『百物語』(新潮文庫)読了

 その辺にあった漫画。読んだのは平成十五年の十二刷。読了といいつつ、これから読みます。

百物語 (新潮文庫)

百物語 (新潮文庫)

 

 カバー印刷 鏡明印刷 デザイン 新潮社装幀室 カバー折の著者の写真はⒸShinchosha 帯はお江戸でござる文庫化、著者最後の連載単行本化、などの告知。解説は高橋義夫。三冊の単行本を一冊にまとめて、さいごのページのノンブルが獣の数字666。小口の模様は、各話がつめになっていて、九十九話を三十数話ごとに分けているから。

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以下後報。ジョワッ(棒 【後報】初出は小説新潮1986/4~1993/2。一度半年休載期間有。Wikipediaを読むと、連載終了の年に漫画家引退宣言をしており、本書の解説でも、彼女はもう絵筆をとらないが、いたしかなし、彼女自身が作品になったのだ、と、病による執筆断念を知っているのかいないのかという書き方になっています。

杉浦日向子 - Wikipedia

ウィキペディアを読むと、近藤ようこのほかにやまだ紫の名前も出てきて、うっわーなっつかしーと思ってしまいました。やまだ紫の逝去も私は知らなかった、あるいは忘れていたです。不詳アラマタ、妖怪との同衾が彼女の人生のエポックメーキングとしては大きかったと勝手に私は思っていたのですが、本書を読むと、どの時点からがビフォーアフターなのかまったく分からず、内縁の妻がいながら来るものは拒まず去るものは追わずってそれなんだよ、みたいな「気分」、その意味での、ものがたりより怖い、生きている妖怪を感じさせる場所は皆無でした。病と恋(観念上の)があって、後者の痕跡が見えないのであれば、それは作品の書き手として勝利だと思います。今でもオノ・ナツメでも誰でも、こうした系譜の描き手は連綿といますし、皆、なぜこういうテイストを紡げるのだろうかといつも不思議です。杉浦日向子、別にこの絵柄でなくてもよかったのではないか、印象深い表情もたくさん描けるけど、それに執着していないし、それを自分のカラーだと広く世にしらしめようとも思ってない。「結局」の意味で別の単語「結句」を使うなど、特徴はそこここにありますが、業とか情念とかがきっとあるはずだ、それを見苦しく出さねば人間ではない、という一派を、かろやかに最後まで眺め切ったのでしょう。こっちは眺め切られて口惜しいなあ、という感じです。人は変えられない。自分は変えられる。私はむかし、合葬もニッポニアニッポンも酔いもせずもふてえ野郎もよう読めなかったのですが(何かが邪魔をした)百物語を読み切れてよかったです。ソ連は立ち読みしました。以上

(2019/4/3)