『ハリウッド・ハリウッド』"Hollywood, Hollywood."(「MEN'S CLUB」昭和41年(1966年)4月号)
この本でいちばん衝撃を受けた作品。むかしも読んだはずなんですが、理解してないかった。流石『時をかける少女』や『七瀬ふたたび』の作者というべきか、父親に大統領へのなり方を聞く少年の話を書いた、ジュヴナイルの名手(あまり書きませんが)の初期衝動というべきか。
邦キチ!映子さんの向こうを張れるか張れないか(張れない)みたいな'60年代の洋画狂少年のところに映画の神さまが現われ、少年の願い、洋画に出て来るようなすごい美人の女の子に逢いたいという願いを叶えてしまう。
頁280
だが、ほっとしたのもつかの間、今度は背後でハスキイな女の子の声がした。「ねえあんた、こっち向いてえな」
振りむいてびっくりした。おれの坐り机に尻をのせ、とろけるような微笑を赤い唇に浮かべておれをじっと眺めていたのは、金髪の、すごいグラマー美人だ。(略)
あまりの驚きで、おれはあやうく失神しそうになった。「よっしゃ!」と、おれは叫んだ。「もうわかった。もう見たさかい、早う消えてくれ」心臓がとまりそうだった。「いやン」彼女は身をくねらせ、どんな男だってくたばってしまいそうな鼻声を出した。「なんでそんな薄情なこと言いはるのん? うち、あんたに捨てられたら、どこへも行くとこあれへんねん。ここに置いてえな」
「無茶いうな!」おれは泡をくって叫んだ。(略)
彼女は見かけによらず純情らしかった。しくしく泣き出したのだ。「うち、どないしょう。うちは、あんただけの為に存在してる女やねんで。なんで、うちの気持、わかってくれはらへんのん? こない、あんたが好きやのに」そういうと彼女は、畳の上に尻をおろして、だしぬけにおれに抱きついてきた。
(略)
「そないにいうねんやったら、居ってもええけど」と、おれはいった。「おかしな真似したらあかんで」
「おおきに」彼女はうれしそうだった。
これ、『うる星やつら』だろう、絶対そうだろう。私はそう思いました。それと同時に、現在では、たとえば「さかい」は中高年以上のしゃべる関西弁と言われるように、若い世代が使わなくなったコテコテの関西弁が若者言葉として濃縮保存されている、その鮮度に舌を巻きました。読むたび解凍される、生き生きとした前世紀の関西弁。
頁281
「あんた、なんで大阪弁を喋るんや?」と、おれは訊ねた。
「知らん。わからへん」彼女は首を傾げた。
「英語は喋れるんやろな?」
「そら喋れるけど、あんた英語わかるの?」
首をかしげるんですよ。このタイミングで。ラムちゃんやろ、これ、絶対。高市サンもかしげるかもしらんけど、これはラムちゃんやろ。
頁282
食事が終るなり、彼女はまたおれに抱きついてきた。
「や、やめてくれ」と、おれはいった。「おかしなことするな言うたやろ」
「いやン。ねえ、うちを、あんたの奥さんにして」と、彼女は甘えた。「結婚して」
「宿題がある」と、おれはかすれた声でいった。「物理と幾何や」
「そんなもん、やめとき」
そしてその夜、おれはとうとう宿題ができなかった。何故ならーー。いや、おれは高校生だ。こんなことは書くべきじゃない。以下約百八十行カットすることにしよう。
さて翌朝、おれが登校しようとすると、彼女はついてくると言い出した。「そがいにながいこと、あんたと離れてたら、うち、死んでしまう」
しかたなく、つれて行くことにはしたものの(略)
この小説が1965年。松本零士『セクサロイド』が1974年。『うる星やつら』1978年。
右は単行本一巻の表紙。英語版ウィキペディアより。
頁282
とうとうおれたちは学校についた。(略)しかたなくおれは彼女を教室につれて入った。
たちまち教室中がしんとした。
(略)いやまったく、クラス一の美人だった筈の早苗なんか、彼女の前では、泥臭い田舎の小娘だ。女どもは早苗を中心として、知らずしらずひとかたまりになって、実に複雑な眼で彼女を凝視していた。自分たちの自信を台なしにした彼女に対する憎悪もあったろうし、何とかして彼女の欠点を見つけだしたいという焦りもあったろうが、結局誰ひとりとして彼女に話しかけようとする者はなかった。(略)
おれは自分の椅子に腰をおろした。彼女はおれの隣の席に、あいかわらずおれに抱きついたままで腰をおろした。(略)
始業のベルが鳴り、やがて英語の教師が入ってきた。(略)
「あ、あの、生徒でない方は……」彼はそこまで言ってからあわてて英語で言い直した。(略)
彼女はゆっくりと立ちあがり、教師に流し目を送ってから流暢な英語で喋りはじめた。どうやら、不粋なことをいうなとなじったらしい。教師は顔を赤くしてOKといった。(略)
しのぶとラム初邂逅を彷彿とさせる場面、と、私は思いました。けも・こびるのひとはSF好きな学生だったから当然筒井康隆にも親しんでいたでしょう。しかしここからがちがう。筒井サンはお得意のハチャメチャSFに、高橋留美子サンはまた別のベクトルで群集劇に、そしてそれ以外の凡百のエピゴーネンはつまるところ『セクサロイド』から一歩も進まないサル男子の営みに終始。
