チベット現代文学の曙『ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』འདི་ན་ཡང་དྲག་ཏུ་མཆོང་ལྡིང་བྱེད་བཞིན་པའི་སྙིང་གསོན་པོ་ཞིག トンドゥプジャ དོན་གྲུབ་རྒྱལ། 読了

bensei.jp

トンドゥプジャに日本語版ウィキペディアはなく、上記勉誠出版のページがいちばん詳しいと思います。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ru/3/32/Dondrupgyel.gifペンネーム、ランドゥル。

この本はチベット文学研究会のファーストサマーウィカ出版物ですので、まだ例の、違う字体で作者名と書名を書き分ける装丁をやってなくて、どっちもあのインセクト調の字でやってますので、写しやすいと言えば写しやすいです。タイトルは長いので、トンドゥプジャだけ写して検索にかけたら、チベット語/英語/イタリア語/ロシア語/エジプトアラビア語ウィキペディアが出ました。本書はトンドゥプジャのアルファベット表記を"don grub rgyal"としており(頁386)英語版ウィキペディアの"Dhondup gyal"とは異なります。チベット文字の表記じたいは同じですので、アムドとラサの発音のブレかもしれません。それなので、本書のアルファベット名で検索しても、本書の書誌情報以外出ず、英語版ウィキペディアにはたどり着けないということになります。(ただし英語版ウィキペディアのリンクにあるワールドキャットなどは"don grub rgyal"を採用)

Дондруб Гьял — Википедия

ロシア語版ウィキペディアの表記も、英語版のラテンをキリルに置き換えただけですが、出回ってるのとちがう独自写真(上)を置いてますし、漢字表記へのリンクを諸言語ウィキペディアでただひとつつけてますので、そこから漢字表記をコピって、百度を検索することが可能です。まあ本書を買ってれば、頁453に漢訳作品の紹介がありますので、そっからトンドゥプジャの漢語表記《端智嘉》(duan1zhi4jia1)に辿り着くことも可能です。

baike.baidu.com

話をもどすと、チベット語ウィキペディアに各作品があり、勉誠出版表紙のチベット語の字体が違う字体でないかったので、ブー版ウィキペディアの作品一覧から本書の書名のチベット語を比較的簡単に見つけることが出来ました。違う字体だったら無理筋です。そうして比較的短時間でこの読書感想にチベット語をつける(コピる)ことが出来ました。ありがとう、トゥジェチェ~♪(ラサ語)*1

ཐུགས་རྗེ་ཆེ - Wiktionary

འདི་ན་ཡང་དྲག་ཏུ་མཆོང་ལྡིང་བྱེད་བཞིན་པའི་སྙིང་གསོན་པོ་ཞིག - Wikipedia

དོན་གྲུབ་རྒྱལ། - Wikipedia

དཔལ་དོན་གྲུབ་རྒྱལ། འདི་ན་ཡང་དྲག་ཏུ་མཆོང་ལྡིང་བྱེད་བཞིན་པའི་སྙིང་གསོན་པོ་ཞིག

カバー取った本体表紙(一部)

本書は471ページもあるのですが、しょうせつ自体は372ページまでで、あとは解説と付録です。最初、観念的な大長編小説かと思って読むのを敬遠して、だいぶん寝かせていたのですが、そんなわけない短編集で、しかも本文以外で百ページカサ増しだったので、正直助かりました。大長編を根詰めて読むのはたいへん。読んでて飽きた時に、ほかの軽いのに浮気しにくいし。

解説は、「作品解説」という、おやくそくの各作品ネタバレや裏話よもやま話の部分(さいごに掲載される『愛の高波』という作品(共著)は、党書記が嫉妬深く意地の悪い人間として書かれているので「ダンチャル」誌に掲載を断られ、死後日の目を見た作品である等)と、大川謙作サンによる「訳者解説」の2パート。後者があれば中国現代文学のレポートが一部書けます。

曰く、80年代にはチベット文学とはなにかという一大論争が巻き起こり、チベット語で書いたものだけがチベット文学なのか、漢語で書いたものもチベット文学なのかという、こんにちでは議題にすらなりにくいテーマでホットに論戦がかわされていたそうですが、それはその時代の西蔵自治区党委書記が、歴代で唯一非漢族だった伍精華(彝族)で、その力に預かるところが大きい。*2ちなみに、チベット文学研究会のスタンスは、のちにチベット人作家の英語作品を邦訳したことで、おのずと明らかです。

