1980年ごろから出版の1995年まで。

第一章演芸会の時代」1908年~1945年まで。

頁5、統計に現れないヤミの労働を「シャドウ・ワーク」というが、日系人が組織を細かく作ってひんぱんに寄合を行い、新年会などの催しの式次第を決め献立を決め各自役割分担を決め終了後に慰労会、打ち上げをするなどは、ヤミの遊び「シャドウ・プレイ」をあちこちに仕込んでいるのではないか、とは細川サンの推察。
同頁5、日系移民の娯楽には現地に同化したものとそうでないものがあり、「飲む・打つ・買う」の三拍子は早くから現地化したという。①酒はサトウキビから蒸留されるピンガ。これが当初から日系社会にも普及したため、日系人どぶろく泡盛を積極的に作ろうとしなかったという。②賭け事は日本の丁半バクチ、花札、麻雀(日本じゃないか)より、ブラジルの非公認賭博、ジョーゴ・デ・ビショに夢中になるものが多く、動く金額が大きいので一攫千金を夢見て破産したり自殺したりの哀話が幾つも残されているとか。③売春に関して日系人男性は他人種を差別せず、むしろ日系社会での悪評をおそれて、積極的に外に出ていったという。①②③すべて、(1)ポルトガル語が話せなくてもなんとかなり、(2)個人で参加可能で、(3)ホモソーシャル前提が、共通事項とか。

頁7によると、(1)産業化が進むにつれて日系人が集団で歌を歌いながら単純作業にいそしむような光景は消え、(2)かつまた日系人は早期から小地主におさまるものが多く、単純労働から逃れることが出来、歌垣やら茶摘み歌的労働歌文化が日本語でブラジルに根付くまでのことはなかったとか。まああっても民族混淆状態で歌われたろうから、ポルトガル語でしたでしょうし。松井太郎『うつろ舟』に出てくる歌が日本語でなくポルトガル語のジャルジネイラ"Jardineira"だったように。

日本人の演芸会はまず移民船の甲板で赤道通過時に行われる「赤道祭」が最初のもので(頁16)1908年笠戸丸サントス上陸から下って1924年、大正年間には邦人商店の広告に、三味線、尺八、それから明笛(みんてき)という明治時代に人気のあった横笛、中国系の楽器ということになるのかな? や、歌詞や楽譜の本が載るようになります(頁17)

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頁24、昭和9年(1934年)になるとコロニア(本書でのそれは現地日本語のそれに従って、日系人社会、日系人居住地を指す)で国産品輸入愛国運動が勃興したとあり、細川サンは、背景には移民は徴兵延期願いという「日本男子にとっては屈辱的な書類を提出して」いたことを挙げており、さらには提出せず応召に応じて帰国、出兵戦死した移民青年たちの存在を指摘しています。時あたかも満州国溥儀即位、北米で排日運動の嵐が吹き荒れ、同年末に日本はワシントン、ロンドン両軍縮条約を一方的に破棄します。のち北米では"no no boy"やら"KIBEI"やらジャニー喜多川やらが澎湃と沸き起こり、南米では勝ち組と負け組に分裂し、前者による後者要人暗殺がひんぴんと起こるようになる。

頁25

(略)ただ日本人の顔をしているだけでは不足で、日本を恋しく思わなくては、そのなかには加えてもらえなかった。(略)

歌はそのための分かりやすいツールのひとつとして機能した、と。

頁38、日本人の宴会は、ピンガを徳利に入れて飲むそうで、徳利を投げ合って乱闘し、鼻水をたらすことが一世の「奉祝」だったそうです。運動会はスポーツでなく演芸的な競技が多く、勝ち負けより笑い、レクリエーションが重視されたとか。それに対してスポーツは、日系人各コロニア対抗の陸上大会や草野球などが盛んになり、「趣味で始めたはずが、ある程度集まるとより大きな目標を設定するために組織が必要となるが、次の段階では組織が権威を誇示し、その規則の運用を厳しく監視するようになり、脱退や分裂を招く」のが「日系社会の娯楽に共通して見られる現象」だとか。

