左はカバー。ロチサンは右側、真ん中がお菊さん。左は軍隊内舎弟のピエール。麦わら帽子がキライで、それでわざわざ写真をとったと推定されます。さすがフランス人。
グレゴリー・ケズナジャッサンの小説『鴨川ランナー』*1で、来日前米国人の主人公が恋人から「お菊さんやりに行くんでしょ」と言われる場面があり、『お菊さん』を読んだことがないかったので読もうとして、本書を読みましたが、本書は『お菊さん』ではないかったです。
訳者の船岡サンが1975年渡仏の際に遺族に未発表日記の閲覧を申し入れ、了承され、滞日時の日記を発見し、編訳したのが本書です。ロチサンが文学作品に仕立てる前のナマのメモ。ロチサンの日記はそれまでにご子息が編集したものが公刊されていたのですが、日本に関するものはまだで、ご子息が既に逝去され、その未亡人しかいなかったことがよかったのかもしれません。
上の左のロチサンは三回目に日本に来た頃の写真で、ピエールの後釜の隊内舎弟、オスマンとのツーショット。50歳くらいですかね。右は、ウィキペディアにも使われてる写真。一度目の来日が35歳で、その時既に四海のナオンをブイブイこましまくっており、ロチというペンネーム自体が、放蕩軍人すごろくスタート地点、タヒチでタヒチガールズからつけられた渾名だったとか。その後セネガルで黒人女性とムフフ、イスタンブールでムスリムガールとオホホ、挙句に来日。よりによってらしゃめんの伝統が長く息づく長崎に艦隊寄港するので、十六歳のオカネサン(小説ではオキクサン)がひとときの現地妻としてあてがわれます。リキシャ引きの親族がポン引きも兼ねていて、お世話しましたと。
私が話したフランス人の中には、やっぱりモテもいましたが、アヴァンチュールのつもりだったのに一夜明けて朝になったら金銭を要求されたことも一度や二度ではない(特にブラジルがそんなだったとか)それはやっぱりナンパでなく、プロスティテュートだよね、それをしたかったわけではないのに、結果としてそうなってしまった買春。と、言ってました。ロチサンにとってオキクサンとのらしゃめん契約は、「そこに愛は、あるんか」としかいえないものだったろうので(タヒチやセネガルやイスタンブールに比して)それで日本ボロクソと解釈することも、可能です。まあ読んでて、韓国人がボロクソに言うほどボロクソではないので、比較は大事だなと。
頁39。夕方の行水風景。こういう挿絵が15枚入っていて、ミルバックというオーストリア・ドイツ人とイタリア人ロッシの二人の挿絵画家が、ロチサンのスケッチをもとに描いた『お菊さん』初版本のイラストだとか。
おかしなイラストだけでなく、上のようにカッコいいイラストもあります。右のイラストは、ロチサンのクリティーク本を出した同じく海軍軍人作家クロード・ファレールサン激賞で、小説なんかひとやまいくらでどうでもいい、ロチはこのイラスト一枚がすべて、これだけあればあとはどうでもいい、だそうです。
これもかっこいいイラスト。おくんち祭りなのかハーリーなのか。コウモリが飛んでますが、本文中、黒揚羽が蝙蝠みたいだった、てな箇所があるので、それを踏まえたのか。
船岡サンは60年代に35歳で丸紅、否三井物産を退職してパリ留学するという数奇な経歴の持ち主のようで、わざわざ「円満退社」と書かねばいけない時代だったのでしょうか。
本書執筆時、大学を渡り歩きながらいずれも講師で、助教授とかにまだなれておりませんが、この後東海大で助教授、教授になります。東海大は非常勤講師というイメージですが、かつては、ほかで講師だった人物を仏文の助教授教授にしてあげてたんですね。またやればいいのに。
頁21によると、ロチサンが新教徒なのは母親のテキシエ家"Texier"が代々敬虔なプロテスタントだったからで、父親のテオは母親ナディーヌと結婚するためにカソリックからわざわざプロテスタントに改宗したんだとか。ビッグコミックオリジナルで理不尽なプロテスタント叩きをやってる薙刀の人にも知ってほしい。新教徒はペドだと。いやちがう。母方は一時期新教徒への迫害を逃れてオランダに亡命迄しているそうで(頁147)それだけ大陸のプロテスタントは大変だったんですよ。英国のなんちゃって新教と混同しないでほしい。
ロチサンの日記の一部。頁105。こういう手書きの文章がスラスラ読めるんだから、船岡さんは商社で働くの勿体ない人物でしたと。
大問題の頁138。三度目の来日、義和団事変の余波で山東から日本に骨休めに来た折り、長崎でオキニになった十三歳の舞妓HaaaaNが左。十三歳もありえませんが、この写真を見て、十三歳に見えますでしょうか? 知り合う以前の写真なのかなあ。船岡さんはソノタロー十三歳の手紙をここに書いてますが、どう考えても代書だと思います。そして、船岡サンはフランス語の手書きも読めるし、手書きの毛筆候文(そうろうぶん)も読めたんですね。むかしの教養人はすごいなあ。
この三度目になると、ロチサンは老いもあり、海軍生活でほとんど同居しなかった妻とのあれこれもあり、日本と日本女性のよさを少しずつ認識してゆきます。だからこの十三歳の舞妓HaaaNも、踊りを愛でてるだけだったのかもしれません。そうでないペドワールドだったのかもしれません。分からない。