曰く、解説で「ダンディン支配」と書かれる、古代インドの詩歌の伝統に縛られた文語文による、口語とかけ離れた硬直した文学からチベットを解き放ち、口語文、自由律詩歌などを創作した第一人者がトンドゥプジャであると誤解、表面的な評価を受けがちだが、チベットにも「ダンディン支配」と異なる文脈の作品があったことが敦煌文献などで分かってきており、文語文法も能くしたトンドゥプジャはそれらの文献を高等教育で専門的に研究し、それらすべての伝統を融合継承リビルドしようとしたということが云えるであろう。*3

曰く、伝統社会の旧弊を批判したことで逆に批判にさらされた彼の自死は、自殺がチベットではタブーであったこともあり、哀切とともに、それ自身が怒りと非難を浴びた。ここは彼の遺書の邦訳も載ってます。

等々。その後付録。その中の「チベット文学の読書案内」では、蔵語原文、漢訳英訳邦訳等々の現況を、なつかしの季刊中国現代文学まで含め、そぞろ紹介しています。これと、訳者解説の「チベット文学とは何か」冒頭で語られる、解放軍作家の雪山報告文学をコンボにすれば、ほぼほぼ本書刊行時点までの「チベット文学」は包括出来るのではないかと(亡命チベット人による海外での作品発表を除く)ふしぎなことに、訳者解説で、トンドゥプジャを継ぐものとしてトップバッターに名前が挙げられている、ジャンプ(ドルジェ・ツェラン)という作家の作品は、チベット文学研究会がまだ邦訳してないように見えます。商業的にウケる作品でないのか、火鍋子やセルニャには掲載されているのか、最近出たアンソロジーには入っているのか…… また、最後の訳者あとがきで、チベット文学研究会の骨子が固まる前の2006年くらいに、読書会でトンドゥプジャの作品として読んだが、のちにほかの作家の作品であることが分かったという『野菜市場での見聞』も、邦訳があれば読んでみたいのですが、『ティメー・クンデンを探して』『ハバ犬を飼う』『黒狐の谷』『風船』のどれかに紛れ込んでいて私が気づいてないのか、あるいは火鍋子やセルニャにのみ掲載されてるのか、最近出た本に入ってるのか、未訳なのか、気にしています。

訳者あとがきでは、チベット文学研究会形成史もあわせて語られており、私は火鍋子がセルニャになったと思い込んでいたのですが、火鍋子は火鍋子で、尾崎文昭という方や谷川毅という人の名前が見えてたり、また星泉さんは後から合流したとのことで、それでホモ・ソーシャルなふいんきが突然女子会的ムードにひっくり返されたとここで書いても信用する人がいるわけがありませんが、もともと大川謙作さん黒一点だったので、ホモ・ソーシャルになりようがないという…

付録にはほかにトンドゥプジャ年譜やことわざ紹介があり、ことわざ紹介はのちにアムド語文法というすごい本を書き上げた海老原志穂という人が書いてるのですが、ことわざをラレツするだけになっていて、〆切の関係だったかもしれませんが、ものすごく書いた人が心残りだった気がします。それらひとつひとつが、チベット固有の文化の反映なのか、インド文化あるいは漢文化の影響によるものなのか、チベットといってもアムド固有のものなのか、ラサなどにも通暁する汎チベット文化なのかとか、書ければ書きたかったガーというところだと思います。「仏の顔も三度までデスヨ」「嘘も方便とお釈迦様が仰ってイマスヨ」

で、付録にアムド地図があるのですが、またこれが行政区画は漢字表記(ゼコの沢庫など)だが、城市や寺院はなべてチベット語表記で、クンブム(タール寺)やラブラン(夏河)とかはさすがに分かるのですが、かなり分かりませんでした。

<ほかに分かってる地名>

チャプチャ、ロンウォ(隆务)レプコン(热贡)チェンザ(尖扎)

<調べた地名>

トンコル ⇒湟源でした。

Huangyuan County - Wikipedia

known in Mongolian as Dan Gar and in Tibetan as Tongkor.