頁39

(略)娯楽といっても遊びっ放しでは満足できない。完璧が要求され、訓練が始まる。そのために心理的には圧迫されるが、日系人は概してその緊張感を好む。(略)

まあ、ゆとり以降それは継承されたのか私は疑問。Z世代ということばは実体がないのでどうでもいいですが。

頁44、午後七時に始まり翌朝午前五時半に終わるという「途方もない長さの」演劇コンクールが紹介され、しかし細川サンは、歌舞伎やインドネシアガムランなどもこれくらい長尺があって、「一晩がかりというのはアジアの演芸ではめずらしくない」と、相対化でシメています。

頁46、日系人は演芸面で二極化し、白人など非日系人にも芸を見せるエリート層は邦楽、ピアノ、日本舞踊を非日系人にもポルトガル語併記の演目紹介で披露し、浪曲や村芝居といった日本農民の芸能は、邦人エリートから毛嫌いされ(しかし彼らの移住国ブラジルは、サンバやカルナバルといったアフリカの影響が強い民衆文化が、イコール欧州のエリート文化と異なるブラジル統合の象徴として燦然と輝いたわけですが)浪曲ポルトガル語で「カント・ブラボ」(力み唄、野卑な歌)と翻訳され非日系社会に笑いものとして紹介されたとか。

第二章のど自慢の時代」1945年~1980年ごろ。

日系社会を深刻に分裂させた「勝ち組」「負け組」の抗争の中で、負け組は積極的に「戦災同胞救援」「母国救援」のイベント活動を行います。演奏会、美人投票浪曲大会、演劇大会、バイレ(舞踏)なんでも祖国支援。対する勝ち組は、ほんとうの救国なら、ただカネだけ送ればいいじゃん、なんでイベント打って興行収益の一部を送るようなまわりくどいことせんならんねん、売名か? そんなカネ汚いわ、不浄やさ、と、21世紀のペットボトルキャップ回収ポリオワクチン運動とその批判とそっくり同じ構造の闘争を繰り広げます。1949年になるとさすがに勝ち組も日本が大東亜戦争という聖戦をポツダム宣言受諾という無条件降伏で投了したことは認めざるを得なくなり、母国は復興した、もう「救援」でなく「慰問」の名目で慈善興業しろよテメー、とイチャモンの主旨を変えます。また、各自個人的に送付した救援小包の値段は本土向けと沖縄向けでは値段が異なったとか。そうまでして送られた救援物資は一度北米を経由するというロンダリングを経て、米ドル換金された上、「ララ物資」と同化されたため、日本人の多くはその中に南米からの善意があったことをいまだに気づいていない、とか。「残念だ」by細川サン。

頁78

 日系のクラシック演奏家はこの後も生まれているが、いったんブラジル社会に出てしまうともどってこなかった。コロニアの内部では彼らを養う経済的・文化的ポテンシャルがなかった。いったん「中央」にでる機会をえれば、もう「地方」では物足りないし、評価を得られないのだから未練はなかった。日本で成功した歌謡歌手や小説家がブラジルにもどってこなかったり(あるいは凱旋帰国するだけ)、ブラジルで通用するようになったスポーツ選手が日系の大会を無視するのと同じだ。芸能全般に関してプロを頂点として成り立つだけの基礎構造のない日系社会は、プロをもつ外部に対してはあまりに競争力が弱いので、その内側で競争するしかない。民族集団の外に音も人も出て行かない歌謡曲は、競争するのにもってこいの材料だった。(略)歌謡曲の競技だけが繁栄した。(略)

そんな小説家いたっけ、と、検索してみたのですが、魔女宅の角野栄子サンくらいしか出ませんでした。

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戦争前にはかなりの日系人青年がコロニアでマンドリンハモニカをたしなんでいたのですが、戦争中は三人以上の日系人がおおやけの場で集まることが禁止され、警察の目をおそれて青年たちは活動をせずにいたそうで、ただ、音楽ならおめこぼしがあった地方もあって、戦後は雨後の筍のように各地で楽団が誕生したそうです。楽団は勝ち組と負け組を結ぶ触媒の役目も果たし、軍歌も演奏しないわけにもいかないし、軍歌だけではレパートリーが成り立たないから西洋歌も演奏しなければならない、と、プラグマティズムが両者の紐帯となったとか。