一度目は清仏戦争の骨休めで、台湾の澎湖諸島から長崎に来航します。この時は前述したようにタヒチやセネガルやイスタンブールと比較してしまうので、日本ボロクソです。というか日本女性ボロクソ。十六歳なのに喫煙してんじゃねーよ、しかもキセルってありゃなんだ、ぜんぜんタバコがおいしくないじゃん、とか。お歯黒批判とか。髪をゆったら全然洗髪しないこととか。オキクサンもおもしろい女性で、ロチサンからすると舎弟のピエールがふたりと同じ床に寝るとか考えられないのですが、蚊帳がないと蚊で眠れないので、同じ蚊帳の中でピエールを寝せてあげなさい、とロチサンに厳命したりします。二人の愛の巣に他人とかそういう話じゃないデショ、と言ったのかもしれませんが、ロチサンもちょっとしか日本語分かりませんし、お菊さんはフランス語完全に分かりませんので、ディスコミュニケーション、コミュニケーションブレイクダウンだったでしょうと。
右はべつの玄人筋のひと。いや、親戚の一般人だったかな。既婚者。⇒房东,大家さん夫妻のワイフのほうです。翌日追記。頁132。こういう、容姿でなく家庭環境から苦界に身を投じるのがデフォの世界を見てると、タヒチやセネガル、イスタンブールとの違いを感じざるをえなかったのだろうなと。
頁26
こういうことはすべて書いてみると楽しそうだが、実際にはぼくをうんざりさせているのだ。
他の土地、スランブールやオセアニアでは、言葉はいつも充分の表現に達していなかった。ぼくは事物のつよい魅力を人間の言語に移し換えるために自己の無力と格闘していた。
反対にここでは、言葉はつよく響き過ぎ、言葉は敏感に震え過ぎて、つまりは言葉が美化してしまう。
現実には、これらすべては平凡でつまらない、バカげた憐れむべき喜劇とぼくには見えるのだが…
そしてぼくは退屈している。
日本女性は醜いとか、目が細くて頬っぺたが盛り上がってるのがどうのこうのと、言いたい放題なのですが、まあ日記なので。公開した作品でもそうだそうですが。
二回目の来日は、あの鹿鳴館体験もあるのですが、マラリアでおかしくなっていて、さらに山東帰りです。チーフーで何をしてたのか分かりません。長崎から瀬戸内海、紀州を経て横浜東京まで。途中、船乗り相手の淫売女性ばかりの街を通る場面があり、三原と言う街だそうですが、下記の小説みたいだと思いました。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
鹿鳴館体験は頁178で、意外なことに日本女性は音感がよくて、「ほぼ正確な拍子でポルカやワルツを踊る」そうで、しかし「国民には趣味がない」「国民的誇りが全く欠けている」「ヨーロッパのいかなる民族も、たとえ天皇の絶対的命令に従うためとはいえ、こんなふうにきょうから明日へと、伝統や慣習や衣服を投げ捨てることには肯んじないだろう」ボッコボコ。
ロチのニッポン日記 : お菊さんとの奇妙な生活 (有隣新書) | NDLサーチ | 国立国会図書館
装幀者=村上善男 扉イラスト=木田レイ
有隣新書は神奈川県に関係する本が多く、本書も横浜が出るはずだったのですが、ほとんどというか、何も出ません。横浜に寄港したと書いてあるだけ。まだ神戸のほうが、ブスがいるとか書いてある。なぜそんな本を有隣堂が出したのか、それもちょっとふしぎ。
とにかくロチサンはときどき口が悪いのですが、対象は日本人だけでなく、イギリスのビクトリア女王も「犯罪者」とハッキリ書いてます。殺害のファトワを出したセポイの反乱残党回教指導者と変わらない。大陸プロテスタントが冷徹な目で英国なんちゃってプロテスタントを眺めるとそうなるのかもしれませんが… そんなロチサンが逝去した時フランスは国葬にしたそうで、そして、売春生活のながかったお菊さん=オカネさんは、三度目の来日時すでに人妻だったのですが、オットとのあいだに子どもが出来ないのが悩みのタネだったそうで、オキクサンの母親とはロチサンは何度も会って、来日記念パーチーまで開いてもらうのですが、彼女の考えで、そこにオキクサンは呼ばなかったそうです。そして50歳のロチサンは十三歳園太郎に溺れる。
谷崎の知人の愛とか、こうしてみるとかわいいものですね。以上
【後報】
《目次》
- 「はじめに」
- 第一部 1885年(明治18年)8. Jul. ~12. Aug.
- 第二部 同年 18. Sep(!)~ 17.Nov.
- 第三部 1900年(明治33年)8. Dec(!)~1901年(明治34年)1st. Apr.
- 1901年(明治34年)1st. Sep. ~ 30. Oct.
- エッセー『日本の婦人たち』"Les Femmes japonaises" 1890年執筆、翌年秋、フィガロの絵入り月刊誌に掲載。
- 編訳者あとがき
- 明治三十年の長崎周辺圖付記
五十路の、まるくなったロチさんの後に、まだまだ東洋人は目が開いてないとか醜いとかサルとか書いてる時代のエッセーをわざわざ挿入しなくても、と思いました。読者の印象はまた悪くなる。まあよくなる必要もないかもしれませんが。以上
(翌日)