ツォンチュ河 ⇒湟水。

Huangshui River - Wikipedia

The river was formerly romanized as the Hwong-Choui. In Amdo Tibetan, the Huangshui is known as the Tsong Chu.[1]

テオ ⇒迭部でした。

テウォ県 - Wikipedia

ナンラとかグル・ラモデチェンは、レゴンの仏画村とか見ればありそうなので、調べてません。

シャキョンという寺院が分からなくて、夏瓊寺なのか夏宋寺なのか峡群寺なのか、分かりませんでした。たぶんこのお寺が出てくる箇所を読めばヒントがあるのでしょうが、もうどこに出て来たお寺なのか忘れています。

baike.baidu.com

baike.baidu.com

夏琼寺 - 维基百科,自由的百科全书

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同仁から甘粛省へ抜けた先のゲンギャ、カギャという草原地帯も分からず、積石山とか、保安族や東郷族のあたりかなあとぼんやり思ってます。

Jishishan Bonan, Dongxiang and Salar Autonomous County - Wikipedia

むかしもこの辺、公路で勝手に料金徴収するところがあったようななかったような気がしたのですが、今はホンマもんの高速道路の出口のループ曲線が見えるので、貼っておきます。

www.google.com

タッカルデゾンというお寺も分かりませんでした。グーグルマップのそのあたりに、僧坊都市みたいのが見えて、お寺の商店やら旅社やら漢族料理店やら公共トイレやらが表示されるのですが、かんじんのお寺名は出ません。

Google マップ

この地図は、「※作品に出てくる地名を重点的に示した」とあるのですが、例えば、『恩知らずの嫁』のタクカル草原は載ってません。ほかにも、小説には出てくるが、地図に載ってない地名があるように思います。

地図製作はオフィス・モモという、ネパールやラサではショーロンポー的バオズなのにアムドに行くとビンズになってしまうぜ、みたいな名前のところ。田中明美という人に頼んだとか。装丁画と『細い道』扉絵はトンドゥプ・ツェテンという新進気鋭のアムドの画家の人で、現代絵画と仏画(タンカ)両方こなすそうです。この人の絵はややグロテスク(めんたま~)で、それ以外の各作品の扉絵は高橋敏裕という人。装丁 水橋真奈美(ヒロ工房)訳者あとがきで勉誠出版編集者(当時)岡田林太郎という人や、東外大の科研への謝辞。

https://bensei.jp/wpja2/wp-content/uploads/2012/11/tong.jpg付録には、このほか、その後ニューヨークでチベット文化図書館館長をつとめることになるペマブムという人による評伝『トンドゥプジャの生涯』が収められています。訳した人は星泉さん。これは、英語版ウィキペディアの出典にも出てくるエッセーだと思います。それが邦訳で読めるわけですが、これが身につまされるというか、泣けました。

私は田山花袋田舎教師*4が好きで、わざわざ行田や羽生、加須に聖地巡礼に行ってゼリーフライ*5をしこたま買って帰ってもてあましたこともあるのですが(よばれてくれない)トンドゥプジャの生涯というのはまさにそれという感じです。田舎の代理教員が立身出世がおぼつかない中で、さらにテニスコートの教え子女学生にだけは尊敬されたい、モテないというキモちわるい自尊心が膨満感で、ほんとなんともいえないです。漢族も田舎は代理教員が多いので、北京五輪CG花火監督チャン・イーモウの「あの子を探して」《一个都不能少》なんか見て、それを知ってる邦人も少なくないかと。関係ないけど、《一个都不能少》はそのままキンペーちゃんの座右の銘というかスローガンな気がしますが(ようするにゴントンフーユィー)、ホントにそれ出来てんの? 他への抑圧と中抜きだけになってまへんか、という点を私が中国人だったら指摘出来たらなあ、でもそしたら生きてないかな、と思います。