頁85まわりは日本芸能団のブラジル公演の紹介。第一次で私が知ってる名前は東海林太郎、第二次は古賀政男だけ。第三次はコケたそうです。

この後本書は文献研究からブラジルののど自慢の発祥と発展をたんねんに追ってゆきます。さらには、ウディ・アレンラジオ・デイズ」やブラジルの素人参加歌謡番組「カローロ」と日本ののど自慢のちがい、それがそれぞれの社会要素に起因することなどを論文として記述してゆきます。頁105、「コロニア歌手」は「コロニア小説家」や「コロニア力士」同様コロニアの外に出れない存在で、いわば軍票のようなもので、プロでなくセミプロで、よくてレッスン・プロでしかない。トーナメント・プロでメシが食えるほどのすそ野がない世界。

頁108、南アフリカの黒人ゲットーの素人合掌(イシカタミヤ)は、部族間の抗争を避けるため、白人を審査員にするそうで、しかし日系人ののど自慢は音楽の分かっている内部の権威的人間を審査員にし、のど自慢は審査員ありき、審査員抜きで歌っても仕方ないとみんなが考えるようになる。

頁114、美空ひばりのブラジル公演、力道山のブラジル公演。NHK紅白歌合戦は、衛星放送なんかのはるか昔、1960年代末に16mmフィルム巡回上映という形でまずブラジルにも普及。フィルムの貸し出しが期間限定なことから、地方上映が出来ないときには邦字新聞が批判キャンペーン、領事館にフィルムが死蔵されているというデマが飛ぶと日系新聞がやはり調査取材に赴くなど、一世中心の社会ではつねに関心のマトだったとか。

頁119、戦後移民によってサンパウロ日系人人口が増加。一時滞在の日本人商社マン社会の出現とともに、日本人向けナイトクラブも出現する。

頁130、一部の不良化した二世青年たちの紹介。しかし彼らは、親世代の演歌に対し、ロカビリーなどの日本の新しい歌謡曲を聴くかというとそうではなく、それならブラジルの同種の若者向け音楽、イエイエイエを聴いたとか。

その後、ロカビリーはないがGS、グループサウンズの影響は、戦後移民の若者にあったとか、青年交流というか資金稼ぎのパーティーを企画するのはどこの世界にもあるので、ブラジルのそれはバイレ(舞踏)で、戦前移民の二世たちはコロニアのそこで演奏し、二世主体なので年功序列とは無縁(ブラジル化)してたとか、書いてます。

第三章カラオケの時代」1980年ごろから出版の1995年まで。

頁150、ブラジルのカラオケは北米経由でなく日本から直で入ったのではとの細川サンの推測で、①アクセントが日本と同じ「ケ」の「カラオ」で、北米や欧州の「オ」アクセントの「カーラーケ」「キャリーキ」でないこと、②米国は1987年パイオニア進出、英国1989年テレビ番組"Kazuko's Karaoke Klub"放送開始(細川サンは「KAZUKO'S BAR」と書いてますが、検索するとカズコズ・カラオケ・クラブが正しい番組名のようです)スペイン、イタリアは1990年以降店舗やテレビ番組が進出に対し、ブラジルは1985年、日系社会からブラジル全体にブームが飛び火したというのが細川サンの見立て。

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Kazuko's Karaoke Klub - Wikipedia

北米はパイオニアより先に1983年カラオケ業者日光堂が代理店を設立したそうですが、対象は日中韓の在米アジア人社会で、米国全体をターゲットとはしてなかったとか。細川サンの推測では、人種のサラダボウル社会北米では、自然発生的に日系人の文化が他に広がることはなく、何らかのマーケティング戦略でパブ広告を打たねば広まらないのに対し(テリヤキバーベキューイベントでショウユを広めるなど)南米では、おもしろそうならほかも飛びつくのではないかとのこと(なので、廃れるのも早いとか)