1983年、ヤンジャンで矢野健太郎サンが『ネコじゃないモン!』というマンガを始めた時、高橋留美子に絵が似すぎているということで大々的にブーイングが起こったそうです。その少しあとにその話を聞かされた私はまったくピンと来ず、絵も似てないしテイストもちがうと思ったです。大学漫研界の潮流も知らなかったし。ただ、コミケでおそるべき熱量と規模で高橋留美子マンガのエロパロ同人誌が売り買いされていた状況からすると、商業誌でのエピゴーネンは出るべくして出たんだろうと(似てないと今でも私は思ってますが)思います。そして、あんなに似せるのはルール違反と憤っていたのが女性で(私はその人からその情報を教えてもらった)、後年矢野健太郎という人が別名義で(本人は否定)書いたエロが相当に男尊女卑なSMものばかりだったので、本能的に察知したのか富樫、という感じです。
私はこのジャンルに疎いのですが、たまたま知っている作品が例えば下記、エリア88や親子鷹の新谷かおる作品です。
主人公が美少女型パソコンから常に性行為を迫られるというシチュエーションが本作の基本設定となる。
けっきょくこうなってしまうし、女性が描いたとしても、へんな忖度があって、『うる星やつら』のようにはなってません。なぜ高橋留美子作品があれほど長期間膨大な量のエロパロ同人の攻勢にさらされながら、超越出来たのか、最初にこの筒井作品と出会っていて、それを能く自分で消化し尽くしたから、ではないかと、勝手に思っています。この小説は、ネタバレでいうと、もしジャイアンやスネ夫、しずかちゃん、さらにはのび太のママやパパにもドラえもんがひとり一体いたら、という方向にヒネる、ひねらずにはいられないそれが筒井テイスト、なのですが、高校生とか大学生のけも・こびるの人がそれを読んで、この子、AIみたいなリアクション芸人として描かれてはるけど、この子にも気持ちがあったら、どうなんやろう。悲しがったり泣いたりする時は、ほんまにそがいな気持ちやったんちゃうかなあ。せやしそうでない時はケロッとしたはって、じめじめせえへん。そういう子やったらその後どういうふうにこの地球で生きていかはるんやろか。新潟の人なのでこのように関西弁(エセですが)では考えなかったと思いますが、でも考えたとしたら。そしてそれがオリジナル作品に生かされたとしたら。
他の作品の感想も記すべきですが、眠いので後報。おやすみなさい。
『ケンタウルスの殺人』"Murder by the Centaur."(「漫画読本」昭和41年(1966年)4・5月号)
宇宙を舞台にしたSF推理小説。初期なのでいろいろチャレンジしていたと。なので、サンデ―毎日に風俗ルポを書かされたり、先祖の筒井順慶を主人公にした歴史小説を書けと無理強いされたりする。
『タック健在なりや』"Is Tuck Still Alive?"(「MEN'S CLUB」昭和41年(1966年)5月号)
エリート狂騒曲。受験戦争の風刺。そんな感じ。主人公の名前が作者を想起させるのが、謙遜といえば謙遜。
『お玉熱演』"Otama's Passionate Performance."(「話の特集」昭和41年(1966年)6月号)
19歳の関西人女性(美人ではない)が芸能界に憧れて、上京してひとり暮らしして働いて、チャンスを伺う話。こういう人って、東京の学校に通うもんだと思ってましたが、1966年だと、まだロクに専門学校もないかったのか。「うちだす」とか「歌は歌わいでよろしの?」とか「あらしまへんな」とか「おまへんねんけど」とか「何をやりまんの?」とか19歳の娘さんがぺらぺらさべってた時代があったんですねえ。今じゃ考えられない。ミナミの帝王かこの娘は。広島なら、今でも女性もワシとか言うという認識があるんですが、関西の女性はだいぶ話し言葉が変わったと思う。
『トラブル』"Trouble."(「SFマガジン」昭和41年(1966年)7月号)
長沢まさみがいちばんエロい映画「散歩する侵略者」を想起するような内容です。でも地球人だった時の自我もあるんですよ。登場人物たちは。
まあやっぱり殺戮が始まるんですが、主人公がこういうことを独白しだすのが、なんか筒井サンらしくないというか、初期だからこういう路線もやってみた、なのかなあと思いました。
頁325
(略)おれはこのまま、自分が何故殺されるのかわからないままに、ここで死ぬことになるのかもしれないが、昔、赤紙一枚で召集され、何が何だかわからないままに戦場へつれて行かれて戦死してしまった大勢の人間だって、きっとこんな気持だったに違いない。彼らが愛国心を持っていたかどうかは別問題だ。愛国心というのは、他の国の人間を殺すためのものじゃないし、だいいち愛国心なんてものよりは人間の生命の方がだいじなのに決っている。まして愛国心のために自分が死ななければならない理由なんてものは何ひとつない。(略)
小松左京サンや半村良サンでなく、筒井康隆サンがこんなきの独白を主人公にさせてる。流石初期作品。ブレている。さらにいうと、田辺聖子サンが若い時、女は天下国家を論じないから男より劣ってるとかなんとか男から説教されて猛反駁した話も思い出しました。映画プレデターで登場人物がウヨサヨ的な政治思想を語り出したら、そりゃいやですよね。田辺聖子サンは、恋愛小説の土俵でそういうことが言いたかったんだと思う。TPOとして。
以上