彼が寺院などの既成権力を公然と批判してタブーを破ったこと、海外亡命チベット人にまで言及する世界チベット人民団結(团结)万岁みたいな詩を書いたことなどから、ディープステートに消されたのではないか、Q-Annonのしわざか、など流言飛語が飛び交いまくった(実は生きていてインドにいる説まで)のを否定したかったのだと思いますが、『トンドゥプジャの生涯』は、身近な人間から見たトンドゥプジャ、ぽっと出で名声をゲットしたにもかかわらず、まあブンゲイなんかでは食えないわけですので、ろくすっぽ就職も出来ず、プライドだけは無限大∞な悲しい閉塞状況を実にことこまかに書いています。最初のオクサンはチベットジンだから耐えられたが、二度目のヨメはモンゴル人(海西モンゴルではないかと推測します。北京で知り合ったそうですが、本書刊行時点で青海省図書館勤務だったそうなので。が、未記載につき不明)なので、チベット男権主義のDVなんかには、とってもじゃないが、漢族的センスで1秒も耐えなかったみたいなところまで書いてる。

頁433

(略)酒を際限なく飲んでいたことと、女性関係にルーズだったこと、他人といつも口論をして、果ては取っ組み合いのけんかになっていたこと、若者たちに袋だたきにされていたことなど、話題には事欠かなかった。

1981年くらいに、蘭州の西北民族学院で、学生と茶話会というか飲み会をやった時、ペマブムさんもいたそうです。

頁424

(略)馬鹿にされたと言う者たちもいれば、皮肉を言われたとか、軽蔑されたとか、女癖が悪いことをはばかる様子もないなどの語り草になった。いずれにしても学生たちにとってはトンドゥプジャの作品を読んで心に思い描いていたトンドゥプジャ像と、実際のトンドゥプジャ像が一致しなかったようだ。

二葉の写真から、どういう人物像が思い描けるでしょうか。当時はたぶん、写真は出回ってなかったと思います。しかし、彼が自分で朗読した作品のカセットテープなどはバンバカ出回っていたそうです。彼の態度は他人から見るとえらそうで鼻につくが、本人的にはそれは必要な鎧、欠くべからざる自尊心だったとか。その辺のギャップが、髪を切ってる方の写真を見ると、手に取るように分かる気がします。こういう人間が、世の中が生きにくくなるのは、当たり前なのかそうでないのか、救済なんか果たして必要なのか、「自分は変えられる」のかどうか。

頁425

(略)彼は「この学校は牛ばかりだ。ヤクやゾは少ししかいない」と言った。その言葉の意味はチベット人漢人の混血ばかりで純粋なチベット人は少ないという意味である。

自分もチベット人と離婚して浮気相手のモンゴル人と再婚するわけですが、それはさておき、自分を安売りせず、仕事の値踏みをしているうちに、どこも雇ってくれなくなり、コネでもぐりこんでも追い出しを画策されたり、とにかく身につまされるというか、かーいそうです。『ツルティム・ジャンツォ』頁311に、主人公は北京の学校宿舎に住んでるという設定ですが、来客に出すお茶のお茶っ葉すらなくて(買うカネがない)白湯を出す場面があります。実生活そのままだったのかもしれません。

百度の彼の評伝は、練炭自殺というか一酸化炭素中毒でこと切れたのが発見されたのと前後して、モンゴル嫁から判をついた離婚届けが、就活先からは採用通知が舞い込んできたとして、すべては遅かった! すべては遅すぎた! みたく、アド街ック天国、否、ドラマチックに書いてますが、『トンドゥプジャの生涯』にはそういう盛り上げはありません。彼の遺作や草稿を巡る、ヨメや遺産管理人の醜い争い、纽约だから平気のへっちゃらで書ける、彼を追悼する自然発生的な集会やイベントが当局を刺激して、ドゥーリーイカンゴレン、大家族の一員でいよし、子ども部屋オジサンほどの権利も与えないけどな(とまでは言ってないか、やってるけど)的結末ガーみたいなことが書いてあります。

チベットではじめて現代文学を生みだし、若くして自ら命を絶った伝説の作家、トンドゥプジャ。人びとの喜びや哀しみを丹念に描きだすその作品群は、物語を語る情熱と創造の気概にあふれ、世界でも類を見ない瑞々しさにあふれている。作品世界を理解するための詳細な解説、伝記を付し、その主要作品を日本ではじめて紹介する。ぼくの耳に今なお響きわたっているのは―― 勉誠出版