日本人のカラオケは「礼儀正しく」一曲を最初から最後まで責任を持ってひとりが歌い切り、陶酔し、同じ曲を別の人がまた歌い、また歌いと、歌い手が変わるだけで曲はいっしょみたいなことをやるのは暗黙のタブーだが、ブラジル的楽しみ方ではそれはありで、さびだけを何回も繰り返しコーラスしたり、途中で歌うのをやめるのも自由。さらにいえば閉鎖的な室内でなく屋外で、誰かがギターを鳴らし、その辺の何かを打楽器にして広く踊りまくってれば、カネもかからないコスパがよいので結局そっちにもどるという。これは、南欧とも共通してると思います。イタリア人から聞いた話もそうだった。カラオケはそのテレビ番組を見ながら楽しんだが、ちまたの文化にはならなかった、みんなで合唱するから、とのこと。

イキオイブラジルのカラオケ店は、ナイトクラブ同様、商社マン向けのものにならざるをえず、しかし日系人社会、コロニアでは、ボックスでなくポータブルで、演芸大会、のど自慢の後継としてカラオケ大会は定着した。なぜか。細川サンはそこに、書道などとも共通する、世代間の文化の継承理念の尊重を見ます。ニホンゴはもうそんなにだけど、エンカ、ウタを歌うことは自身のアイデンティティー確立の一助になると。書道のとめはねを、漢字を理解した上で鑑賞するのか、なんとなくの親和性で「馴染む」のか。「巷にあふれる漢字やアラビア文字のデザインのTシャツでも事態は変わらない」(頁208)と細川サンは書いてますが、アラビア文字のTシャツ、私は四枚持ってますが、インドネシア土産の「ハラール」と書いてあるものと、通販で買った何かお祈りの文句、アラビア展で買ったアッサラーム・アレイクムと書いてあるもの、これも通販で買ったビリヤニと各種文字で書いてあるもの(デマヴァガリ文字もマラヤーラム文字もタミル文字もシンハラ文字もある)で、ちまたにあふれるのを見たことはありません。ブラジルに行くと、あるのかなあ。

頁210

 日本語教育では、言葉によって精神教育を行おうとする一派と、外国語という技術・道具として教えようという一派がずっと対立を続けている。勝ち組の流れをくむ前者は血のつながりをたてに取り、日本人の子は日本語を覚えて、先祖伝来の価値観や気持を自分のものにしなくてはならないと考える。チビッコがド演歌をよく歌うのは、歌によって精神も伝えられると親が信じているからだろう。その期待に反して、子どもは歌詞を覚えても言葉は覚えないし、精神も引き継がない。ただそれを見守る大人の間にそのような錯覚が生まれるだけだ。そのような精神主義は時とともに消えてゆき、ただ花まつりのお稚児さんのように、キモノをきて演歌を歌う子どもが可愛いから、という親が増えていくだろう。

これ、ものすごくうなづけるし、厚木やなんかの子育てプラザみたいなところでは、在日中国人のママたちが、子どもが中国語を覚えないグチをえんえん中国語で言い合うのにでっくわしたりします。横浜や池袋、西川口あたりのチャイナタウン爆心地ならするっとバイリンガルにもなるでしょうが、どうしても郊外は、という。これが後者の一派でなく前者の一派で、炎黄の子孫がどうのというくらいならまだしも、”小孩子们,大家都应该自觉自己毕竟是一个中华人民共和国公民的骄傲!“みたいな感じな御仁がいたりすると、ブラジル日系人はオッケーですけど在日華人はそんなん言うたらアカン、とダブスタになりそうになったりして。

頁210

  日本語の解らぬ吾が子に寂しくて、愚痴るがごとく邦語を使う(『コロニア万葉集』)

我的孩子不懂汉语使我寂寞,唠叨似的用中文说。(←五七五七七になってると思います)

頁210

  日本人の顔持つなれば日本語の解らぬ孫の頭のみ撫ず(1985年6月12日「サンパウロ新聞」)

