『私の中国捕虜体験―証言 昭和史の断面』 (岩波ブックレット214)読了

駒田信二さんが貴州で捕虜になったということはWikipediaかなんかで読んでいて、
日本人だと言い逃れをしようとする共匪の疑いをかけられていたとも聞いてましたが、
それをご自身が1990年神大人文学会で講演されたものに手を加えたのが本書とか。

駒田信二 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%BA%8C

事実が空想を凌駕しすぎて、ウソくさいと最後まで本人は危惧していたとか。
駒田さんが司馬遼太郎に話したら、(小説化は)うーん難しいみたいな感想だったそうです。
確かに読んでてそういう箇所はあって、だから、遡行して考えたいと思います。
まず、正確には捕まったのは、意識朦朧なのでおおよそですが、
貴州でなく、貴州に近い湖南で、貴陽に送られて、
それから重慶送りだったとか。望龍門軍統看守所。
作者自身も混同してたそうですが、共匪専門の監獄は別に白公館というのがあったとか。

白公館_新三峽旅游網
http://big5.yzcruises.com/destination/chongqing/1829.html

なんで貴州まで行ってたのかなあ、と疑問でしたが、貴州に近い湖南なら納得です。
なんでそんなとこまで南下してたのか、は、大陸打通作戦でFA。
なんで殺されなかったのかは、背後で鹿地亘の働きかけがあったとかなかったとか。

鹿地亘 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E5%9C%B0%E4%BA%98

で、こっから、事実は小説より奇なりシリーズで、なぜ殺されそうになったのかは、
日本人と信じてもらえず、日本留学経験のあるインテリ中国人の延安派だろうと、
目されて、具合の悪いことに、その辺に、母親が日本人のそういう党員が潜伏してて、
手配書きの似顔絵が似てたんだそうです。で、駒田信二さんは、自分の所属部隊の編成も、
装備も言えず、軍人勅諭も戦陣訓もそらんじることが出来なかったので、
そんな日本兵いるか、アホか、留日経験のある中国人が騙っとるだけじゃろ、
ということになったそうです。なんで編成も軍人勅諭も暗記してなかったのかは、
反抗精神が旺盛で、古参兵のビンタで片耳が破れたこともあって、
絶対覚えるかと思って覚えなかったという… 信じてよいのだろうかと思いました。
なんでそんな反抗的なのかというと、そもそも二十八歳で補充兵として徴兵、
第二乙種なのになんで赤紙来るんじゃ、という不満が理由だそうです。
なんで第二乙種なのに出征になったのかというと、コマダさんの推測では、
島根の旧制高校の漢文教師だったのですが、まあ支那文学屋ということで、
当時は全国津々浦々蓑田胸喜一派の密告ルートがあって、なんかチクられて、
それで懲罰的に召集令状が来たんじゃいか、という問わず語りでした。
その真偽は兎も角、コマダさんは高校生の時陸上選手で、
明治神宮のインハイ1600メートルリレーで優勝新記録保持者だったそうで、
なんでそんな人が第二乙種なん? という読者として当然の疑問を私は持ち、
…それは答えが書いてません。やっぱなんかウラから手を回して、
第二乙種にしてもうたんかな、実家が地主なんで、帝大出てからしばらく、
働くつもりはなかったそうなのが仕方なく島根に行って漢文教えてたそうですが…
ここがモヤモヤしてて、なんか物語としてダメじゃんという気がしました。

あと、駒田さんが自身の体験をフィクションとして残しておかねばならぬ、
の契機として、重慶で、ホントに滞日経験のある延安派のなりすまし日本人を、
そのウソ(実際にはありえない高校医学部という学歴)を見抜いて、
取り繕って大学医学部と修正して国府将校に報告しようか、
奴の学歴、高校医学部はありえないと補足して言おうか悩んで、結局、
奴は高校の医学部卒だと言ってましたよ、とだけ言って、その翌朝未明、銃声。
 "枪毙" と思い込んで戦後その罪の意識が脳裏を離れることがなかったのが、
彼は死んでなかったと中共訪問時判明し、へにゃへにゃと崩れ落ちます。

そんなこんなで、これは、ある知識人の捕虜記録で、
しかも中国畑の人の捕虜記録なので、あまり一般に還元できんと思いました。

写真で、あちらの人がシャツの裾を出してるのに、
駒田さんがシャツはズボンに入れてるのが面白かったです。以上