上は帯。右はカバー折。

私の顔はほてり、心は後悔に苛まれる。

こう考えるからだ。

私自身も赭面のチベット人の末裔でありながら、

祖先たちが拓いたこの細い道を広げるために

鍬ひとつほどの土を掘り返したこともなく、

ひと鋤すらふるったことがなかった。

この細い道を数え切れないほど歩みながらも、

細い道の恩恵、なかんずく

この道の栄光と誇りについては

一度として考えてもこなかったのだ。

これほど恥ずかしく、悔いの残ることがあろうか。

(「細い道」より)

以下各作品感想(後報)

【後報】

青海文艺网

上のサイトだと、もう少しヨコに広がったトンドゥプジャのカオが載ってます。

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/81E962DLrDL.jpg左は、アマゾンに出品されている漢訳併記短編集の表紙。

蔵文作品集(図書館ラベルをつけた古書の出品)の目次画像が見れましたし、蔵文版ウィキペディアにも作品名が書いてあるのですが、なぜかグーグル翻訳もそれ以外の機械翻訳も、チベット語ブータンのゾンカ語に対応してないので(ウイグル語はトルコ語の素地があったせいか、ここ数年内に実に素早く対応しましたし、電子化が遅れたミャンマー語もその後の対応は早かったのですが、チベット語は、まだです)原題を知るには、人に聞くかべんきょうするしかありません。と、いうところで、左の出品が見つかったので、これを見れば、三つか四つくらいの作品名は、漢語名と照らし合わせて原題が分かりそうですが、収録作品のうち、《没有良心的儿媳妇》《活佛》《骨肉情》《被霜摧残的花朵》《牛虎滩》は邦訳版に入ってますが、《虚幻无常的梦》《神游赞普墓》は邦訳作品のどれと対応するのか題名だけだと分かりませんし、これは小説集なので、邦訳に入ってる詩はアウトオブ眼中ですし(『ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』は詩です)買うかどうかは考えます。神保町のアジア書籍専門店でこの本を検索しても出ず、書虫がアマゾンの出品より高い(アマゾンは送料が幾らか知りませんが)のが、日本における漢訳現代西蔵文学の現在位置というか需要なんだなと思います。

ペンツォ

1981年の第一作品集『曙光』《晨曦集》収録作品。田舎教師ガー。

すでに要を摘んでの華国鋒は下台していたわけですが、70年代後半から80年代初期の時期なので、(池莉の『ションヤンの酒家』でも、おかみの風向きで屋台を出したり引っ込めたりを臨機応変に行う武漢商人の当時の日常が回想されている)この作品に限らず、トンドゥプジャの作品は、文革やら大飢饉やら国共内戦について、どこまで書いたらいいのか(日本軍は青海省甘粛省にまで来れなかったので、それには言及しなくてヨシ)、また、どのくらい党や政府を賛美するテンプレをまぜとけば目くらましになるのか、こわごわと手探りで、慎重に書いたんだなという前提で読まないと、後者の体制翼賛箇所にカチンと来ること請け合いです。文学作品を鑑賞する際、その作品のみを単体で欣赏するか、作品の背景まで踏み込んで読むか、ひとは二派に分かれると思いますが、トンドゥプジャに関しては、明確に後者で読まれることをお勧めします。ほかの、彼に続いた後発の作家たちと比べても、明らかに彼の作品は時代の空気の中で、政治的に足を引っ張られることを恐れ、予防線を張り巡らしてるところがあります。

特筆すべきは、それが、チベット語で書かれた作品、漢族にはチンプンカンプンな文字の羅列であることです。チベット語を能くするものだけがこれをチェック出来るわけで、敵はいつも身近なところにある、そう思います。シャーチエでしたか、チベット文革の悲惨さを記した写真集の邦訳が出てますが、漢族がチベット文化を破壊したと一面的にとらえていいのかどうか、トンドゥプジャのチベット語の中のおもねりを見て、考えざるを得ません。あのチベット人の喧嘩っぱやさや、カムの「人殺しつつ、経唱えつつ」が、その矛先を同胞に向けることもあったのか、なかったのか。私自身牧地の牛追いスタンガンを持った地元ヤンキーの与太民警どもに宿に踏み込まれたことがあるので、いっそうそう思います。