华人之脸有的是我的孙子不懂汉语摸他头罢了。(←ギリ五七五七七になってると思います)

細川サンは上の句を評して、もしマゴが邦人の顔をしてなかったら、アタマなでるのすらしなかったのではないかとしています。四世くらいだともう邦人同士結婚しなくなってるので、まあ顔立ちはそりゃという。

細川サンはこの手のサウダージに対し、もう少し手厳しいです。

頁211

(略)言語の喪失は移民に特徴的で、非ポルトガル語圏からきた(連れてこられた)ブラジル人はすべて言語喪失者ということもできる。

日系人だけがそうなんじゃナイデスヨという。

頁221、あとがきで細川さん自身が述べてるんですが、まだ彼と移民のつながりは浅い、しかしどんどん移民一世が高齢化し、物故したり寝たきりになってゆく中、完全なロジックを構築するより、ヨーイドンで書いてしまわねばならないとの思いに駆られたようです。そうして本書は誕生した。

松井太郎『うつろ舟』に載ってる著作リストを作成したのはこれもブラジルにハマッた邦人ドキュメンタリー作家岡村淳サンという方で、細川サンは岡村サンと組んで、無声映画時代アマゾンで邦画上映の弁士を努めた人々についても本にしています。新潮選書なんで、ちょっととっつきがアレですけど、読むかもしれない。

シネマ屋、ブラジルを行く : 日系移民の郷愁とアイデンティティ (新潮選書) | NDLサーチ | 国立国会図書館

以上

(2024/4/23)

本日目出度くラマダン最終日、明日から(今夜から?)狂乱のイード【ラマダン開始から三十日目の朝】

宁夏回族自治区首府--银川新貌。

自(中国简况)《走出民族村寨》新星出版社出版 1992年(36开)第一版(汉)

銀川はかなり人工的に作った街なので、街並みは革命後の漢族タウンのそれのはず。天安門広場のレプリカがあったはず。中衛や固原に行けば、伝統的なモスクがあると聞きますが、今は知らない。

今朝も、三時二十分に目覚ましで起きて、朝食を摂って、暖かい飲み物を五杯ほど飲んで、また床について、眠れるわけではありませんが、からだを休めながらごろごろして、五時の目覚ましでまた起きて、お湯を沸かして、ストレッチして、お茶をあげました。トイレ一回。平熱。ねこはそとに出て、またなかへ。

今日のファジル、イムサックは、東京が03:48で、横浜が03 : 49で、厚木が03 : 50でした。 マグレブは東京と横浜が18 : 16で、厚木が18 : 17。

満願成就なのか、結縁なのか、イードが始まるそうで。お楽しみくださいという。

ja.wikipedia.org

さて。

今日も、明日も、穏やかに、静かに、落ち着いて、平和に。そして、出来ることなら、自分も周りもみな、しあわせにすごせますように。

『少年は荒野をめざす』2⃣ "The boy heads for the wilderness"(Shōnen wa Kōya wo Mezasu)vol.2 by Yoshino Sakumi 吉野朔美(ぶ~けコミックス)"BOUQUET COMICS" 読了

安部公房『けものたちは故郷をめざす』を読んだ*1ので、五木寛之『青年は荒野をめざす』を読もうと思ったのですが、すっとばしてこっちを先に読み進んでいます。

ぶ~けコミックスの表紙は上記。個人的には全六巻のうち、いちばんすき。しかし表紙と裏腹に内容の主人公はかなり不安定です。過緊張で入試失敗?して家出など、メチャクチャ。