この小説を読むと、登場する、むかしの西寧の長距離バスターミナルや、西寧賓館の「花壇」がなつかしく思い出されます。なぜ私なんかが西寧賓館の花壇をなつかしく思い出せるかというと、西寧賓館にドミトリーがあったから。ガイジン老外ケシカランですな(棒

ドゥクツォ

1981年の第一作品集『曙光』《晨曦集》収録作品。セルロンとかセルタンとかルクモジョンという地名がさっぱり分かりませんでした。四川省の《色達》かなあ、くらいなイキオイで。

セルロンだけ、亜紀書房の「マルチスピーシーズ人類学」紀要誌*6にモンゴル人?研究者が書いてるのが検索で出ましたので、なんとか分かりましたが、フィリピンのセブ語のウィキペディアがあるので、何か交流があるのだろうかと不思議です。

Sai'erlong Township, Qinghai - Wikipedia

Sai’erlong Xiang (kapital sa baranggay sa Pangmasang Republika sa Tśina, Qinghai Sheng, lat 34,49, long 102,14) - Wikipedia

赛尔龙乡 - 维基百科,自由的百科全书

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語り部

初出未記載。語り部の話ですよ、トホホ。文革で大変でした。日本でこの本が刊行されてから、日本でいろいろあったのかなあ。

全集二巻小説編の目次。さて、どれがどれでしょうという。

頑固爺さん

初出未記載。漢訳版の《虚幻无常的梦》はこれかもしれません。どうぶつはさべるわ、天変地異は起こるわ、大躍進で飢餓だわ反右派闘争だわ。

ドンタクタン

初期の短編だとか。1981年「ダンチャル」誌に発表。ドンが野生のヤクで、タクが虎なので漢訳は《牛虎滩》

(2022/5/15)

化身

《活佛》or《活佛的故事》こう書いてて気が付きましたが、近年の日本の研究者が「化身ラマ」という言い方をするのは、「転生霊童」という言い方をしないのではなく、「かつぶつ」という漢語転記を忌避してるのかもしれません。本書にもハダカ麦が出ますが、チンコー麦という漢語音訳はしてません。「ムー」〈亩〉=「畝」という畑の面積の単位も出ません。

ツェラン・トンドゥプの小説で、邦訳もされてる作品に、彼の使いまわしキャラである高僧アラク・ドンが、牧地の娘をコマして妊娠出産まで行ってしまう話があります。似た話なので、『化身』が不謹慎なら、アラク・ドンはどうなってしまうのか、気になります。『化身』はニセ坊主の話で、しかも最後は捕まるので、共産党治世は網恢恢疎にして漏らさずじゃよ、ウッシッシ、てなもんで、習近平体制下で量産されまんたといっても通用しそうです。それだけ三周くらい回って、今の中国文化はその時点まで退歩したのかと。『頑固爺さん』にも僧服を仕立てる話がありますが、チベットの古着屋では、やはり僧服が群を抜いて高いそうです。托鉢しほうだいなので、実用価値が大きいのでしょう。

定説ではチベット人の方が漢族よりエロに関してはあっけらかんとしてるわけですが、この小説はそれを裏付けるでしょうか、それとも否定するでしょうか。

頁96、アムドでは台所の竈とは別に、中庭などで干し草ともみ殻を焼き、その燠でパンを焼く習慣があるということですが、これ、回族やサラール族と共通の習慣ってことはないかな、と、思いました。

霜にうたれた花

《被霜摧残的花朵》チベット文学研究会の一連のチベット人作家の作品邦訳の中で、ハッキリ娯楽としての恋愛小説がバンバン出てくるのが本書で、これはその中の白眉です。高橋留美子ばりに、流言飛語でみんな嘘をつき合って、上を下へのナントカ。「しのぶ、ラムをみなかったか?」

マ・パンケッの人が『ビルマ文学の風景』という、ヲチ集大成みたいな本を先年上梓しました*7が、そこで、従来のビルマ文学は恋愛小説(それも盗作)が多かったとしていて、底の浅いのはよろしくないけれど、これくらい面白ければ、結局小説もエンタメの一種なんだし、恋愛小説オッケーオッケーだと思います。しかしそんな面白い恋愛小説が、『ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』なんて暗そうな題名の本に入っているのだから、目くらましにもほどがあるという。

頁125、チェンザ方言で、兄のことを「アジャ・ツェラン」というそうで、そんな、細かすぎると思いました。貴徳や熱貢だともう通じないのだろうか。

頁134、当時妻帯者は大學進学を許されていなかったとあり、それで、村で事実婚の男性が学内恋愛して二股という事例が頻繁に以下略なのかと思いました。女性が二股という例はない。

ラブランはチベット世界ではプロスティテュートがどうのこうのという話を思い出し、この話で悪い奴にヤラれるのはタール寺かどっかですが、その後の展開読みながら、意味深だなあと読みました。

頁146、本書は「ゾ」の説明がないなあ、と、先に解説を読んでて思ったのですが、ここで注がついてて、で、あとはもうないです。ヤクと牛の交雑種のオス。その辺は、『黒狐の谷』なんかではより親切になってる気瓦斯。

頁190、伝統歌謡の歌詞で、モンという地名が出て、それがインドのアルナチャル・プラデシュ州であると注があって、チベット伝統世界の地理観て、どないなっとんねんと思いました。

悲しみ

当時妻帯者は大學進学を許されていなかったとあり、それで、村で教師が教え子に手を出して、その後また都市部で専門教育を受ける機会があって、それで、結婚してるとそのチャンスを逃すから、で、男性はやはり学内恋愛して二股以下略な話。えげつない。

頁192、髪おろし式というアムドの女子成人儀礼は知りませんでした。髪を結うってのはそういうことなのですか。

マスクをつけた男性という描写があり、チベットのマスクってなんだろうと思いました。

青春の滝

詩です。1983年ダンチャル二号掲載とのこと。漢訳がネットに落ちてました。

端智嘉诗歌:青春的瀑布(汉文版)藏人文化网

(2022/5/16)

恩知らずの嫁

《没有良心的儿媳妇》鬼ヨメというタイトルではあるんですが、まず実の父に相当ヒドいです、文革の時。母は大躍進の飢餓で死亡。チベットだとこういうのは因果律で納得したりするのかなあと思いました。書いてないけど、母の死亡の原因を父だと当時九歳の娘が思い込んだとしたら、紅衛兵として実の父を糾弾する流れも理解出来そうな。

さいご、黒い驢馬に乗って茜色の空の向こうに消えてゆく娘の幻影がありますが、こういう描写を読むとすぐに、松谷みよ子の現代民話考で、津久井かどっかの神社で、日清日露から太平洋戦争まで、戦争が始まるたびに軍神が白馬に乗って社の扉を開けて出てゆくさまが目撃された、という話を思い出します。1941年12月8日以降、軍神は何処に行ったのか。あと、斎藤真一画の絵本も思い出します*8

共著とのことですが、訳者解説では、共著者もよう分からんし、だいたいトンドゥプジャが書いたんちゃうんとのことです。

骨肉の情

《骨肉情》タンカ絵師たちの生きざまというか修業というか流浪の人生というか。アムドを活写というより、黄南という、アムドの中の農村地帯の特色を活写という気がします。ペマ・ツェテンの小説にチャップリンが出てくるごとく。

細い道

カバー折に一部抜粋されています。1984年1月25日、於北京の一筆つきの散文。私はチベットの未来のためにこうありたい、みたいな。いよいよ田山花袋田舎教師チック。

ここにも激しく躍動する生きた心臓がある

詩です。訳者解説にあるとおり、海外チベット人との連帯をうたうことは、明らかに一線を越えた文章表現でしょう。しかしまあ、2010年代になるまで、わりと亡命というかたちでの行き来が可能だったのが、のんきと言えばのんき。で、本気出されたらこんなに息苦しい。

この本を読む過程で、アムドの邦人旅行ブログなんかも検索で出たので見たのですが、行けるとこだけ行くのはまあ当然ですが、ラブランでもゾルゲでもマルカムでも、チベットレストランがあって、旅行者の人はトゥクパとかテントゥクとか食べてるんですよね。せっかくチベットに来たんだからチベット飯を食べようということみたいですが、かつての姿として、アムドの外食産業はほぼほぼ回族に牛耳られていたというイメージしかなかったので、読んだり写真を見たりしながら、驚きました。ツァンパとバター茶で自炊して、〈手抓羊肉〉の世界だと思ってたです。で、けっこうレストランの人が英語喋れたりして、あちらで教育を受けて帰ってきた人が、行き来が出来なくなってから、観光地で飲食業でもやるかということで、外国人観光客の来にくいウー、ツァンでなくアムドに進出してるということはないだろうかと思いました。