で、「自慢じゃないが腕立て伏せが10回しかできない」(頁61)「変なおじさん」(頁30)の家に転がり込みます。頁79でキスシーンなのか、直前で拒否ってキスしてないが正解なのか(ジブリ映画のパヤオ作品のように、ハグはするが最後までキスはしない)の絵があり、かまととぶった読者の間で物議をかもしたんだか、すんなり早熟な読者たちは受け入れたのか、気になりました。りぼんにはあまり大人に迫られるまんがはないと思いますが、ぶ~けやマーガレットレベルになると、女子というものは、すぐへんなおっさんに来られるものなんだと、改めて思いました。そういう意味で講談社「ちゃお」否「なかよし」はあまり好きではなかったです。どうもオッサン臭がする。セーラームーンや怪盗やクランプ、すべてに。

www.huffingtonpost.jp

b.hatena.ne.jp

toyokeizai.net

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/39696

NANA』の冒頭で、イキナリリーマンに遊ばれるJKが主人公として登場するので、驚いた私はおぼこなんだろうなあ。中学生の主人公に迫るのは日夏雄高という批評家で、ヘンな人ですが作るおにぎりと玉子焼きはおいしいという。まあでも現実はまんがとはちがう。私は下記の人が院生時代JKと同棲してどうこうという記事を思い出したです。

b.hatena.ne.jp

頁105、黒い蝶が湧出する場面の描写などはぞっとしましたが、これもコピー切り貼り芸なので、その意味でもなつかしかったです。ジョージ秋山の『恋子の毎日』のホームレスの宴会場面など、この頃はこれにコピーを使うのか的な斬新な見せ方が時々あった。ふつうだと松本零士のように、地球連邦の宇宙戦艦艦隊いちいち描くのめんどうだからコピー切り貼りに頼るなどの用法になるわけですが、ときどき特異点というかブレイクスルーがあった。

頁148で海棠ちゃんというソバージュの子が再登場するのですが、学祭に一切参加せず受験勉強に専念するという、孤立を恐れない強いハートの描写(ほかとなれあって協調して遅れてもほかは責任とってくれない。自分の人生は自分で舵をとる)は、実はそういう人物を知っていて、マンガが先なのか、女性という存在はときどき、トイレは必ず連れションの逆を行く栄光ある孤立キャラがあらわれるものなのか、どっちだろうと思いました。たしか東大かお茶の水に行ったと思う。私はぼーっと突っ立ってその人の通行のじゃまになって気づいてない時に、どいてくれない?と声をかけられたのを、今でも覚えています。

ぶ~けコミックス二巻は1986年10月20日初刷。読んだのは1990年2月15日の8刷。「ぶ~け」61年9月号⇦マチガイから同年4月号までを収録。巻末に「ぶ~けデラックス」61年8月10日号に掲載された「MAKING OF "SHŌNEN WA KŌYA O MEZASU"」収録。そこでエアガンでサバゲーやって締め切りに遅れそうになったりしてたので下記のイラストがあるわけじゃないみたいです。

カバー折の黄味島陸。たぶん。批評家のオッサンではないと思います。手が華奢なので。ここで彼が「BANG!」とやってるのは、中表紙が三人組がぎゃんぐに扮した絵なので、仲間はずれにはしないという作者のやさしさなのかと。

その中表紙の切り抜きが、カバー折裏に。野球少年小林靫彦。なんでくわえてるのがドル札なのか考えましたが、ギャングに扮した絵ってだけで、意味なんてないですね。

メチャクチャな主人公は自分とうりふたつの高校生男子を刺すとこまでいくのですが、サクッとそういう場面を描けたのも、昭和だからなのかなあ。今でも描けますよ~と誰か言ってほしい。

ぶ~けコミックス 東京・一ツ橋 集英社

カバー裏。なにもそんないっしょうけんめいに、音羽グループじゃありませんと公言しなくても、みんな知ってますという… むかし、図書券があたるという双葉社スーパーアクションの懸賞にあたったら、集英社の封筒に入って送られて来て、白泉社もそんなことがあった気がします。音羽グループって、講談社と光文社以外どこなのか、いまだに知りません。

頁101。この「!?」の位置がとてもすきで、なんでこういうふきだしを考えつけるのか、とてもアメイジングでオーサムでエクセレントだと思いました(てきとう)

内田春菊の初期作品も改行がものすごいのですが、これもたいしたもんだと思う。頁134に、五点リーダー「・・・・・」というのが出て、点三つならともかく五つは許しがたいと評論家が口にする場面があります。そこもふまえて、スペースを三つ空けたうえで「!?」を書く素晴らしさを感じ取りたい。以上