ツルティム・ジャンツォ

未完。絶筆。冬の夜一人の旅人が、ではないですが、北京の宿舎でびんぼう作家が彼の生涯を伝聞だけで書いてると、ほとほとと戸を叩く音がして、本人が訪れます。好きな形式の話です。湯河原の日本国籍フィンランド人政治家ツルネン・マルティンと主人公は別人。ツルティム・ジャンツォは一種の狂人というか、毛沢東文殊菩薩の化身と信じたり、共産党による侵攻自由、否信仰自由の施策によってチベットに訪れた幸福を血で汚すものはあはれなりと云ったり、仏教振興共産主義ワンスイと言ったりして、本人は本気なのですが、皮肉ととられて投獄されるような人です。

この小説で、例のセブンイヤーズチベットでボロクソに描かれるアベイアワンジグメイを登場人物たちが賞賛する箇所があったと思ったのですが、記憶ちがいで、見つけられませんでした。本書のどっかにあったはずなんですが。それも皮肉かというとそんなこともなく、晩年深圳にいたとかいないとかいうジグメーを、けっこうメインランドチベットの人が「えらい人です」と言っていたのを聞いたことがあります。セブンイヤーズチベットだけ見た原理主義の外国人が卒倒しそうな話。

愛の高波

共著。死後発表。習近平体制下の作品かと思うくらい、大岡越前とか八代将軍吉宗とか水戸黄門が出てきて、勧善懲悪でオチがつきます(ついてないかな)今日もお江戸は日本晴れ、ヨヨヨイヨヨヨイヨヨヨイヨイ、あ目出てえな。それまでは美徳の不幸というか、ひたすら読んでて鼻白むような善人で純粋まっすぐくんな主人公が、いじめとパワハラが大好きな根性のねじ曲がった党幹部にヒドい目に遭わされます。たぶん。

思ったよりぜんぜん面白い本で、いちばん面白いのは早逝した著者の顔写真だと思いました。現有のチベット人作家たちのポートレートは、トンドゥプジャの遺影と比べると、俺も、生きて、俗世の垢にまみれちまったぜ、みたく、思えてしまうかもしれません。でもそれはそれでいいカオになってるのは間違いないので、ヨシ。トンドゥプジャは、この顔で女にだらしなくて、学生と取っ組み合いのけんかやったり袋叩きにされてたんだなー、と思えばよいかと。その辺が血の気の多いチベットっぽくてさらにいい。以上

(2022/5/17)

*1:

stantsiya-iriya.hatenablog.com

私は以前、アムドの人に、アムド語でありがとうは「グワジェンチェ」、ラサでは「トゥジェチェ」と教わり、そう信じて、この日記の、ルンタのドキュメンタリー映画の感想にもそう書いたのですが、この映画では、ギャロンの人間が、こっちのことばはよく分からんと言いながら、ふつうのチベット人には「グワジェンチェ」僧侶には「トゥジェチェ」と謝辞の言葉を使い分けていて、たいそう不思議に思い、チベットレストランまで行って、ラサでも「グワジェンチェ」って言うんですか? と聞いたら、言うんだそうです。

*2:

Wikipediaでは1985年5月から1988年12月まで西蔵自治区党委書記と明記。

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百度にもその旨<重要文献>に記載があるが、<大事年表>では省略されている。

baike.baidu.com

どちらもそこまで書いてませんが、公的な場でチベット服を着てチベット語で演説を行った人物だとか。

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kotobank.jp

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www.aozora.gr.jp

www.iwanami.co.jp

www.shinchosha.co.jp

田山花袋の小説『田舎教師』の舞台となったまち | 羽生市

*5:

埼玉県(行田市)ゼリーフライ|生活科学|植物のチカラ 日清オイリオ

www.city.gyoda.lg.jp

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stantsiya-iriya.hatenablog.com

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stantsiya-iriya.hatenablog.com